第3話 「ウィル、何見てんだ?」

 「ウィル、何見てんだ?」


 ウィリアムは一瞬顔を上げると、一つ年上のオスカーの翠眼と目が合う。清潔な体温の匂い。いじわるそうにニヤニヤしていて、再びスマホに視線を戻した。


「兄貴から。『どこいる?』だって。うっざ」

「へえ。なんて返すんだよ」

「なんも」


 スマホをパーカーのポケットに突っ込む。


「せっかく心配してくれてんのに、無視すんだな?」


 オスカーはそう言いながらも、そばかすのある頬で心底楽しそうに笑っている。彼の耳に付けられたいくつものピアスが、裸電球の灯りを受けて瞬く。彼はこの場所ではリーダー的な存在である。二人が座っているソファの革が擦れて音を鳴らす。


「うるせえ」


 ウィリアムは顔を背けながら、外の様子が気になった。夜中だけれど、雨音の激しさでどれくらい酷い状態なのかがわかる。コンクリート打ちっぱなしのこの部屋によく反響している。CDプレーヤーの音を掻き消すほどだ。


 ウィリアムがいるのは、通称『溜まり場』。ダウンタウンから外れ、建物の外観が見ずぼらしくなり始めた団地。その路地裏の奥にあった。辺りには派手な格好のヤンキーや麻薬の売人がいる。ここはオスカーの持ち家で、キッチンとユニットバスが付いていて、一通りの生活用品がそろっている。友人たち三人とともに駄弁ったり食べたり寝泊まりしたりと、とにかく自由に過ごせる場所だ。

 湿った空気に漂う煙草の匂いが、室内に流れ込んできた。


「アレク! サムはまだかよ!」


 オスカーは入口に向かって叫んだ。

 そこにいるのは、筋肉質な大男、アレクだ。扉を開けたまま突っ立って喫煙中である。彼は目深に被った野球帽の下から青い瞳をのぞかせた。アイリッシュには珍しい金髪の坊主頭。さらに帽子の上から紺色のフードを被っていて、見た目通り暑いらしく流れた汗が首筋に浮いている。ウィリアムは、彼が帽子を脱いだところを見たことがなかった。けれどそれは、自分が人前でマスクを外さないのと同じだろうと思っている。ウィリアムと同い年の彼は高校卒業後、家業である煙草屋を継いで、本人も好きらしく会うたびに煙草を咥えている。オスカーとは幼馴染らしい。

 彼は帽子のつばをほんのちょっと上げると、つっかえそうになっている頭を下げて扉をくぐり、首を伸ばして外を見渡す。そして頭を引っ込めると煙草を指に挟みなおし、こちらへ左右に振ってみせ、否を示した。


「はあ? おっそ、ナンパしてんじゃねーのか」


 オスカーが悪態をつきながら、そのベリーショートの赤毛を掻いている。生え際にベージュ色が見えていて、それが本来の髪色らしい。同じく染められた眉の、左の眉頭が切れている。アレクは意に介さず再びたっぷりと吸い込み、吐き出した。

 ウィリアムがソファに足を上げた途端、オスカーに蹴られた。


「いって!」

「ソファにのせんなっつったろ!」


 ウィリアムは痛むすねを摩りながら靴を脱ぎ捨てる。結びつけられた家の鍵がチャリンとなった。痣が残るだろう。オスカーはナンパに失敗したという愚痴をこぼし始めた。どうりで機嫌が悪いわけだ。が、彼が女性からモテないのはいつものことである。


 しばらくすると、雨に交じって、どこかで野犬が吠える。そして地面と擦れるボロスニーカーの足音が駆けてきた。


「わり〜わり〜。遅くなったぁ」


 ずぶ濡れのスナック菓子の袋を自身の服で拭っているのは、サムだ。片方の肩が露出しそうなオーバーサイズシャツの下から、縦に割れた腹筋が見えている。


「どこでナンパしてたんだ?」

「してね〜よっ。混んでただけ」

「ってか、くっそ濡れてんな。近寄んなよ」

「はぁ〜? 苦労したんだけど結構」

「『係』がごちゃごちゃ言うな。よこせ、とっとと」


 サムはオスカーへ菓子を渡すと、濡れた紫色の髪を掻き上げた。モデル並みの端正な顔へ垂れる雫を拭っている。実際、母親と四人いる姉がモデルの仕事をしているとオスカーから聞いた。彼も自分と同い年で、兄よりも少し高い身長だ。


