4-5

 目的地に着いた。

 走って来た俺は、畑の前の歩道のふちに座り込む。

 花の様子は青八木の言ったまま、成長途中という感じだった。

 もう少しで茎は伸びきって、蕾が開き始めるんだろう、そんな風に見えた。

 道路を抜けていく風を感じながら、黙る。

 そうやって後ろの向日葵がざわめく音を聞いている。

 

「…………」


 ……今こうしているのは、ただの気晴らしだった。

 分かってはいても、あまり認めたくはなかった。

 今自分が…………深く落ち込んでいるのだろう、という事は。

 これからのことを思うと、それはあまりに不安な気持ちだった。

 これから、俺はこれらの思いを断ち切って生活していくと決めたんだから。だから落ち込んでいる余裕なんてないのに。

 まだ幸いなのは、俺がわりと冷静でいられているという事だ。

 泣いたりせずにいられている。こんなことで泣くなんて情けなさ過ぎるけれど、子供の頃の俺はそのくらいの泣き虫だった。

 だがさっき。

 ひとつだけ、確かになったこともあったと思う。

 それは青八木が、俺の事を友達だと思ってくれているということ。

 さっきの会話のなかで、俺はそう感じた。 

 俺はもう、それだけで十分だった。

 だからそれ以上踏み込んで考えることはもう……ない。

 思考をそむけるために、背後の向日葵畑に視線を向ける。

 

(青八木と関係のない、この場所での記憶……)


 そんなものは無いように思えたが。よく考えるとひとつ、思い出すことがあった。

 変な体験をしたと思い、ずっと放っておいた記憶だが……。

 思えばあれは、考えれば考えるほどに、奇妙な体験だった。

 たしか夏休みの最終日にも、こうやって夜にここを訪れた。

 その時に俺は、この畑の中に入って……。

 ……幼稚園児くらいの、子供に会った。


(…………)


 ……いいや、でもやはりおかしい。

 あの時は深夜だったはずで、そんな時間にそんな年齢の子供が外に出ているわけがない。ましてやこんな町の端のこんな場所に。

 仮にあの時、本当にその通りの事が起きていたとしても、それは普通のことではない。

 そしてあともう一つ。不思議な体験の記憶があった。

 妙な好奇心に駆られ立ち上がる。


 知りたいのは……今回俺は、向こう側に着くのか、否か。


 たった今確かめてみたくて、向日葵の中に入った。

 そして、むこう側に向かって歩きだした。 


 ◇


「…………あ」


 少し歩いてから、今更思い出した。

 ……そうだ。

 前にここで迷ったときは、戻ろうとしても入って来た場所すら分からなくなったんだった。

 今回も同じ事になったらどうしよう……?

 前は無事帰れたけれど、今度は出られなかったら……どうしよう。

 俺は馬鹿か、なんか今になって焦って来たじゃないか。

 ……今のうちに止まって、引き返しておくか?


 ガササッ!


「……っ!」


 あわてて足を止めた。

 月明かりに視界が広がる。


「…………あ、出た……」


 視界にあるものは、青白いベンチと、静かな海だった。

 始めて見る夜の景色だが、特に何の変哲もない様子だった。

 なんだ……特に何もなく畑を超えられたじゃないか。

 ベンチに座って、軽く息を整える。

 安心した。とりあえず、前と同じ体験にはつながらなかったみたいだ。


「…………」


 月に淡く光る波を眺めて、夜の匂いをゆっくり吸い込む。

 こうやって取るに足らないことをして時間を潰していれば、気づいたときにはもう何もかも忘れているだろうか。

 今はまだこうして黙ったときに思い出してしまうけど、それも減っていくんだろうか?

 もしそうならば、あとはただ時が過ぎるのを待つだけでいい。

 そう考えてこれからのことが少しだけ、浮かばれたような気になった。

 それからしばらくすると眠気が出て来たように思ったので、俺は引き返すことにした。

 


 ……内心、大丈夫だろうと思いつつも、一抹の不安をかかえつつ歩く。

 …………だいじょうぶ、なんだよな?

 ちゃんと向こうに出るよな?


「…………ああ」


 ……うむ。

 目前の向日葵の間に、明るい空間が見えた。

 そうだよな……。

 鼻から息を吐き、口端を下げて進む。俺なりの、気が抜けた表情だった。

 やがて体は外に出た。

 俺はそのまま帰路に着こうとして、目線を上げた。

 ……そして……。

 そのまま、固まってしまう。


「…………」


 意識せずとも、目が見開いていく。

 

 (な……なんだ。これは……)


 しかし目の前のものをいくら凝視したところで、一目見た時からもう情報は定まっていた。

 だが俺は、それを受け止められずにいた。

 後ろを振り返ると……当たり前に今出て来た向日葵畑がある。

 もう一度前を見ると、そこには……。


 …………俺の家があった。


 我が家があった。

 親父の実家があった。

 あるはずのない、いつも暮らしている我が家が、まるでそこに建てられたかのように居座っていた。

 家だけではない、庭や、それらを囲っている塀までも、そのまま目の前に建っていた。

 ……俺は瞬間、様々な可能性を巡らせようとした。

 いつの間にか、俺は帰って来ていた?

 本当は俺が思っていたよりずっと、家と向日葵畑の距離は近かった?

 だが、そのどれもが当てはまるわけがない。

「は……」という乾いた息を漏らし、ただただ呆然とする。

 そしてかすかに呼吸を乱しながら、玄関の前に立つ。

 意味もなくドアを凝視してしまう。

 それからそこに耳を着けて、中の音を聞いてみるが、音と言う音はしない。

 ドアを引くと、ガチャンといって開く。俺が鍵を閉めずに出た、そのままの状態ということだ。

 隙間から中を確認しても、異常はない。

 匂いから何からどう考えても、今まで暮らしてきた我が家だった。

 中に入り……静かにドアを閉めた。

 忍び足でリビングに入って見渡すが、誰も居ない。

 ここは、本当に俺が元居た家なんだろうか……?

 もしそうなら、親父も裕子さんも今、寝室に居るということなになる。俺が出ているあいだに、時計はもう十時を大きく過ぎていた。

 二階に上がって、親父の部屋の前に立った。

 そして考える。

 今、親父を起こして、この異様な状況を伝えようか?

 でも、どうしようと必ず朝には知ることになる。

 それなら、こんな深夜に起こして知らせる必要もない。

 なにより俺は、早いとこベッドに潜り込みたかった。

 だってこんなのは、きっと夢だし……。

 去年の冬と一緒で、奇妙な夢を見ているんだ……。

 だから目覚めたら、元通りになっているはずだった。

 ドアの前から立ち去って、自室に入る。

 やっぱり部屋の中も普段通りの様子だ。

 息をついた俺は電気が消えたそのまま、布団に入ったのだった。

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