2章 かすかな花の匂い

2-1

 ……気づかなかった。

 すでに八月に突入していたなんて。

 暇すぎてそこらへん、上の空だった。

 それはそうと。先日、太知の部活のコンクールが終わったとの一報が入った。

 もう一人でほっつき歩く必要もなくなった。これはとても嬉しいことだ。

 時間も、少しは有意義に使えるだろう。 


 ◇


 八月四日。


 あの向日葵畑の向こうに行きたい。

 

 と、久々に思った。

 その日天気は、雲があるが……まぁいい天気だろうという感じだった。

 俺の頭に落ちて来たのは、残りの夏休みを楽しみたいというある意味で当然の考えだった。

 なんだか随分長い間、あの場所へ行かなかった気がする。実際は、一週間くらいだろうが。

 ……てことで、太知を誘って行ってみよう。

 朝食の皿洗いを終えて、部屋着から着替えて、そして家を出た。


「ごめんねー一樹君、太知今日、部活なのよ」


「えっ、あ……そうなんですね……」


 太知の家の玄関から離れる。

 あいつ、コンクールは終わったと言っていたのに。


「ううむ……」


 じゃあ、一人で行くか……。

 まぁ別に、一人でぼーっと過ごすのにも良い場所だからな、あそこは。

 一人、ひまわり畑への道を進むことにした。

 少し残念な気分だが、よく考えれば大会が終わったからといって練習がなくなるわけじゃないんだよな。

 あいつは本当に、コンクールが終わったとしか言っていなかったし。

 そういう感じで考え事をしながら歩き、目的地に着いた。

 畑に入る前に一応、キョロキョロと周りを視認して人に見られていないかを確かめる。

 青八木は昔から来ていると言ってたけど、やっぱりほんとに大丈夫なのかと心配になるんだよな。誰かしらの土地なんだろうし。

 誰も居ないことを確認して、スッと畑に入る。

 それから、足元の土を見つめて歩いていく。


「…………」 


 ああ、そうだ。

 ……青八木。

 そういえば、あいつがまた居るかもしれない。

 もし居たら……鉢合わせしてちょっと気まずいな……。

 ……いや、ちょっと待て。なんで俺は前からあいつと二人になることを恐れてるんだ?

 別に俺だって女子と二人で話すくらいできる。この前も、普通に話せていたと思うし。

 だから俺は、なんの気兼ねもなくここを訪れてもいいことになるわけだ。たまたま二人のタイミングが重なっても、それは仕方のないことだよな。

 うむ……じゃあ俺はこのまま、歩みを進めようじゃないか。

 足元の土は、俺の股下でぐるぐる回転していく。

 もうじき、向こうに着く。


「…………」


 耳を澄ませて、自分の足音と、葉の音以外に聞こえてくるものがないか気にしてみる。

 こないだみたいな鼻歌は聞こえて来ない。あれ、今日は居ないのか

 と思う。

 だが……いや、待てよ。

 ……見えるな……。

 ひまわりの太い茎が乱雑に生える、その向こうの明るみの中に、ベンチに座った人影があった。

 

(……なんだ、やっぱり今日も居るんじゃないか)


 一瞬歩幅が小さくなった。俺はつい立ち止まって、行くべきかまた考え込んでしまいそうになる。

 なのですぐに、何も考えないようにして畑を抜けた。


「…………」


 ちょっと眩しい中に、座った後ろ姿がはっきりとある。

 何気ない風に、「よっ」とか言って話かけてみようと……俺が口を開いて、喉に力を入れた直後。

 向こうから、振り向いて来た。

 ……あー……なんて言おう。

 いいや、予定通りでいいか……。


「……」


 と思ったんだけど。

 青八木の振り返った横顔が、驚いた表情をしているのに気が付いた。

 上体から振り返って、真っすぐ俺を見てくる。

 目は少し見開かれ、口はへの字に閉じたまま俺の姿を見つめている。


「え………な、なんだ……?」


「…………来たんだ……」


「お、おう」


「なんか最近、忙しそうだったけど」


「え?いや、相変わらず暇だよ。それで今日は、ここに来てみたんだけど」


「……そう」


 青八木は前に向き直る。


「じゃあまぁ、ゆっくりしてけば?」


「あ、うん……」


 ベンチの隣の地べたに座る。乾いた地面が硬いが、まぁいい。


「……ていうか別に、言われなくてもこうするがな。そのつもりで来たし」


「私のほうが昔から来てるんだって。だからわたしに強い権利があるの」


「はぁ」


 軽口、だよな?