「ウィル、タオルあんだろ、そこ」

「あっ」


 オスカーに言われ、ウィリアムは使い古されたタオルをサムに渡す。「サンキュ」と彼は美しく微笑んだ。いつもは奇麗な灰色の目は今、マリファナの副作用でほんのり充血していた。

 アレクがスマホを弄りながら室内へ戻ってくる。まだ長かったはずの煙草はどうしたのかと思いきや、奥のほうの水溜まりに沈んでいた。

 サムが盗んできた菓子をカーペットに広げる。グミが数袋と、チョコカップケーキ二個、ポテトチップス二袋、ビスケット一箱など多種多様だ。ポテトチップスは継ぎ目に沿って破いて全開にし、濡れて柔らかくなったビスケット箱は引き裂くようにして開封した。


「今日も大量だなサム」


 ドアノブに濡れた靴を引っ掛けて戻ってきた彼にオスカーは言った。


「チョロいよ、アマは。ちょっと話しかけるだけで注意が逸れるんだから」

「お前だけだろできるの。そこまでやったんなら一人くらい連れて来いよ」

「やだよアマなんて」


 ふぅとサムは黒ズボンを脱いでシャツと下着だけになる。絨毯に足の指を絡めると大の字に倒れた。


「走ったからあっついな。ソーダ取ってぇ~ウィル~」

「あ、俺も」


 言われたウィリアムはミニ冷蔵庫からソーダを取って二人に手渡す。サムは額に缶を当ててから、喉に炭酸を染み渡らせる。ウィリアムも一本取って開けた。すると、横で咀嚼音が聞こえた。


「あ、アレクぅ、それ二つしかないのに~」


 三人をよそに、アレクはすでにカップケーキを一つ齧っていた。こちらを気にも留めずもっくもっくと頬張って片手のスマホをいじっている。


「早く食おうぜ、あいつが食うとすぐ無くなっちまう」


 オスカーが言ったのを皮切りに、ウィリアムもビスケットを一枚取った。マスクの下のほうを摘み、その隙間に挿し込んで食べる。ぼろぼろと欠片がこぼれた。それを見て、オスカーが忌々しそうに睨んだ。


「きれいに食べろ」

「うるへえ」


 ウィリアムも睨み返し、オスカーが手を伸ばしていたカップケーキを掠め取る。オスカーは舌打ちをすると、グミを摘まんで静かに噛んだ。サムはポテトチップスのチーズ味の袋を独り占めしていた。ウィリアムがマスクを汚さないように食べていると、


「ウィル、バイトの面接どうだった?」


 サムが口の周りに付いたチーズ粉を拭いながら訊いてきた。マスクをつけながら、ウィリアムは答える。


「受かった」


 ウィリアムの言葉に、一同は「おおっ」と盛り上がった。


「よかったじゃ~ん、すぐに決まって」

「マジかぁ! どこの甲斐性無しだよ採用したのは」

「うるせえ。簡単な雑用だから良いって言われた、裏方の」

「なら大丈夫そうだな。まあお前なんてそれくらいじゃないと黒人より邪魔だからなあ」

「クソが」


 ウィリアムはそう言ったものの、彼の意見には賛同していた。

 ウィリアムは普段、その顔の痣をマスクで隠し、ジョエルが買ってきた長袖のフードパーカーを着ていた。

 子どもの頃は、虐待を疑われて何度も通報された。噂まで広がって、腫物扱いする人や、からかってくる人がいた。大人になってからは人前で痣を晒すのはよくないとジョエルに教えられ、ファンデーションと化粧下地を買い与えられた。でも塗っていると痒くて違和感があった。するとジョエルは高いものを買おうとしたから止めた。話し合って、知り合い以外の不特定多数の前に出る時や、服やマスクで隠せない時だけ塗ることになった。だから、バイトの時は塗っているのだが、絶望的な不器用さと人見知りは隠しきれなかった。前のレストランでは、皿を立て続けに割ってしまったり、注文を聞き違えることが頻発したりして解雇されてしまった。辛うじて貰えたチップは皿の賠償にすべて消えた。

