4-16
昼に比べてかなり涼まってきた空気の中、薄暗い住宅街を抜けた。
駅前には、帰宅していく大人や、学生が行きかっていた。
俺も改札への流れに乗ろうと思ったところで……ふと気づく。
「…………」
確認のために、ポケットの小銭を取り出す。
が、数えるまでもなく、それは電車賃には達していなかった。
俺はさっきのコミックを買った際、帰りの分の金を使ってしまっていた。
手のひらに視線を落としながら、呆然とする。
(……やっちまった)
だが少し悩んで、ひとつ思い出す。
そうだ。
俺には、帰るためのあてがあった。
◇
すっかり日が落ちて、微かに星が浮んだ空を眺めていた。
よく分からないが工場の前に落ちていた、コンクリートブロックの上に腰掛けている。
そうして待ち続けて、そろそろいい加減、尻の感覚が無くなってきた頃……。
工場の大きな入り口から、複数の人間が話しながら出て来た。
暗い中目を凝らして見る。
すると……。
その中に居た、親父と目が合った。
親父が驚いた顔をする。俺は立ち上がり、近づいて行く。
「一樹……何してんだお前?わざわざお迎えか?」
「違う」
「なにぃ?寺島ちゃん、お迎えだって?」
「おっ、いいなぁ若い子がいる家は!」
「いやぁー、これで結構、親孝行な息子で」
「……」
俺が親父の顔をにらんでいると、察したのか素直に聞いて来る。
「はぁ……そんで、どうしたんだよ?こんな時間にこっちに居るなんて」
「昼から居たんだけどさ……。帰る金がなくなったから、貰いに来た」
「はぁ?……後先考えずに遊んで、散財したのか?」
「そんなんじゃねぇ、最初からあんまり持ってなかったんだ。……そういうわけだから、早く帰ろう」
「早く、って…………まったく……」
その後親父と一緒に、仕事場を後にした。
◇
何本もの街灯の下、二人で駅まで歩く。
明かりが視界の横を通って行くたび、俺の頭のなかのどこかの記憶が刺激される。
それは、たまにある感覚だった。
その感覚が感じられたときはきまって不思議な気分になる。地に足が着かないような気分に。
「……なぁ」
「ん?なんだ」
「俺ってさぁ、小さい頃はこの街に住んでたんだよな?」
「ああ、そうだが」
「そんで親父に引き取られてあの町に越してきた」
「そうだとも」
それは俺達の生活の中の、煩わしく、しかし確かにある前提みたいなものなんだと思う。
だから、今更な質問だっただろう。
それでも。こっちの世界でも、その事実が変わっていないことが分かった。
「なんだ、今になってホームシックな気分か?」
「ホームシックもなにも、家自体覚えちゃいないよ」
「はは、まぁそうか」
「俺の元両親は、まだこの街で暮らしてるのか?」
「うーん、そのはずだが」
「ふーん……そうか」
そう言ってから俺は、しばらく黙って歩いていると……。
同じく黙っていた親父が、急に言ったのだった。
「……会っていくか」
「……え?……誰に」
「お前の、昔の両親にだ」
「……」
「家に行けば居るはずだし、会えんこともないぞ」
「あー……」
「お前がそういう気分だったらそういうこともできる、ってだけだがな」
「…………いやぁ、その」
「ん……?」
「別に、いいかな。めんどくさそうだから」
「めんどくさそう、ってか……」
「……なんだよ、会わせたかったのか?」
「いや、そうじゃない。なんとなくだよ」
◇
駅に戻って切符を買う金を貰って、改札を通り、ホームに降りた。
電車を待つ長蛇の列の一つに俺と親父も着いて、車両が来るのを待った。
「どうだ?まだ大丈夫だろう?」
「ああうん」
たしかに目の前にある親父の後頭部は、凝視してもまだ薄毛の心配はなさそうだった。
__けど高さはもう、俺と変わらなくなっていた。
電車が来ると、ホームの人間が車両の中に流れて押し込まれていく。
俺達もなんとか、ドアの前の空間に乗り込むことができたのだった。
大勢を乗せた電車は、静かに走り出した。
「今何時?」
親父が腕の時計を見る。
「……八時だ」
「ふむ」
工場の前で一時間ほど待ったから、こんな時間になってしまった。今日に限って、親父は残業があった。夏は残業が多い。
三つ目の駅に停車したあと、車内はいくらか散漫とし始めた。やはり、街はずれの住宅街で降りる人が大半らしい。
「空いたぞ、席。座っとけ」
「ん」
ドアの横の、一人分開いたスペースに腰掛けた。
「何でか知らんが……見たところお前、疲れてるんだろ?」
「まぁね……」
昼の喫茶店ぶりにまともに腰を落ち着けられて、静かに息をつく。
電車が線路を走る振動が、立っていた時よりも伝わって来る。
「……街を出るぞ」
「……え?」
隣に立つ親父の顔を見上げると、窓の外を眺めていた。
俺もそうしてみる。
目の前には、海があった。
反対の窓には、緑の山肌がいっぱいに映っている。
ここはきっと……俺達三人が来た道とは、真反対にある線路なんだと思った。
「……」
夜の海という真っ暗な景色を、線路沿いに立てられた電灯が、等間隔で照らしては過ぎていく。
通り過ぎる瞬間、少し眩しく感じる。
それに合わせて、暗い車両の中も、白く照らされる。
(…………暗い?)
