3-10
目の前で、風に葉っぱが揺れていた。
「おーい」
「…………」
「おおい?起きてんのこれ?」
「……?」
瞬きをする。
「ああ、起きてた」
違う、向日葵の葉ではない。
枕元に立った太知の手のひらが、目の前でパタパタしていたのだった。
目線だけを太知に向ける。
「もう朝だよ」
「…………なんで、朝から部屋に」
「裕子さんがどれだけ声かけても起きて来ないって、だから俺が起こしに来たの」
「……そう、か……」
起き上がって、目をこする。
「朝飯を食う時間は、ないってことか」
「まだ七時半だから、パン一枚くらいなら食べる時間あるよ」
「うん……そうか」
◇
まだ寝起きの頭で普段通り登校する。
「今日の放課後、お前は野中と出かけるんだろ?なんたってクリスマスイブだからな」
「ん?うん……」
他人事の様に言った俺に、太知が不思議そうに見てくる。
「俺はな、やめたよ」
「え……?」
「もう無理することもないと思ってさ」
「それって、青八木さんを誘うのを、辞めたって事?」
「うん」
「な、なんでさ。今日誘ってみれば、もしかしたら受けてもらえるかもしれないじゃんか?」
「当日に誘うなんて非常識だ。それにもう、そういう問題じゃなくなったんだよ」
「どういう意味?」
「俺には、青八木に伝えることが出来ないって分かったからな。だからもういいんだ」
「なんだよ、それ……」
「悪い、手伝ってもらったのに。……野中にもそう伝えてくれ」
「……」
俺があまりに淡々と話すからだろう。太知はそれ以上、何も言わなかった。
きっと俺が、何を言うべきかも分からないような態度だったんだろう。
学校に着いて、俺達は終業式を受けた。
もう青八木を生徒の中に探すこともしなかったし、無駄な葛藤もなかった。
なんだかとても流動的に時間が過ぎて行き、あっという間に帰りのホームルームだった。
担任が話している中、野中がチラチラとこっちを見てきた。
そして案の定、ホームルームが終わり俺と太知が帰ろうとした時、野中は追いかけて来た。
「あっ一樹、野中だ……」
「ちょっとちょっと!」
「なんだよ?早く帰ってデートの準備しろよ」
「それは、そうだけど…………どういうことなのさっ!」
「なにがだよ?」
「とぼけないでよ。本当にアオイちゃんに何も言わないつもりなの?」
「ああそうだよ。太知が話したんだろ?」
「……うん、さっき」
「それが全部だよ。そのまま言葉通り」
「……なんでなのよ、まだチャンスがあるじゃない!」
「その話も、太知としたよ」
「だってそうじゃない!当日だろうが、誘ってみればいいじゃない!それで、急にごめんって謝ればいいじゃない!」
「…………」
「ねぇ、一樹。もうちょっと考えてみようよ」
太知も、今朝と同じ様に諭して来る。
「そうじゃないんだよ」
「……え?」
「……悪い。俺今日は一人で帰るよ」
「ちょ……急にどうしたのよ?」
「野中、色々俺のために考えてくれたのにごめん」
「一樹……」
「俺が言うのもなんだが。デート、気にせずに楽しんでこいよな」
早足でその場をあとにする。
背後から野中の声が聞こえてくるが、止まらずに歩いた。
◇
一人で校門をくぐった。
そして下校のルートを歩く。
もう早足ではなかったが、淡々と道をたどっていた。
早くに下校しているからであろう、生徒の姿はまばらだった。
空気は冷え切っていて、しかし太陽が覗いていて明るかった。
しばらく、畑ばかりの通学路を歩いた。
そして俺は、住宅街に入る前の、分かれ道で立ち止まった。
「……」
少しのあいだ考えたのち、通学路とは違う道へと進むことを選んだ。
町の家が少ない方へ進んで行くたびに、生徒がさらに減って行く。
__ついには俺のみが、ひび割れた道路の上を歩いていた。
コンクリートの上を、白い冷気がスルスルと滑っていく。
このまま行けば、あの向日葵畑へと着く。
あの夏休みも、いつもそうだった。
道が緩やかにカーブして、その場所が覗けてきて……。
「…………」
……足を止める。
そして、その光景の前にただ立ち尽くす。
畑は一帯、枯草色の平らな土地となっていた。
どう見ても、これはもう不毛な地面だった。
ただの更地と化した畑を前に、俺は思い出していた。
昨晩見た夢の内容を。
ここに来るのは夏以来だったし……今は冬なのだから、この光景は当たり前だ。
それでもこの更地に……あの吹き荒れる風の余韻を感じずにはいられなかった。
まわりには誰も居ない。
俺は、さらけ出されたベンチに近づいて行った。
そして、腰掛ける。
目の前の景色には、色味の薄い冬の海があって、波一つ立てずに静かに凪いでいる。
そうなると、物思いにふけるのは自然だった。
野中は、ああ言っていた。「まだ間に合うかもしれない」、と。
だけど俺はの考えはもう、そういう葛藤の所にはないんだ。
俺は……もう、踏み出すことができないんだ。
そもそも全部が、変な話だったようにも思える。
俺が青八木をクリスマスに誘う事も。
そもそも青八木が、クリスマスになんの予定もないはずと決めつけていることも。
……俺が、いまだに夏休みの記憶を引きずっていることも。
皆はもうとっくに新しい気持ちで過ごしているのに。二学期ももう終わろうとしているのに。
それでもここに座ると、色々な事を思い出す。
……そうだ。
……思えば本当に、あの日々は変だった。
彼女があんなにも近くに居た。
そして時には、一緒に笑ったりした。
そんなことが……あの夏にはありえた。
波音も、葉の音も聞こえず静まり返った空間に、自分の呼吸だけが耳に届く。
その呼吸音が、ふと止まった。
それは、目の前に降りて来た変化に一瞬、息を飲んだからだった。
(…………雪だ……)
とてもまばらに降り始めた白いものが、みるみるうちに増えて……ついには大粒になった。
太知達にとっては、今日はとてもいい日になるかもしれない。それを想像するだけで、少し穏やかな気持ちになれた。
そしてふと……。
これでいい、と思えたのだった。
……だからもう頑張る必要もないし。ここから立ち上がって葛藤したところで、何の意味もない。
空を見上げていた俺の目じりに、雪が一つ降りた。
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