第4話 「おはようございます」

 ジョエルが冷凍ブロッコリーをチンしたものを取り出していると、玄関から音がした。ウィリアムだ。ジョエルはふっと頬を緩め、


「おはようございます」

「おはよ」

「いただきますか? これから盛り付けるのですが」


 こくんとウィリアム。

 家の電気は全く点いていなかったが、外は晴天だった。カーテンの隙間から日差しが差し込み、卓上にある今朝の配膳を照らしている。トーストとチリビーンズ、スパムの缶詰。ウィリアムのほうにはチョコバーが置いてある。


「何これ」

「いただきものです。美味しいですよ」


 ジョエルはそこにブロッコリーの皿を追加しようとしたのだが、急に体が重くなり、ガタリと食卓に手をついた。カタンッ、と皿が地面に落ちる。


「ジョエル……!」


 ウィリアムが肩を支えてくる。プラスチック製の皿は割れなかったが、水っぽいブロッコリーが散らばっていた。

 ジョエルは目元を軽く押さえると、


「すみません……少し、寝不足だったようです」

「寝不足?」

「ほんの少しです」


 と背を伸ばした。ウィリアムは、すっとしゃがんでブロッコリーを拾い上げ始めた。

 ジョエルもゆったりしゃがんで、皿を取る。


「洗いましょうか、ここにいれてください」

「うん」


 配膳にブロッコリーが追加されると、兄弟は席に着いた。ぎしっと椅子に片膝を立てたウィリアム。ジョエルは気にせずに、スパムをナイフで切っている。何度注意しても直さないからだ。最初は卓上に足を乗せていたため、これでもかなり改善されたのである。

 ウィリアムは切ってもらったスパムをトーストにのせながら、


「昨日は何したの?」


 卓上に滴ったブロッコリーの水分を、ジョエルは布巾で拭いていた。


「昨日は、普通に授業を受けました。そのあとは、交通整理員のバイトを一時半くらいまで。あ、雨は大丈夫でしたか?」

「大丈夫」


 ウィリアムは口いっぱいにざっくりと頬張った。トーストのかけらがパラパラと落ちる。ジョエルはそれ以上の返事を期待せずに、チリビーンズを含む。

 弟が嚥下したのを見計らって、


「昨日はどこにいたのですか?」


 ウィリアムは無視した。彼の機嫌を損ねかけていると、ジョエルは気付く。が、


「メッセージは読んだのでしょう? 既読ついていましたし」

「ちょっと忘れてたんだよ」

「知り合いが言っていたのですが、課外活動の一環で町の清掃ボランティアをしていた時に、あなたの姿を見かけたと。……昼間に、不良と」


 ウィリアムの視線が鋭くなる。ジョエルは全く臆することなく、


「あなた、大学にきちんと通っているのですか?」

「うるせえ」


 ウィリアムが立ち上がったとたん、椅子が倒れるかと思ったが、何とか踏みとどまり、ガタガタンと四脚をついた。ドシンドシンと階段を上る足音。荒々しく扉が閉まる音を聞きながらジョエルは食べかけの朝食を冷めた目で見つめていた。それから、卓上に置いたままの治療費が目に入る。弟と一緒でないと食欲が出ない。しかし、最低限は食べておかねばならないだろう。死んでしまうから。

 ジョエルは最低限を腹へ押し込むと、その残りと、ウィリアムの分にラップをかける。チョコバーを治療費の横に添える。


 このままでいいのだろうか?


 ジョエルは食器をシンクへ運ぶ。

 一度、膝を突き合わせてじっくり話し合うべきだろう。たとえ、ウィリアムが嫌がったとしても、彼の堕落について指摘せねばならない。

 ジョエルは蛇口をひねる。

 もう互いに二十歳を過ぎているのだから、いつまでも生活保護と自分だけの収入でやっていくわけにもいかない。しかし、ウィリアムはというと反抗期で、大学に通っているかどうかも怪しい。あまつさえそういう疑惑があったのに以前、彼が不良とつるんでいるのを見た、と言いだす知り合いも現れた。そのうち、高校生の時とは違って、彼は決まった時間に帰宅しなくなったのだ。二人での夕食の時間も無くなり、お互いの生活がすれ違い始めた。気が付けば、そんなことが起こり始めたのはずいぶん前からだった。すれ違いを多忙にかまけて直さないでいる間、彼との間には簡単には元に戻れないほどの隙間が空いてしまった。たまにこうして話す機会はあるけれど、ジョエルはウィリアムのことがよく見えない気がした。皮膚を隠すため買ってあげた長袖フードパーカーとマスク、ファンデーションに、遮られている気がした。

 ジョエルの皿を洗う手の動きが鈍くなる。


 両親がいない自分たちは、施設の大人や、学校の先生を頼って生活していた。親無し、というだけで周りからは様々な視線で見られる。特に、「可哀想」だと思われるのが嫌だった。確かに、ウィリアムは可哀想だった。生まれつきの痣が原因で周りからいじめを受け、病弱で、頭も良くないから、誰かの助けが必要なのだ。

 ウィリアムが破傷風で入院した時、担当医から言われた。


「お兄ちゃんのジョエルがしっかりしてあげてね」


 ジョエルは、可哀想な弟を守るために立ちまわり始めた。彼と一緒に勉強を頑張り、彼が虐められれば庇って、痣が人目に付かないように長袖を着せた。もちろん子どもだった自分には大変だったが、


「ジョエルはたくさん頑張ってていい子ね」

「お前の弟ってどんくさいよな。大変だろ? よくやってるわマジで」


 人からそう言われて、ジョエルは誇らしい気持ちになった。自分の頑張りが認められたのだ。

 働いて、勉強して、ここまでやってきた。順調にいけば、夢はかなう。

 

――いま、夢への障害になっているのは?


