2-19

 家に帰ると、リビングのソファに座り息をついた。

 テレビをつけて予想通りの退屈な番組が流れたのを確認して、それから窓に目をやる。

 勿論まだ雨が降っているわけだが、これは止むのだろうか。

 ふと止まっていきそうな模様にも見えたし、このまま淡々と降り続けてもおかしくないようにも見えた。

 眺めながら俺は、ふと思い出した。

 そうだ。俺はすっかり終えた気でいたが、英語の宿題がまだ少し、残っていたのだった。

 慌てて自分の部屋に行き、宿題をとって来る。そして道具を広げ、二時間ほど勉強に没頭したのだった。


 そして裕子さんが帰ってくる頃には、俺はすべての宿題を終えていた。

 最終日にこんな事をしているのを、裕子さんに見られるわけにはいかない。きっとお説教が飛んでくるし、あまり心配させるような事もしたくはない。

 __そして雨は、いまだ止んではいなかった。

 驚くような事でもなく、薄々そうなるのではないのかとも思っていた。

 長い間窓と隣り合わせでいると、何度も浮かんで来た疑問があった。

 青八木は何故、俺を誘ったのか。

 しかもこんな夏休みの最終日の、日も傾いた時間に。

 あの時別れてから、もう一度向日葵畑の向こうで会う事は、どんな意味があったんだろうか。


 ◇


 八月三十一日の夜でも、親父と裕子さんは、変わらず暖かい食事風景を作る。

 俺はいつも通りその光景に混ざって、穏やかな気持ちになる。

 これが本当にいつもの光景だという事が、改めて嬉しかった。

 夕食を終えて、リビングでくつろぐ。

 途中で裕子さんにうながされて、明日の登校の準備をしに部屋に上がった。

 道具を揃えていると、もうそこそこ遅い時間になっていた。なので風呂に入って歯磨きをして、もう一度二階に上がったのだった。


「おやすみなさい、一樹君」


「おやすみなさい」


 居間の裕子さんにそう答えて階段を上がる。

 自室の前の暗い廊下を歩いていた親父にも。


「おやすみ」


「うむ、おやすみ」


 そうして、部屋に引っ込んだ。

 といってもまだ寝る気分じゃなかったので、しばらくベッドの上で過ごした。

 そうしていれば、いずれ眠たくなってくるだろうと思った。

 しかし十二時頃になっても、その気配はなかった。

 仕方ないので、もう構わず部屋の電気を消した。そしてベッドに寝転がる。

 明日は学校なのだから、もう眠らなくてはいけない……。


 ◇


「…………」


 目線だけで机の上の時計を見ると、二時になっていた。

 もう二時間も、こうしてじっとしていることになる。

 なんだか、本当に眠れなかった。

 自分の鼓動や呼吸の音が頭に響いて、いちいち意識を刺激する。 

 音というと、そういえば雨音が聞こえて来ない。いつのまにか、雨はもう止んだんだな……。

 日をまたいで、もう九月だ。

 だがここに来て俺は、暑苦しい蒸したような夜を感じていた。

 このままこうしていても、眠くならないだろうことを勘づき始める。

 俺は少しも気だるくない昼と変わらぬ体で、ベッドから立ち上がった。

 部屋を出て、一階に降りていく。当然ながら家は真っ暗だった。


 ◇


 静かに玄関の戸を開けて、閉めた。

 外は街灯の白い光が所々に広がっているのみで、周りの家も電気が消えている。

 路面は色味や匂いから、まだ湿っているのが分かった。

 雨粒を乗せているであろう草むらからは、鈴虫の泣き声がして。たまにどこからか野太いカエルの声も聞こえてくる。

 そんな、耳をすませば騒がしいような夜の町。

 しかしそれを聞いているのが自分一人だろうと言う感情が、やけに心を静かにさせた。

 見慣れた町でも深夜は少し心細いもので、しかも住宅街から離れた場所となると、なおさらだった。

 ____それでも俺は、向日葵畑の前まで来たのだった。

 ここまでくるともう、街灯もほとんどない。

 そんな中で向日葵の花を眺める。

 たまに吹く涼しい風が、ザワ……と花畑に波を立てて通り過ぎていく。それが過ぎるとまた、静寂が訪れる。

 それが不定期に繰り返されるのを、しばらくただ見ていた。

 といっても視界は暗く、ただ音を聞いていたという方が近い。

 ずっと……そうしていたからだろう。

 明らかに、風の影響とは違う音に俺は気づいた。

 それは俺の前方、向日葵畑の中からした気がする。

 少し待ってみると……。


「……」

 

 もう一度、「ガサガサ……」という葉がこすれるような音が、やはり花畑の中から聞こえて来た。

 ……人間、だろうか?

 目を凝らして向日葵の間を見てみるが、それらしい影はない。

 俺は花畑の中に踏み入ってみた。

 だが、少しあたりの暗さが増す。ただそれだけだ。

 なんにもないし、もう帰ろうか。相変わらず眠気はないけれど。

 でもそういえば……この先のあの場所は、夜にはどんな感じなのだろう?

