第2話 「ただいま、ウィル」
一年後。
ジョエルはバイトから帰り玄関をくぐると、暗闇に呼びかけた。
「ただいま、ウィル」
扉を閉めると、リビングのほうから呻き声とソファがきしむ音がする。
暗闇を進み片目を押さえ、「点けますよ」とリビングのスイッチをパチンと押すと、弟の呻き声が聞こえる。ウィリアムが俯いて瞼を擦っているのがわかる。眠っていたらしく、顔の血の気が失せて、パーカーのフードがしわくちゃだ。
ジョエルは食卓にビニール袋を置く。
「遅くなりましたが、駅前の新しい店のワッフルですよ」
「ふーん」
「ウィルも見ました? 入学当初からお世話になっていた書店、あそこの隣に新しくできてましてね。なかなか美味しいですよ。ちょうどキングの新刊がセールだったので、行くついでに買ってきました」
ジョエルの話を聞いているのかいないのか、ウィリアムは口を押えてあくびをしながら洗面所に向かった。
冷凍食品を補充していると、顔を洗い終えた彼が戻ってきた。自分と同じ茶髪の前髪から雫が滴っている。
久々に彼の姿を見たが、以前にも増して頼りなくなった体躯が気になった。ジョエルは袋の中を探る。
「開店サービスで二倍の四つにしていただけましてね、二個ずつにしましょう……おや、冷めていますね。温めましょうか?」
「別にいい。これ食べるね」
彼はそう言いながらジョエルの手からワッフルを受け取った。チョコレートがかけられたそれを、あんむと頬張りながらソファに腰かけた。
ジョエルはいつも通りに脱衣所に向かった。リビングのほうからガサガサとビニールを漁る音が聞こえてきて、微笑ましくなった。
軽くシャワーを浴びて戻ると、ウィリアムは黒の布マスクを手に玄関に向かっていた。髪は軽く手櫛で整えただけらしく、先が絡まっている。
「今から出かけるのですか?」
「悪いかよ。じゃ」
そのまま出ていこうとする彼を、ジョエルは引き留める。「何だよ」と悪態をつく彼の頬に付いたチョコレートの欠片を取ってやる。
「気を付けてくださいね」
彼はムッとしてマスクをつけるとそのまま出て行ってしまった。
見送った後、ジョエルが袋を覗くと、ワッフルは二つだけになっていた。
ジョエルは微笑みながらそっと息をつくと、カフェインレスコーヒーを飲んで体を温める。すると、忍び寄っていたはずの眠気が急に牙を剥いて襲いかかってきた。ジョエルは残りを飲んでしまうと、照明を切り、暗闇に身を任せて、寝室へなだれ込んだ。
数時間後、けたたましい目覚ましに叩き起こされる。
「ぁ、ああ……うるせぇな」
目覚まし時計を押さえる手に力が入り、プラスチック製のカバーがギチッと音を立てた。弟の夢を見た。いじめられてぐちゃぐちゃに泣いている姿、過去に見た光景だ。
体を起こすと重たい頭が揺れる。ぼさぼさの寝ぐせを直しながら洗面台に向かい、手探りで明かりをつけ、顔を洗う。目を明るさに慣らして、鏡に映る自分の顔をまじまじと見る。自分とウィリアムは、双子と間違われるくらい、そっくりだ。……ウィリアムに痣があることを除けば。
髪をワックスで整えて、Tシャツにジーンズ、と朝の準備を一通り済ませると、トーストを焼いてバターを塗った。スマホで天気予報を聞く。
『七月十四日 水曜日 メリーランド州ボルチモアの天気は曇り時々雨で、所により昼過ぎから激しい雨が降るでしょう』
(ウィル、傘持ってないですよね……)
彼は体を冷やして風邪で寝込んでしまったことがある。湿っぽいベッドで施設の職員にすりおろしリンゴを食べさせてもらっていた光景を思い出しながら、飲んでいたコーヒーの湯気にやられて、鼻を噛んだ。
着替えを済ませると、食卓に今月分の治療費を置いて、バッグを持って出かけた。
■
大学でジョエルは教育学部を専攻している。その日も、いつもと同じように過ごした。真面目に講義を受け、食育や発達障害について学ぶ。朝に整えた髪から寝癖が跳ね上がり始めていた。窓から見える空を見上げた。昨日よりくすんだ色になっている。帰る頃には、予報通りの雨が降りそうだ。
教育学部を専攻している理由は、自分の学校を作るためだ。小さいころ、弟がいじめられているのを先生が見て見ぬふりをした場面に遭遇したことがある。生涯を揺るがすショックだった。実の親がいなかったジョエルにとって、大人は絶対的な信頼の的だったのだ。以来、弟と同じ目に遭う子供が少しでも減るようにと、それを指針にして生きている。
昼休みになると、ジョエルはキャンパス内の大木の傍にあるベンチでノートを見直していた。ジョエルのもとに、また一人、知り合いが腰かけた。
「ジョー、これ食べる?」
彼はパーティボックスを差し出し、中に入ったチョコレートバーたちを覗かせる。昨夜は新入生歓迎会の余りだろう。お礼を言いながら、二本抜き取る。
「彼女にでもやんの?」
「いえ、弟に」
「ああ、なるほどね」
彼は興味を失ったように体を傾けると、頭を抱えるように背中を曲げた。木の葉の間から見える空模様は、先ほどより灰色が占めていた。
「彼、傘を持って行かなかったのです」
「どっかで雨宿りしてくるんじゃない?」
「それならいいですが」
ノートを閉じてバッグへしまう。
「ジョーは今度の試験受けるんでしょ。ちゃらんぽらんな弟さんのことよりそっちに集中しようよ」
ジョエルはその発言に対する苛立ちを顔に出さなかった。