なぜか、電車の中が暗い。
気づかなかったが、いつの間にか証明がすべて消えていた。
「なぁ、なんで電気が消えてるんだ?……停電?」
「さぁ、節電でもしてるんだろ」
「……そう、なのか?」
よく分からないが、そういうことらしい。
電灯が車内を照らすタイミングでしか、親父の顔を確認できない。明暗が激しくて表情が読めない。
そのパターンに支配された世界に、記憶が刺激される。
さきほどと、同じ感覚。
でも、さっきよりも強く感じる。
「……なぁ、お前は覚えてるか?」
親父に急にそう言われて俺は、「なにを?」と言おうとする。
だが俺は黙る。
……そして頭の中で、思い出していた。
それは、なんてことはないものだった。
親父と並んで、こうやって……隣町から俺達のあの家に向かった。
ただそれだけのことを、昔にもやったのだった。
俺が引き取られた日に、親父が運転する車で。
そのことを忘れていたわけじゃなく、その車のなかでの記憶がいつからかずっと曖昧だった。
こうして親父と二人で帰ることなど、長い間なかったから、今の今まで思い出せなかったんだ。
「……今、思い出した」
「そうか」
俺は、親父の方に顔を向ける。
相手の表情は相変わらず見えない。
「あのとき、二人で話したよな」
「うん。親父は……”大丈夫だ”って、そう言ったんだった」
「そうだ、確かに言った」
俺達二人の背丈は、やはりいつの間にか、変わらなくなっていた。
そして暗い車両に乗客はいつしか、俺達のみになっていた。
「何を根拠にか、本当に自信があったのか、それとも俺を元気づけようとしたのか」
「わからんが、とにかくそう言ってたんだよな」
「……あの時の俺は、今まで生きて来た場所を失った直後だった。とても大丈夫な心情じゃなかった」
「でも、はっきりと聞いたんだろ?」
「うん、聞いた……」
俺はそれを聞いてどう思ったのか、覚えていない。
でも、親父がハンドルを握ってそう言った光景を覚えていた。
「なんで忘れてたんだろう」
「……そりゃあ、大丈夫だったからだろ」
「……え……?」
「お前はこうして今、ここに居られているじゃないか。そうじゃない可能性があったのに」
「…………」
……そうかもしれない。俺はそれを否定できない。
「でも今のお前は、そんな気分じゃない。……そうだろ?」
「ああ……」
「大丈夫なんだろ?」
そのとき。
電灯の明かりが一瞬見せた相手の顔に、俺はもう、驚くことはできなかった。
「見ろよ」
「……」
電車が、山を抜けた。
代わりに現れたのは、あの広大すぎる向日葵畑だった。
線路が海から離れて、畑の中へと入って行く。
「もう大丈夫だからこそ……俺は今の場所から、もう少し進んでみようとしたんだな」
「そして……恋なんてしてみようとした」
「……そうか、そういうことだったんだな……」
たまたまでも気まぐれでもなかった、無意識にも、俺は確かに踏み出そうとしていたんだ。
だが今、それを知ってどうなるんだろう?
俺はもう諦めてしまったし、なによりこの世界に、青八木は……。
高い位置を走っていた電車が、緩やかに下がり始める。
もうじき、駅に着くのだろう。
案の定遠くには、家々のささやかな明かりが見えてきた。
「……外をよく見ておいた方がいい。明かりのない所を」
「?……」
「そんなに遠くには居ないはずだ」
「…………」
言われるままに、注意深く景色を眺める。明かりが無い所とは、つまり畑のことだった。
……だけど……なにも見つけられない。
住宅群が近づいて、もうすぐ着いてしまう。
そんな時だった。
「……!」
気づけば俺は、窓の外の景色にとらわれたように見つめていた。
そして、分かった。
真っ暗の向日葵畑の中に、ほんの少しの開けた空間があった。
そこに置いてあったもの。
__居た人。
俺が去年の夏から、ずっと求めていた場所だった。
「お……俺……っ!」
話していた相手の方を向いたと同時。車両内の、電気が着いた。
眩しくなって、目をつむる。
……ゆっくりと瞼を上げて、視界を広げると……。
そこには、親父の顔があったのだった。
「どうした?……なんで立ってる?」
「……あ……」
周りを見ると、他の乗客も元通りだった。
なにか答える前に、電車が駅に到着した。
ゆっくりと止まって、電車のドアが開く。
直後俺は、外に飛び出していた。
「お、おいっ?一樹っ?」
「ちょっと寄るところがあるんだ!先に帰ってて!」
走ってホームを出て、改札を抜ける。
駅を出たら、明かりのある方とは別の方へ、向日葵畑へと入った。
方向は覚えていた。
このまま行けば……、たどり着くはずだった。
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