2-8

 夏祭りの次の日。

 朝起きると外は、丁度よく雲が流れる晴れた空模様だった。

 天気がいいという事は、あの場所に行けるということだ。

 そう、俺は思った。

 朝食を食べ、今日は裕子さんにおにぎりを作ってもらった。それを巾着袋に入れて、外に出た。

 


 老人たちが犬の散歩をしている町内を歩いて、その端の向日葵畑まで行く。

 俺の足取りは淡々としていて、重くも、軽くもなかった。

 畑を超えてベンチに着けば、すぐに座って持ってきたスケッチブックを取り出した。

 何時間でもいいから描き続けて、今日でスケッチを完成させるつもりだった。

 時間はあるのだ。

 夕方までここに居るんだからな。

 前回のへたくそな絵はボツにして、新しく描き始める。

 なんかあんまり難しく考えてもうまくいかなそうだったので、とりあえずこの場所だと分かればいいと割り切った。

 後ろで、向日葵がざわざわと揺れた。

 振り返ってみるが、特に何もない。

 ただ風が吹いたのだった。

 小さく息をついて、手を動かし始めた。


 ◇


 集中力は、空腹がきつくなってきたところで切れた。

 諦めておにぎりと水筒を取り出して、昼食を取った。

 米をかじりながら隣に置いたスケッチブックを眺める。実の所、絵の出来はそんなに悪い感触じゃなかった。

 なんか初めてちゃんとした風景を描けた気がする。これならもう笑われることもないはずだろうよ。

 空は相変わらず青く晴れていて、それをぼーっと見ているだけで時間が経って行く。

 気づけば二つのおにぎりを食べ終わっていたのだった。



 そしてまた少しして、時間を見ると、まだ三時だった。

 日が暮れるまであと四時間以上はある。

 ……しかし、スケッチはもう完成してしまっていた。

 どこで終えればいいのか……なんて思っていたが、どうやらこれ以上手を加えるとよくないところまで来てしまったようだ。

 それでもう、今日は帰ろうかと一瞬考える。

 今日は、ずっと居るつもりだったのだが……。

 鉛筆をしまい、そこで始めて、スケッチブック越しではない風景を眺めた。

 海はどうしても、実物と紙の上のものとでは、同じ様にはならなかった。

 

「…………」


 心の中で少し、自分の考えていることを、正直に言葉に出してみる。

 ……俺から「来いよ」と言った手前……彼女が来た時に、ここに居なければいけない気がしたんだ。

 それだけだ。

 自分から、女子に誘いの言葉を言ったのも初めてだったな。

 だけどもう帰って、昼寝でもしてしまいたい気分だ。

 西日がきつく感じる。

 そりゃ、俺だってこうなりゃ少しは落ち込むさ。

 少し、な……。

 誰も悪くないのがまた、俺のみじめさを増幅させていた。

 まぁいい……帰ろう。

 立ち上がる前に、一度だけ傾いた太陽に視線をやった。

 青八木がどういう判断をしたのか分からないが、こうなるとここに来ることもしばらくない気がする。結局やっぱり、こんな感じで終わるのか。

 ……せめて青八木が、納得のいく選択をできていればいいんだがな……。

 そうして、畑に入ろうと体を持ち上げた。


 ____その時だった。


 俺のすぐ隣を勢いよく、何者かが、畑から飛び出してきた。

 俺はワンテンポ遅れて、それを目で追う。

 しかしほとんど追うまでもなく、その人物は俺の座るベンチの後ろで立ち止まった。


「…………」


 海を眺めて、ただただ立ち尽くす。

 なんでか息を切らして、目を見開いて。

 まるで、長い間水中に潜っていたかのような……。そんな……青八木の横顔があった。

 目の下の桃色の頬が、白く反射している。

 鼻の先は薄く赤みがかっていた。


「おう……遅かったな」


「…………」


 少しの間のあと、青八木がこっちを向く。

 それでなぜか、まだ驚いた顔のままだった。


「……走って来たのか?」


「……」


 色々な感情があったが……まず先に、不思議に思った。

 ……彼女の様子が変だ。

 ずっと黙っているし、後ろで団子にしていた髪もほどけ、肩まで下がっている。

 もしかしてここに来る前に、何かあったんだろうか?