「こないだ課外授業あったんだけどさ」
「ボランティアでしたね。町の清掃の」
「そうそう。それで、見かけたよ弟さん。真っ昼間からふらふら〜って。大学行ってんだろ、一応? こっちと同じ三月入学制だったっけ。でもどうみても遊んでたぜ、不良と。まだ止めさせてないのかよ?」
「言っても聞かないのです、あの子は」
ジョエルは軽くため息をつく。
「そういや、この間ジョーの家行ったら居たよね。すぐに部屋に引っ込んじゃったけどさー」
あの時の光景は覚えている。せっかく彼が挨拶したというのに、ウィリアムといったら、ぶつぶつ何かを言ったと思いきや逃げるように部屋に閉じこもってしまったのだ。
「すみませんでした、愚弟が」
「そんなこと言うなって! もう!」
彼はジョエルの背中を叩いて強く擦った。「かわいかったよ」
「かわいかった?」
「うん。まさに“弟”って感じ。照屋さんっつーの?」
あのいけ好かない生意気な弟に可愛げを感じ取ってくれたのだとしたらそれはありがたいことだ。たいていの人は彼を好奇か嫌悪の目で見るはずなのだから。
「ああいう子って、リーダー格の奴に反抗できないから、変なことさせられてんじゃないの」
「変なこと、ですか……」
「まあ……ちょっと、そういう……ねえ?」
彼は目配せをして言葉を濁している。ジョエルも言葉に詰まった。嫌な沈黙だ。
「そう言えば、次の考査の範囲はご存じですか?」
ジョエルは彼の話を逸らした。彼は目をぱちくりさせる。
「え、考査あったっけ?」
「ありますよ。ああ、あなたは舟をこいでいましたものね。教授が今年は難しくなるかもしれないと言っていたでしょう」
「やっべマジで? どこよ」
ジョエルが教えると、「サンキュー!」と知り合いは校内に戻っていった。
ぽつりと地面が音を立てた。コンクリートに黒いしみが一つ二つ、ザアッと一斉に増えていく。ジョエルはノートを庇いながら中へ駆け込んだ。乱れた呼吸を整える。いま走った疲労だけではない。弟のことを話題にされたからだ。彼の不出来さを晒された。だが事実である以上、ジョエルにはそれを否定することはできない。勉強や金の工面で忙しいジョエルの悩みの種の一つが、弟だった。
雨はしとしとと午後にも続いて、講義が終わる頃には遠くの雷も交えて元気に跳ねていた。ジョエルはスマホを見た。余裕も持ってバイトのシフトを入れたが、渋滞が起こっていたらギリギリになるかもしれない。
黒い雲が垂れ込め、景色全体が暗い。エントランスに立つと、室内の灯によってジョエルの影が闇に向かって細長く伸びていた。
バス停まで歩くと、時刻表を見つめる。弟は、こんな単純な時刻表を見ることすら苦手だ。もし、いつか弟が自立するとしたら自分は何ができるのだろうと思いながら、雨に濡れたステップを上り始めた。
今夜のバイトは、夜間工事現場の交通整理だ。しばらくして雨はやんだが、生あたたかい空気は気分が良くない。幸い、人通りの少ない地点らしく、腕を上げっぱなしにする必要はないようだ。
左右を見つつ、工事の音に体の中をかき乱されていた。ウィリアムはきちんと帰れただろうか、と空を見上げる。ヘルメットのつばに付いた水滴が横に流れる。食べ物は、温めなくてもいいパンを補充したので心配はない。濡れていたら、きちんと着替えて寝るだろう。服もきちんとハンガーにかけたから、彼が探し出せないということはないだろう。いや、そもそも家に入れるのだろうか。鍵は靴紐に結び付けるよう言っているし、もし失くした場合でもスペアの場所の確認もしてある。だから、おそらく大丈夫。
悩みの種はいつも尽きなかった。
■
自分たちの家は節電のためにいつも暗かった。
「ただいま……」
リビングの照明をつける。ジョエルは目をつぶった。ウィリアムの「眩しい」と抗議する声は聞こえない。どうやら帰宅していないようだ。
しばらくして明るさに目が慣れると、食卓の金がそのままだと気付く。体の力を抜きつつ、いったいどこで何をしているのだ、とため息をついた。
濡れた服をカゴに押し込み、冷えた体をシャワーで温める。白湯を飲みながら、ソファに座ろうとして、しわが目に入った。ウィリアムが寝ていた跡だ。おそらく、昨夜に寝た時のままなのだろう。
ジョエルは部屋に戻り、アルバムを開いた。弟との思い出の写真だ。親の写真は当然無い。毎年、クリスマスから新年のどこかで、二人の成長記録としてツーショットを撮っていた。時折、別のシーズンに撮ることもある。サマーキャンプなどの学校行事、ハロウィンなどのイベント、そして中学生の頃、ウィリアムが写真のコンテストで最優秀賞を取った時の、金色の盾を持つ彼の写真だ。彼は痣のせいでいじめられていたけれど、これらの写真を撮る時は笑顔を見せていた。しかしその写真は高校生の半ばで止まっており、いままで空白が続いている。
カチッ、カチッと、時計の秒針が耳に入った。午前二時を超えている。ジョエルはベッドにもぐった。
《どこにいるのですか?》
メッセージを送り、枕もとに伏せる。脈を打つように頭が痛かった。心臓と脳みそが平衡の位置になったせいだと思いたいが、理性がそれを裏切る。止んだはずの雨が、頭のなかを白く曇らせていった。
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