Brother~兄のジョエルは弟ウィリアムの親になれない~

片葉 彩愛沙

第1話 「薬飲む?」

「薬飲む?」


 ジョエルは「いいえ」と首を振った。「心配をおかけしてすみません」

 ソファに背中を預ける彼の顔は、いつもの浅黒さを通り越して土気色をしていた。食卓の上しか明かりをつけていないから、一層重苦しく見える。扇風機の風が、彼の崩れた茶髪の前髪を揺らしていた。

 ウィリアムは、そんな兄を気にしながら彼のリュックサックを食卓の椅子にどさりと置く。


「大丈夫? どこ行ってたんだよ」

「新入生歓迎会に誘われたのです。それでついこんな時間まで」


 ジョエルは時計を見た。その目は充血している。針は十二時過ぎを指している。彼は数日前に大学に入学したばかりだ。家への帰りが遅くなったのもその頃からだ。


「で、どうしたんだよ?」

「食あたりです。きっと、料理の中に悪くなったものがあったのでしょうね」


 嘘だ、とウィリアムは思った。先ほど嘔吐する兄を介抱したが、コーヒーしか吐き出していない。二人暮らしを始めてから、彼がこっそりアルバイトを始めたことは知っている。ついこの間の夜、スクーターで配達する姿を見かけたばかりだ。よく彼からはバイト先の匂いがしていた。ケチャップの匂い、土の匂い、ガソリンの匂い。

 風に乗って、今日のにおいが漂ってきた。食べ物ではなさそうだ。今朝出かけていった際にはきれいだった黒いパーカーとジーンズが、砂ぼこりでうっすら汚れている。


「ウィルも来年はこういうことが増えるでしょうね」

「え?」

「いろいろ探しました、あなたでも入学できる大学。パンフレットをたくさんもらってきました」


 リュックサックの重みを思い出した。


「お、俺は行かない」

「大学くらいは出ていないと。あと一年はあるのですから、心の準備をたっぷりとしなさい」

「や、やだって……」


 行ったところで友達ができるとは思えないし、勉強についていける気もしない。講義も試験もすっぽかして留年するのがオチだ。そんな自分に金を費やしてほしくないのだ。今までだって留年してもおかしくなかったのに、施設の先生が言ってくれたおかげでしなくて済んだのだ。またそんなプレッシャーに追われるのは嫌だ。

 そう言いかけたが、ジョエルの顔色がさらに悪くなって目をつぶったため、ぎくりと飲み込んだ。彼はまた瞼を開き、視線を合わせてくる。


「少し寝ていれば回復しますよ」

「ほんとに、大丈夫?」

「ええ。……またソファで寝ているのですか。ベッドで寝なさい」


 唐突にジョエルが言った。ソファに残ったウィリアムの体温を感じ取ったのかもしれない。

 ウィリアムは着ていた白パーカーのしわを伸ばし、汗でまとまった髪を手櫛で整えた。ウィリアムはジョエルと顔がそっくりだが、一歳違いの兄弟である。身長は一八〇センチと高めで、兄はさらに一センチ高い。それに、アウトドアで浅黒い兄と違って、自分は色白だ。そして明確に違うのは、生まれつき自分の体中にある痣である。それは大きさが様々で、色も赤かったり青かったりする。特に目立つのは、顔の痣だ。左目元にある大きな青い痣、そして口角にも小さな赤い痣があり、まるで殴られたように見える。


「いまはそんなこといいだろ」

「よくありません。風邪をひいたらどうするのですか? 施設にいた頃と違って、常に大人が周りにいるわけではないのです。私がいない間に、あなたが倒れでもしたら、誰も面倒を見てくれないのですよ?」


 兄弟なのに、まるで親子のようだ。


「う、うん……わかった。わかったけど……」

「けど?」

「ジョエルは、大丈夫なのかよ?」


 彼は難関大学に合格した。ほとんど毎晩机に向かっているのも見ているし、それに加えてバイトまでしている。明らかに大変だ。


「大丈夫です」

「何か食べる?」

「自分で用意しますから」

「俺がやるよ……冷凍グラタンあったよね」


 食卓のすぐ横にはキッチンがあった。何とか助けになりたかったのに、ジョエルは微笑んだ。彼は最近やつれてきているのか、目元が落ちくぼんで暗い。そんな顔で見られると、身がすくみそうだ。


「レンジのセットの仕方、わかります?」


 優しく訊かれて、頭が真っ白になった。わからなかった。小さい頃から不器用だったウィリアムは、やることなすこと兄が代わってくれていた。そうやって成長した彼は、家電の使い方というものを記憶に残す発想すらない。ウィリアムはその視線に耐えられず、おとなしく部屋に行くことにした。



 リビングから階段を上る。二階にはクローゼット、物置、兄弟それぞれの自室がある。

 部屋の扉を開けるとカーテンが開けっ放しで、棚に立てた『フォトグラフコンテスト最優秀賞』の盾が月光を受けて白く光っている。ベッドに横たわるも、ジョエルが心配で眠れない。一階からは特に音がしない。レンジで何かを温める音も、玄関から入ってすぐ横の浴室でシャワーを浴びる音もしない。ソファの前にあるテレビを見ている様子もない。

 しばらくすると、足音が近づいてきた。思わず目を閉じた瞬間、ガチャと扉が開く。

 近づく気配。足元のマットレスが沈んだ。ジョエルが腰かけたのだ。視線を感じる。ウィリアムは寝たふりを続ける。

 体重が移動する……ウィリアム自身の体も沈み込む感覚。と、こめかみに柔らかいものが触れ……離れた。ヒヤッとする。

 背中側の毛布が持ち上げられ、冷えた空気が舐めてきた。その直後、温かい胸板が触れてきて冷気を追い出す。ジョエルが入り込んできたのだ。腕が伸びてきて、包むように抱き着かれる。

 びっくりして、息が一瞬止まる。寝たふりがバレないように、ゆっくりと、普通の呼吸に戻した。しばらくジッとしていると、ちょっとずつその腕の力が抜けてきて、なめらかな寝息が首に当たった。

 骨ばかりの自分と比べて、筋肉もついている兄の体を感じる。

 兄が甘えてきたのは、小さい頃以来だ。やっぱり、何かあったのだろうとウィリアムは思う。

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