「……っ、…………はぁー……っ!」


 急に溜息をついて、その場にへたり込んだ青八木。

 その場ってのは地面で、しゃがむのではなく芝生に座ったのだ。

 ……やはり、変だな……。


「あのー……どした……?」


「……」


 まだ少し息切れしたまま、俺の顔を見上げる。


「……?」


「……ふふ」


 青八木が目を細めて、口の端を上げた笑い方をする。

 しばらく目が合うが、なんか恥ずかしくなって目を上にやる。


「は……な、なんだそりゃ」


「……あっ、それ水筒っ?」


「え?」


「ちょっと頂戴よ!」


 青八木は素早く、俺の手から水筒を両手で奪っていく。そして急いだ手つきで蓋を開け、ゴクゴクと残りの麦茶を飲み干した。


「あー……えーっと?それ……俺の……」


「なに?私に熱中症になれっての?」


「はぁ……熱中症?」


 そんなに暑いかな……今日は少し涼しい気温だと思うんだけど。


「もうないの?」


「ないよ……」


「まあいいか。……ふぅ、とりあえずベンチ座ろう」


 よいしょ、とか言って青八木は立ち上がり、俺が座るベンチに移動した。

 俺はなんとなく端にずれて、青八木と距離を開ける。


「……で、なにがあったんだよ」


「うん?」


「なんか、いつもと違うぞお前」


「……いつもと、ねぇ……」


「もしかして高木たちと喧嘩してきたのか?それでそんな疲れてんのか」


「いや違う……けどま、長い目で見れば似たようなもんかなぁ……」


 はぁ、どういうことだろう……?


「喧嘩はしてないけど、もうあのあの子達とは遊べないだろうね」


「……ふーん……?」


 そりゃあ、一体何が……?


「でもダイジョブ。その代わり、たまに寺島たちと遊ぶことに決めたから!」


「……はえ?決めたって……なんだそりゃ?」


「決めたの。私が、今日からそうするって決めたの」


「……いつのまにそんな路線変更を……?」


「さっきだよさっき、多分」


 よく分からないが、彼女は高木たちと決別する道を選んだということだろうか。

 それで少し、変なテンションなのだろうか?


「……なんだか知らんが……まぁ、構わんけどな」


「あれ?すんなりだね」


 そんなことはなかった。

 俺は少なからず、困惑していた。

 だが……。


「野中はきっと喜ぶだろうし、それに太知だって、にぎやかになれば嬉しいだろうしな」


「あんたは?」


 青八木は、目を見てそう聞いてきた。


「……お前やっぱ……なんかいつもと違うよ……」


「はは」


「…………そりゃ、悪くは思わないさ」


「うん、そっか」


 青八木はにっこりと頷いた。

 と思えば、次は口をへの字にする。


「けど、あの二人をびっくりさせちゃわないか心配。だって昨日までの私と全然違うんだもん」


「え……?まさか明日からも、この感じで行くつもりなのか?」


「そうっ、変?」


「いや変って言うより、どうしたんだと思うぞ」


 実際、俺もさっきからそう思ってるんだからな。

 一時の感情が、彼女をこうさせているんじゃないのかと思ったんだが……。

 しかし彼女は明日からも、この性格で行くつもりらしい。


「どうしたかっていうとそれは、さっき決めたことが関係してるんだなぁっ」


 ベンチから立ちあがって、景色に向かってスキップしていく青八木。

 力強い光で傾いていく太陽が、彼女の向こうにはあった。

 それで策に手をついて振り返る。

 光の透けた髪が、強い西日を柔らかくする。


「はぁ、何を決めたんだ?」


「これからは本当に、好きなようにやるって」


「ふむ」


「どうなろうとねっ!」


 そのとき、俺は素直に感じたのだ。

 ……彼女の笑顔が、輝いていると。


「てことだから、よろしく!」


「…………ははっ。……おう」


 なんだか知らんが、俺までいい気分になる。

 そんな晴れた笑顔だった。

 夕焼けの陽ざしが、彼女の輪郭を熱く光らせた。

 このとき、八月の中旬に来て俺は……改めて夏なんだと、密かに思い返したのだった。

 

 ◇


 その後の帰路。

 そうして二人で畑を抜けて、歩道に出てくる。


「あの二人は、いつも寺島ん家に来てるんでしょ?私もまた行くって、伝えておいて欲しい」


「ああ、わかったよ」


「んじゃあね!バイバイっ」


「おう……」


 手を振ったのち、青八木は歩いていった。

 その歩く後ろ姿さえも、昨日までとは印象が全く違った。

 変わったのは明らかだ。

 一体……何があいつを……?

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