 たらいから水があふれ出し、ジョエルはハッとした。泡塗れの食器をくぐらせ、キュッと蛇口を閉める。

 バイトのシフトもない完全な休日、考えている暇は無かった。目の前の問題がいくつもある。だったら、すぐに手をつけられるものから片付けよう。とりあえずは、少しでもたくさん勉強して好成績をキープし、奨学金のスカラーシップとグラントを打ち切られないようにしないといけない。今日は大学も、いつも利用する図書館も休館日だ。ほかの図書館との蔵書整理を一斉にするらしい。部屋でするしかない。

 タオルで濡れた手を拭うと、ジョエルも自分の部屋へ向かった。治療費を入れた封筒が眩しく光っていた。


 一時間ほど、ジョエルは机に向かっていた。エアコンからの冷たい風に、寝ぐせを揺らされている。以前節電のためにエアコンを切っていたら、熱中症になり救急車を呼ばれてしまったのだ。救急車代に一泊分の入院費、加えて病室に来たウィリアムの焦燥ぶりを見たジョエルは申し訳なくなり、それ以降はギリギリの温度でエアコンを付けていた。あの時に掛かった費用はしばらく借金として残っていたが、運び屋のバイトを繰り返したことによって、ウィリアムが大学に行く前には清算できた。何を運んだのかはわからない。

 スマホの通知音が鳴ってから、ハッと集中が切れる。カレンダーの通知だった。一週間後に、バンジージャンプをする予定が入っている。終えた後は周辺の地域の散策だ。


「そういえば、そうでした。荷物は揃っていますかね。サングラスだけは忘れないようにしないと」


 ジョエルはバックパックを取り出して中身を広げた。

 生活がカツカツでありながら、ジョエルはありとあらゆる場所へ旅行に行き、さまざまな経験を積んでいた。生徒に何を訊かれても答えられる先生になれるように、という彼なりの信念のもとによる散財だった。もちろん、生活費と治療費、貯蓄を踏まえてからの予算内だ。現地の宿泊費や交通費は、学校のペンパル活動で知り合った友人の家に泊めてもらうことで浮かせている。世界中に知り合いを作っていた。生活が苦しい原因の一つにこの旅行が挙げられるが、自分自身で稼ぎ、コツコツと貯めた金だ。それに将来に必ず役立つことだから、仕方のない出費だ。誰にも文句は言わせない。

 一通り確認すると、ジョエルはアイスコーヒーを淹れて机に戻り飲んだ。勉強漬けの体にこもっていた熱が蒸発していく。コップをコースターに置くと、ジョエルは頬杖をついた。久々の猫背に、緊張していた背筋がじんじんと疼く。広げたままのノートに突っ伏す。紙がひんやりしていて気持ちがよかった。



 ■



 何かが弾けるような音がして、顔に冷たいものがかかった。ジョエルはうたた寝から飛び起きると、鼻から何かが流れてきて舌へ触れた。苦い液体だ、ジョエルは噎せ返る。光に慣れてきた涙目の視界に入るのは、ノートを黒く濡らす液体、倒れたコップ、そして、痣が浮き出た手。

 彼はジョエルと目が合うと、手を引っ込めた。


「ウィリアム……」


 コーヒーの苦味が喉奥をゆっくり通り過ぎる。ジョエルは睨んだ。ウィリアムは、一瞬怯んだような素振りを見せたが、キッと睨み返すと部屋を出て行った。


「まったく……よくも飽きずに嫌がらせができるものですね」


 反抗期だから仕方がない、と自分に言い聞かせる。日ごろの小言が、彼にとってストレスになっているに違いない。その仕返しがこんなに幼稚なものなら、腹は立つが、愛着もわくものだ。言ったところで直らないのだから、とっとと忘れるべきだ。

 コーヒーは顔にも腕にもかかっていた。キッチンから布巾を取ってきて、さっと後片付けをする。

 布巾を洗っていると、封筒とチョコバーが消えていることに気付いた。部屋に弟の姿はない。窓から外を見渡したが、すでにどこかへ向かってしまったようだ。

 息を吐くと、呼応するようにコーヒーの染みた服が肌へ貼り付く。気分転換のつもりが、さらに別の仕事を増やされてしまった。ジョエルは着替えると、洗面器に水を溜めて服を浸す。今度こそ気分転換がしたい。ジョエルは時計を見ると、マイバッグを持って出かけた。



 水たまりを避けながら辿り着いたスーパーマーケット。いつもより早い時間帯に来たためセール品は少ない。残り少なかったファンデーションと化粧落とし、それと、何とか選りすぐった食品をバスケットに入れ、ついでに無料の求人雑誌を取る。精算を済ませバックに詰めた。

外に出て信号待ちをしていると、背後の店で老婆の声がする。お使いに行った子どもが戻ってきたらしい。

 一緒に並んでいた人々がいっせいに前に進む。信号は緑に変わっていた。歩きながらふと、ジョエルは祖父母について考えていた。自分たち兄弟を施設に預けなければいけない事情が両親にはあった。その時彼らは両親を頼らなかったのだろうか。祖父母の協力はあったが足りない、あるいは協力してくれなかった。はたまた、彼らにも親がいなかったのかもしれない。しかしどんな理由があれど、自分たちにこんな苦労を強いた両親を赦す気持ちはない。


 ――自分は絶対、ウィリアムを捨てたりしない。


 ジョエルはバッグの取っ手を握りしめた。

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