 少し見てみたい気もした。

 

(よし、それを見て家に帰ろうっと)

 

 実際のところ畑に入ってから、流れるように俺はそう決めたと思う。

 ここに来た時点で、向こうに行くのはお決まりみたいなものなのだった。

 


 足元を見ながら進み始める。

 さっきの葉の音は、きっと重力によるなにかだったんだろう。

 だってこうして歩いていても、もうそれらしい音はしなくなっているし……。

 ……するのは、俺の足音だけ……。

 それが耳に届き続ける。


「…………」


 気づけば、耳にしみついてしまう程にそれを聞いていた。


「……?」


 ふと、立ち止まる。

 暗闇に意識を向けながら歩いていたから、自分がどれだけ長く歩いていたのかも分からなくなっていた。

 顔を上げて考える。

 あれ……。

 こんなに歩くもんだったっけ?あのベンチまでは。

 うーん……もしかしたら俺は、本当は全然歩いていないのかも。それくらいぼーっとしていたからな。

 再び、視線を落として歩きだす。

 また自分の足音が鳴り出す。

 土の上の、気だるげな足音。


「…………」


 普通の速度で歩けば、一分くらいで着くだろう。

 それなのに……。

 ……なんだ?この長さは……。

 もう明らかに、いつもの数倍は歩いていた。

 どうして、こんな……。

 視界が暗いから方向感覚を失ってるのか?それでずっと畑の中をぐるぐるしているとか?

 いやしかし……さすがに自分が、真っすぐ歩けていることぐらいは分かる。

 それに暗いと言っても、周りの向日葵のシルエットはちゃんと見えていた。緑色も薄っすら見えるくらいだ。

 だから、明らかにおかしいのだ。

 気づけば俺は、立ちどまっていた。


「……」


 自分の足を見下ろして、黙る。

 ふと、遠くで音が聞こえた気がした。

 ……後ろだ。

 自分の遥か後ろから、サクサクという軽い音が鳴っている。

 そしてすぐに、その音が段々と近づいてきているのに気付く。

 その音だけが、畑と俺の頭に響く。


(……っ!)


 俺は瞬間的に走りだした。

 うしろに意識を取られながら、前だけをみて走り続ける。

 何がなんだか分からない。

 やはり出口は見えてこない。

 だが恐怖で、とにかく走った。 

 やがて疲れてきて、膝に手をついた。

 肩を上下させて、息を整える。


「はぁ……はぁ……」


 …………!

 ……まただ。

 俺の遥か後ろで、またあの音が鳴り続いている。

 こうして休んでいるあいだにも、音は少しずつ大きくなっている。

 まだ息が整りきっていないまま、再び走り出した。


「はぁ……っ!はぁ……っ!」


 もうそんなに長くは走れないのは分かっていた。

 それでも苦しいのを誤魔化して、かなり進んだと思う。

 俺は倒れそうになりながら、またも膝に手をつくのだった。

 吐きそうだった。

 だけど、それよりも……。

 しばらくする、とまたあの音が、背後から聞こえてくるのだった。

 歩き出そうにも体は呼吸で精いっぱいで、せめて音を出すまいと口を押さえた。

 だがその音は俺の居場所が分かっているようで、真っすぐに追いつこうとしてくる。


(ガサッ、ガサッ、ガサッ……)


 ……ああそうだ……これは足音だ……。

 一定のリズムで、花畑の中を進んでいる。

 そしてもうそれは、俺の数メートル後ろまで来ている。

 足元を見降ろしながら、俺はそのときを待つ。

 そしてついに……。

 ……足音が、止まった。


「…………」


 きっとこの視界を、少し下にずらせば……。

 ……足があるはずだった。

 俺のものとは別の、二足の足が俺の靴の少し後ろに並んでいるはず。

 夏の夜にふさわしいのかもしれない冷や汗が、首筋を流れた。

 微動だにできなかった。

 視界が端から暗くなっていく。古いテレビ映像を見ているみたいだった。


「行かないの?」


「…………っ」


「ねえ」


「…………」


 俺は、驚いていた。

 それは子供の声だった。なんの変哲もない幼い男の子の声。


「疲れちゃったの?」


 何故だろう。冷えていた体が、体温を取り戻すのを感じていた。

 

「怪我した?」


「……してないよ」


「じゃあなんで?行こーよ」


「もう、無理だ」


「えっ、なんで?」


「だっていくら進んだって、向こう側に出ないじゃないか」


「そんなの分かんないじゃん」


「分かるよ、予感してるんだ」


「ふーん……へんなのっ」


 聞いたことのある声なのかどうか、分からない。子供の声は大抵同じようなものだ。


「お前こそこんな時間に外に居るなんて、変なやつだ。子供が遊ぶ時間じゃない」


「お兄ちゃんだって子供だよ」


「……そうなのか?」


「うん、ぎりぎりね」


 妙な事を言う子供だと思う。


「ねぇ、じゃあもう……行かないってこと?」


「……ああ……」


 俺はそこでやっと、後ろを振り返った。

 そうして男の子の顔を知るはずだった。

 しかし振り向いたのと同時に、男の子は振り返って来た道を走り始めたのだった。


「あっ、おい……?」


「ばいばーい」


 顔だけで振り返りながら、こっちに手を振って来る。

 暗闇で、その顔は見えなかった。


「……」


 それよりも、あいつはどこに向かったんだろう。……あのままで帰れるのだろうか?

 俺は後を追って、とぼとぼと戻るように歩き始めた。


(……あれ……)


 少し進むと、目の前に違和感を感じた。

 だけど、止まるほどのものじゃない。

 ……それどころか。……これは……。


「…………っ」


 夜風に、体が晒される。

 靴底越しに、硬いコンクリートの感覚があった。


 ____俺は、花畑を抜けていた。


「…………はあぁ……」 


 自然に深い溜息が出て、その場にへたり込みそうになる。

 けどそれよりも、早く帰りたいと思い、俺は逃げるように帰路に着いた。

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