4-17
視界は向日葵の太い茎と、大きな葉であふれている。
俺が通った後の向日葵たちは揺れて、そしてまた何事もなかったかのように静まるんだろう。
月明かりも微かなこの畑の中で、方向感覚だけは失わないように前を見据える。
今日ずいぶんと酷使してきたはずの足は、しかし悲鳴を上げるでもなく、がしゃがしゃと回り続ける。
多分、頭が興奮状態にあった。
一刻も早く、向こう側へ出たいという気持ちだった。
「……」
しかし、嬉しさはないんだ。
もうすぐ会えるかもしれない、という気分ではない。
だって……。
……もう……ずっと走っていた。
電車から見た時の、駅からあの場所への距離は数百メートルだった。
だが今俺は、それを何倍も走っているに違いない。
「……」
でもそれは、最初から分かっていたことなのだ。
今の自分の心持ちでは、どうやってもあの子に会えることはない。
だって怖いのだ。
やはり、今でも怖かった。
こうやって向日葵をかきわけて進むとき、その大きな花々が、俺を見下ろしている気がする。
それが学校のあの、廊下の景色とかぶる。
あの廊下を、生徒の層に押されながら進んでいる気分だ。
あらゆるグループが存在している。
でも実の所それは一つの大きな組織なんだ。
その中には大きな流れが渦巻いでいて、生徒たちの話題はそれに大きく影響される。時には、全くの一色に塗りつぶされるほど。
……その話題が、自分の方に向くのを恐れている。
そうなる時は必ず、悪い意味合いでのことだと心の底で確信しているから。
「……」
……そう。
踏み出した後の、悪い結果を信じている。
そして俺は、信じられていない。
忘れたい。
「……」
立ち止まる。
不思議と息は上がっていない。なぜかもう、疲れても居ない気がした。このまま 延々と走り続けられると思った。
だが、たどり着くことはない。
止まったまま体を半身ひるがえすと、背後だった方に顔を向けた。
「……居るのか?」
……静かだった。
姿は見えないし、声が返ってくる気配もない。
気のせいか……?
そう思った時、足音が鳴った。
小さい音は近づいてきて、やがて暗がりから、その姿は現れた。
「…………」
子供の、男の子。
見たことのない人物だ。
でもいつか会ったことのある気配を、走りながら背中に感じていたのだ。
「去年の夏にも会ったか?八月の終わり頃……」
「……」
「…………」
何も答えない子供は、前を向いて立ち尽くしていた。目元が影で見えない。
「お前も、俺の人生に関係がある人間なのか?」
「……」
「なにか、俺の記憶を知ってるのか?」
「行かないの?」
「え……?」
「さっきまで走ってたじゃん」
何でもない風にそう言う。
「このまま進んでても、着きそうにないんだよ……」
「でも出たいんでしょ」
「ああ……そうだよ」
どうすればいいんだか。
いや……必要な事は、分かっているんだ。
「忘れたいんだ、沢山のことを」
「なに?それ」
「今まで覚えて来た事を、沢山。そうすれば、きっと俺は向こうに行けるんだと思う」
「あー……」
分かってるんだか、いないんだか。
いやきっと分かっていないんだろう。そんな気の抜けた返事だった。
「とにかく新しい自分にならなくちゃ……」
「ふふ……あたらしい、だって……」
一人でくすくすと笑う。
「……変なの」
「な、なにがだよ」
「だって、今のままでいいのに」
「いや、それじゃあ無理なんだって」
……本当に分かってるのか?
「ただ思い出せばいいのに」
「思い出すだって?何を?」
「……ぼくのこと」
「…………?」
何が言いたいのかと思う。
それでも目の前の子供の事を知りたくなって、俺は近づいて行く。
子供は距離が縮んだ俺の顔を、高く見上げる。
それでもやはり、見たことのない顔だと思った。
子供はにこりと笑う。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんの中には、僕が居るから」
「……お前は、誰なんだ?」
「思い出せない?」
「…………」
「お兄ちゃんはずっと前に、誰かを信じて生きていたんだよ」
誰かを……信じて……。
その言葉に、一つだけ思いつくことはある。
……かつての両親の事だった。
確かに俺はあの頃、無意識にその二人を信じて生きていたはずだ。
その信頼の結果は、報われないものになったけれど。
「それを、もう一度やるんだよ」
「もう一度って……それって、また……」
「そう。また、信じていたものが崩れるかもしれないね」
つまりは、青八木への気持ちは報われないかもしれないということ。
「それなら……俺は……」
「今のお父さんとお母さんは、好き?」
「……え?」
「新しいお父さんとお母さん……」
「あ……ああ……」
好きというのは、それは信用している事になるのだろうか?
信用しないということは、好きじゃない、という意味になるのか?
「お兄ちゃん?」
「…………」
後ろの向日葵畑が、ぐっと広がった気がした。
「どうしたの?」
「嫌なことを、考えさせやがって」
「へ?嫌な事って?」
「信用できる理由なんて……ないのかもしれない」
「うん、そうだね」
「……当然っていう感じだな」
「でもぼくは、ぼくのお父さんとお母さんを信じてるよ」
「なんで、……どうやって?」
「なんでって?それは……」
…………。
「何も信じないで、生きていけないから」
「…………!」
…………こいつは、本当に子供なのか。
「お兄ちゃんは?」
「え……?」
「この向日葵畑で、何を信じて進んで行くの?」
「お、俺は……」
この先の見えない、出口に出会えるかも分からない向日葵畑で……俺は、何を信じるんだ……?
「きっとお兄ちゃんが信じるべきものが、ひとつだけあるよ」
「そ、それは一体、なんなんだ……?」
「きっと、わかるはずだよ」
そう言うと、途端に歩き出す男の子。
俺を通り過ぎて、進んで行く。
「おい……?」
俺は、それを追った。
しかし数メートル進んだところで、急に後ろ姿が向日葵の間に消えた。
「え?」
あわてて足を速めて追いかけると、風と共に月明かりが差し込んできた。
眩しい。
俺は、畑を出ていた。
しかし、目の前は目的の場所ではない。
俺は広い広い……湖の前に立っていた。
「…………」
もうこの場所では、何が起きても驚くことはないと思っていた。
だがいきなりな展開に、少し硬直する。
遠くまで広がる水面を向日葵畑が囲っていた。そして俺の手前の岸辺には、一つのボートが打ち上げられている。
視線を動かして子供の姿を探すが、どこにも見当たらない。何も居なくなる素振りすら見せずに消え去ってしまった。
「……なんなんだ?」
目の前に現れたのは、あのベンチではなく見知らぬ湖だった。
そうして現状を認識したとき、目にとまるのはボートだ。
白いすすけたボートはこれと言ったデザインの特徴もなく、とてもありがちなものに見えた。半分ずつスペースを使えば、人が二人ほど乗れそうな大きさだ。
……これに乗って先に進めば、どうにかなるのか?それとももう、戻った方がいいのだろうか。
少し立ち尽くした後……俺はボートに乗り込んだ。
あの子供が、そうして欲しいと言っているような気がした。
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