 ここの三人は普段の会話の中で容赦なく痣をいじるため、逆に新鮮だった。他人が触れたがらない部分に触れてくれると、ウィリアム自身もだんだんと感化されて、ここでなら肌を晒してもいいかもしれない、と思い始めている。

 不意に、ウィリアムの頭を何かが鷲掴みにした。


「わ、何だよ!」


 アレクの大きな手だ。わしゃわしゃと無言のまま撫でまわす。ウィリアムは見上げて表情を読み取ろうとしたが、帽子の影に隠れてよく見えなかった。もしかしたらバイトに受かったことを祝福しているのかもしれない。なんだか恥ずかしくなってくる。


「も、いいから、触んなっ」


 ウィリアムが手首を掴んで退けようとすると、ようやく撫でるのをやめた。乱れた髪を手櫛で直していると、サムがその毛先をつまんできた。

「くちゃくちゃだぁ」と言いながら丁寧に直す様子は、ご機嫌そうだ。


「サム、いいって」


 ウィリアムは肩をすくめた。


「そう?」


 残念そうに手を下ろすサム。ウィリアムは目を逸らした。彼からはいつも違う人と会った匂いがするので、触られると落ち着かなかった。


「よっしゃ。ウィルが採用された記念だな。食べろ食べろ」

「あっ」


 オスカーはサムからポテトチップスの袋を奪い取り、ウィリアムのマスクをはぎ取ると、呆然と開かれた口をこじ開け流し込んだ。たちまちウィリアムの口内はチーズ味に侵される。


「ちょ、俺が食ってたやつ!」

「いいだろサム。お前もなんか押し込めよ」

「苦しそうじゃん。大丈夫、ウィル?」


 心配されながら、ウィリアムは何とかチップスをちょっとずつ噛み砕いていた。薄いものが何枚も塊として入っているとチクチクしてたまらない。肩を掴まれて振り返ると、アレクが開けたばかりの缶ソーダを持っていた。


「飲め」


 ウィリアムは頷きながら受け取ると、噤んだ口の間からちびちび吸い込んで、押し流した。

 やっと一息つくと、オスカーにばんばんと背中を叩かれる。げふっ、と肺の空気が漏れる。


「初任給もらったらおごれよ」

「ちょっと、よせよオスカー。ただでさえウィルは金困ってんだから」

「エリート兄貴から金貰ってんのに?」


 兄貴、の単語が出てきて、ウィリアムはフンと鼻を鳴らして膝を立てる。


「あんなクソ兄貴の金なんかいらねーよ」

「嘘つけ」

「『俺が養ってやってる』感がすげーむかつくんだよ。何でもかんでも口出しやがって」


 オスカーがハッとして「わかるわ」と口にした。ニヤニヤとしながら、盗られたままだったマスクをウィリアムの顔に戻した。ウィリアムは睨みながらも、つけられたそれを撫でて肌にフィットさせる。


「そういえば、そろそろお金来るんだろ? 治療費」

「そうじゃねーの?」

「どうせ病院行かねーんだろ今回も? ゲーセン行こうぜゲーセン。『係』当番決めようぜ」

「え、マジ? よっしゃー! ……はあ、ようやく交代かよぉ……」とサムは飛び跳ねて、次いで肩の荷が下りたようにくるりと回る。


「いいよなアレク?」


 オスカーの呼びかけに、アレクはちらっとこちらを伺った。何も言わずに、グミへと視線が移り、数個口に放り込むと、またスマホに視線を戻した。

「ほらほら」とオスカーは得意げになる。ウィリアムはフンと鼻を鳴らした。


「いいぜ、期間は?」

「また一週間でいんじゃね?」

「わかった」


 ウィリアムは何としても勝ちたかった。体力のない彼にとって、罰ゲームの『食料調達係』で一番困るのは、店員に見つかった時に逃げ切る可能性がかなり低いことなのだ。

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