4ー10
両親はいつの間にか帰って来ていて、気づけば夕飯の時間だった。
その夜の晩飯はやけにすぐ食べ終わった気がする。だが、味の記憶が残っていない。裕子さんはきっと、いつも通り作ってくれたはずなのに。
眠たいのかどうなのかよく分からなかったが、不思議とすぐにねむりに落ちた。
おそらく、時間はまだ八時くらいだったが__。
そして、再び目覚めた頃には、朝六時半になるところだった。
こめかみのあたりがずきずきと痛む。
寝すぎたと思い、腕を伸ばして体を起こす。
「…………」
ベッドに腰掛ける。
思わず、大きく息をついた。
起きてしまったからには、意識を動かさなくてはならない。
そしてこういうときの思考はいつも、考えたくないほうに流れていく。
……知らなければよかったことを、知ってしまった気持ちがしていた。
だって俺は決めたのに。
この先もう青八木について、複雑な感情は抱くまいと。
だったら……。
異変を感じても、例えば青八木の姿が見当たらないことに気づいても。
変わらずに生活を続ければよかったのか?
それでも問題はないと、依然として黙っていればよかったのだろうか。
「…………」
机の上の隅にあるものに、視線を合わせる。
ここになってから、ずっと置いたままの、駄菓子の箱。
立ち上がって手に取る。
しばらく眺めたのち、それをポケットに入れて、部屋のドアを押し開けた。
朝飯を食べることにする。
一階に降りると、両親はもう家を出るところだった。
それを見送ってから食事をして、終わると使った皿を洗った。
歯磨きをしながらテレビをつければ、ニュース番組が映し出される。
しばらく眺めたのち洗面台に戻って……帰って来たころには、天気のコーナーへと切り替わっていたのだった。
予報士が今日の天気は晴れだと言うので、俺は窓の外に目を向けた。
ああ……本当だ、いい天気だ。
晴れているということは、彼女は外に居るということだ。
去年の夏は、そうだったはずなんだ。
そしてもう七月に入ろうとしている。
本当にもう、この町にはその事実はないのか……?
そこまで考えて……。俺は立ち上がり、特に何も持たずに玄関へと向かった。
◇
家を出ると、そのまま玄関の前を離れる。
そうして、畑の中に入って行こうとしたとき__。
「……おお、来たか」
背後から声をかけられる。
振り返ると親父が、玄関の横に立っていた。
「……親父……?」
「おう」
タバコを挟んだ右手を挙げる。
「裕子さんには先に行ってもらったんだ」
「なんで……」
「いやぁ……なんかお前昨日から、ここ最近で特段元気が無かっただろう?」
「…………」
「さすがにな、話を聞いておいたほうがいいかと思ったんだが」
「……そう……」
「でもお前、これからどこかに行くんだろ?」
「……うん」
「ふむ。……じゃあまぁ俺は、このまま仕事に行くかね……」
親父は短くなっているタバコをひと吸いしてから、玄関先の錆びた灰皿に吸殻を押し付けた。
「……ちなみにどこに行くんだよ?」
「…………探してる場所がある」
「ほう」
「この町の、どこかにあるはずなんだ。だから今から探して回るんだ」
「ふむ、そうか……いいなぁ、それは……」
「……?」
「じゃあ俺は今日も行ってくるぜ。見つかるといいな」
親父はそのまま、向日葵の中に入り、歩いて行く。
きっとその方向には、駅があるのだろう。
俺はしばらく待ってから、別の方角へ畑に侵入した。
◇
頭の中で思い浮かべた、あの場所への道筋をたどってみる。
途中で右折したり、空想の信号を渡ってみたりしてみる。
俺はまだ、あの町並みを覚えていた。そのことにどこか安堵しつつ。
本当ならば、もうすぐ着くはずなんだが……。
そう考えていた矢先__。
なんと、体が畑を出た。
「……!」
驚いて顔を上げるが、眼前に建っていたのは……見知らぬ家だった。
しかし、どこかで見たことのあるような、やはりないような。肌色の壁の一軒家だった。
「……あの……どうなされました?」
庭でしゃがんで作業をしていた高齢の女性が、かさの大きな帽子の下から俺を見つめている。
俺は何も答えずに、駆け足で来た道を戻る。
「あ……っ」という声が、走り際聞こえて来た。
息を切らしながら、記憶を巻き戻す様に家へと戻る。
__結果、計ったよう我が家にたどり着くことが出来た。
「はぁ、はぁ……」
膝に手をついて、呼吸を整える。
そして振り返って、もう一度畑に踏み入った。