 こんな感じのやつだったかなぁ。なんか機嫌が悪くないか?


「…………」


「…………」


 風景に目線を注ぐ。

 青八木も多分、似たような感じで黙っているんだろう。

 こうしていると、今日も気温が高いのを意識させられる。すでに黒い髪が熱を吸収しているのが分かる。

 ……でもよく考えてみれば、こうして"暑い"と思うのも久々な気がした。

 いわゆる夏らしい気分というのになった記憶が、ここ数日ない。

 そう思うと、こうして日差しに当てられるのも悪くない気がしてきて……俺は少しほぐれた気分になるのだった。


「……昔からって、いつぐらいから来てるんだ?」


「多分、五歳くらい。一人で外に出るようになってからしばらくして、ここを見つけたんだったと思うし……」


「五歳かぁ。……ずっと通ってんの?」


「そうだよ」


 どうやらさっきの違和感は気のせいだったのか、青八木はいつもの態度に戻っていた。

 にしても五歳ということは、十年以上ここに通っていることになる。


「飽きないもんなのか?それって」


「わたしにとっては、飽きるとかそういう場所じゃないのここは。家に居るみたいな感覚なの」


「ふうん……家に、ねぇ」


 ……ここが?

 よくわからんな、その感覚は。


「それってつまり、ここに居ても特に楽しくないってことじゃ」


「うん、べつに楽しくはないよ」


「ああ、そうなの……?」


 じゃあ一体なんで……。


「ここは……、一番リラックスできるから好き」


 隣を見上げる。

 青八木の横顔が微かに微笑んでいた。

 風がゆるく吹いて、彼女の髪を少しなびかせて行く。


「中学に入ったあたりで気づいたんだ。この場所って、すごくいい場所だったってことに。子供の頃は遊び場だったけど、それからはずっと私の安らぎの場所になってる」


「……ふむ」


 安らぎの場所、リラックス、か。……なるほど。

 今度は俺にも、少しその感覚が分かった。

 


 ……それから俺達はしばらく、海を眺めていた。

 男女二人組の海水浴を、ぼーっと目で追っていた。


「あれ、隣町から来たのかな」


「多分な。大学生とかだろ」


 隣町からこっちの町とは逆の方に進めば、大きい海水浴場がある。

  だけどきっと、夏休みの学生たちで混雑しているんだろうな。だからこっちの小さな砂浜にまで何組か流れてきているんだ。


「なんか、楽しそうに遊んでるね」


「うん」


「わたしはもう夏になっても、ここの海で泳ぐって事してないな……」


「俺もだよ。きっと他の奴等もそんなもんだろ」


 だって全然見ないもんな。


「この町に居たら、あの海はすぐに見えるからね。今更そんな事してたらきっと笑われちゃうよ」


 田舎へのコンプレックスが強い奴等だし、確かにそういうことになりかねないかもしれない。


「俺は今でも、たまに泳ぎたくなるんだがな……」


 それは、俺が隣町から来た人間だからだろうか。


「……わたしもだよ」


「……そうなのか?」


 青八木は海を眺めながらうなずく。


「だって海はいいものじゃん、それは何歳になっても変わらないよ」


 そう言う青八木の顔が、少し悲し気に見える。


「そうでしょ?」


「あ……ああ……」


 青八木の表情は微笑といえるほどの微かなもので、俺はそこから何を受け取るべきか分からない。

 そういう顔を彼女はよくするんだな、とその時気づいた。


「俺も、暇なときはここに来よっかな。家に居るよかよっぽどいいし、明日もどうせなんもないし……」


「そっか」


 俺の考えに、青八木はそれだけ答えた。

 許可がもらえたんだと思い、安心する。

 せめてこいつが居ないときに来るようにしよう。


「明日は私、高木ちゃん達に誘われてるんだ。一緒に隣町に、買い物行こうって」


「ああ、そうなんだ」


 俺は明日こそ、太知を連れて来てみようかなと考えた。

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