4-18

 腕を引いて漕ぐと、水の中をオールが滑る音が聞こえてくる。

 静まり返った湖にはその控えめな音が鮮明に響き渡る。

 平たい水面にも、ボートの作る波紋で変化が生まれる。そしてまた凪へと戻る。

 この湖もまた、終わりがあるのかないのか……。

 さっきまでの畑と、変わらないのではないか。

 頭にそういう思考が浮びながらも、体は一定のリズムで漕ぐことをやめない。心も、妙に落ち着いていた。

 向日葵のざわめきから逃れたここは、本当に静かだった。

 白いボートは底の塗装が剥がれ落ち、何度も人の座った後が浮かび上がっていた。

 ずっと同じ動きで、同じ音だけを聞いていると……なぜか神妙な気分になって来る。

 俺は……。このボートが、あのベンチの生まれ変わりなのではないか……とかを考え出す。

 ただの頭を持て余したやつの妄想だ。

 だがこの、俺の前にひとつ空いた空席が、記憶のベンチと被った。

 水に浮いたベンチに一人腰掛けて、この湖を渡っている。

 そんな気分だった。

 それからほとんど無意識的に腕を動かしながら、ずっと去年の事を考えていた。

 去年の夏休みの間、青八木が居た時の記憶を順にたどるように。


「…………」


 気づけば俺は、それを何週繰り返したのか、分からなくなっていた。

 ただ繰り返し記憶を探るたび、彼女の表情や仕草、声色が浮かび上がって来る。

 あの日々で、それらと同時に形作られていった思いが、また同じ所に戻って来る。

 ベンチはゆったりと流れて、揺れる月面に流れ着こうとしていた。

 黄色く丸い、夜に浮かぶ月だ。

 このベンチは、ただそのときを待っている。


 (おおーいっ)


 前方はるか遠くに見える陸から、そんな声が聞こえた気がする。

 そして何かが小さく、健気に動くような……。


「……」


 ……あの子供が、手を振っていた。

 その顔が、月明かりに照らされて完全に見える。

 見たことのない顔でも、俺はそこではっきりと確信した。

 ああ……あれは、俺だ。

 かつての俺だったんだ。

 俺は頭の上で、大きく手を振った。子供もそれにこたえて、降るのを大きくする。

 そうだ。裏切られたから何なのだ。

 あれを、もう一度やるのだ。

 信じる事は、できない。

 そのはずなのに、何故か俺達はそれをやっている。確実にやっているのだ。

 それは単に、信じるしかなかっただけなのかもしれない。

 時間に追いやられて、そうせざるを得なかったのかもしれない。

 けどそれでも、信じると言うのをやっているんだ。

 時間と言うのは、不可能な事を可能にするのかもしれない。

 ……時間。

 時間、か……。


「…………そうか……」


 俺が信じるべきものが、分かった。

 俺は…………思い出を信じる。

 彼女との時間を、信じる。


 月面へと、ベンチは漂着した。

 そして水面の月を超えて、さらに進み続けるのだった。

 向日葵はきっと、夜も育ち続けてる。

 ……俺は彼女に、ここに居て欲しいんだ。

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