再び、今度はさっきよりも詳細に道筋を思い出してみる。
消火栓のある十字路。
道中の空き地の数。
大きな木がある家。
……全部、覚えていた。
きっと覚えたのは、去年になってから。青八木とあの場所で会うようになってからだ。
また明るい空間が見えてきて、ためらいなくそこに出て行く。
そして…………すぐさま立ち止まった。
「……」
「……あの……なにか御用でしょうか?」
「…………」
女性の顔を見る。
「もしかして、道に迷ってらっしゃるの?」
「……いえ、……あ……はい……」
「大丈夫……?」
「この町に、古いベンチがあるはずなんです」
「え?……ベンチ、ですか?」
「白色で、一つだけぽつんと置いてあるんです」
「はぁ……」
「そこが俺は好きで、去年の夏によく足を運んでいて……でももう、どこにあるのか分からなくなってしまった」
「そう……ですか……」
しばらく沈黙が流れる。
俺がそれに気づくころ、女性が口を開いた。
「わたしは長年……生まれてからずっとこの町に居ますけれど、そういうものは見たことがありません」
「…………」
「あなたはお若いのに。なんというか、凄いですわね……」
その穏やかな声。
ゆっくりとしなびるように、俺の頭が下がっていく。
そうすると涙が目に溜まっていたことに気づく。
「……友達が、教えてくれたんです」
「そうでしたか」
「青八木って言うんです、知りませんか。青い、八月の木で、青八木です」
「青八木さん…………聞いたことがないですね。お会いしたことも、きっとないわ」
「…………ありがとうございました」
踵を返す。
そのまま黙ったままで、自宅に帰るでもなく歩いて行く。
……そうだ。
……青八木の家を探そう。
一度だけ行ったことがあるんだ。見ればすぐ思い出せる。
あの人が青八木という家を知らないのなら、ここらへんじゃないのかもしれない。
俺はこの町の全貌を全然知らないままなんだから、まだ探す余地はある。
◇
まだ、可能性があるんだ。
……そう自分に言い聞かせて進み続けて……きっと、一時間以上は経っただろう。
未だ見たことのなかった小学校も、はたして意味があるのか分からない交番も見つけた。
だけど、俺の探していたものではない。
いつしか俺は、町中を駆け回るように足を早めていた。
肺がもう限界だと悲鳴を上げるまで、俺は気づかず走り続けた。
立ち止まったとき、反動が来たように体に倦怠感を覚えて。俺はどっかりと土の上に腰を降ろした。
「はぁっ!……はぁっ!!」
自分の首を焼く日差しに、振り返る。
真っ白い球体が空の頂上に浮かんでいて、それに反射する俺の眼球も、真っ白だろうと想像する。
そして、俺の顔半分は真っ黒だろう。
頭を血液がぐるぐる行き来すると同時に、思考が回り始めた。
____青八木の事を意識することを、きっぱりと辞める。
そう決めた時には……俺は、永遠にそれを守るつもりでいた。
俺はそれを自分のために決めたし、仕方のないことだとどこか思っていた。
そして青八木本人がこの町に居ないのならば…………もう、その諦めすらいらない。
そんなものを抱く必要すらなくなったんだ。
実際、昨日の放課後前までは、思い始めていたんだ。
もう……この異常なままの生活でいいんじゃないのか?
たしかに異常ではあるが、そこまで困るようなこともなく。
なにより俺自身にどうにかできる事でもないんだ。
だからこの状況はどうすることもできないけど、それでも問題はないんじゃないのか?
……そして今、青八木は居ない。
悩むことなどなく。
すべては俺の決意の通りになり、すべてが解決。
「…………はぁ……はぁっ……」
…………だけれど。
強く、こう思う。
「はあっ、はあ…………ふ……うっ」
あいつが……。
「く…………えほっ!……げほっ!!」
青八木が、居なくてもいいなんて__。
そんなこと……。
……思えるわけがないじゃないか……!!
「ぐっ……う!ふぅ……っ!!」
涙はまたあふれ出した。
みっともなくえずく俺とは裏腹に。
その本音がもはや無情に、頭の中に張り付いていた。
それはいくら涙や汗を流しても、流れる気配はなかった。
ポケットから、小箱を取り出す。
……あいつを忘れたくて、数日前まではこれを捨てられる場所を探していた。
けどもう、俺はこれを捨てられない。
これが彼女が居たという、最後の証明になる気がして。
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