08-20S インタールード 十二月二五日

 帝国歴一〇七九年一二月二五日、カゲクロのとある旅館の一室で帝国宰相アーガー・ピールハンマドは物思いに耽っていた。

 これから人に会う。

 公にはできない会談、危険を伴う会談だ。

 カゲクロは首都カゲシンの衛星都市の一つであり、城壁を持たない。

 故に、カゲシンの城壁内に入れない人物との会談にはここが良く使用される。

 旅館は、前宰相の時代からこのような場合にしばしば使用されていた施設。

 従業員は全て宰相府の息のかかった者だ。

 旅館の主も宰相府と懇意な人物だが、影の存在でありクチュクンジ一派にも目を付けられず生き残った。

 ピールハンマドが前宰相の遺産で活用できている数少ない一つである。

 部屋の中にいるのはピールハンマドただ一人。

 勿論、壁の背後には護衛の兵士が潜んでいる。

 どれだけ役に立つかは疑問だが、それでもいないよりはマシだろう。


 掌が汗ばむ。

 過酷極まりない千日行を達成したピールハンマドは余程の事であっても緊張する事は少ない。

 これから会う相手はピールハンマドにとってそれだけの緊張を強いる相手であった。

 それでも、会わねばならない。




 帝国宰相に就任して一か月余り、バャハーンギールのカゲシン帰還からでも半月余り。

 ピールハンマドは様々な新政策を実行してきた。

 だが、評判は必ずしも良くない。

 最初に実行した、これまで閑職に甘んじていた正規修行達成者を正当な役職に登用するのは比較的うまくいった。

 二度の政変でカゲシンの貴族と官僚が大幅に減っていたため、少ない抵抗で達成することが出来たのである。

 これに勇気づけられたピールハンマドが手を付けたのが学問所宗教本科の改革、正確には簡略化の廃止であった。

 これの評判が悪かった。

 カゲシン学問所はマリセア正教僧侶の育成機関である。

 宗教本科は学問所の中心だ。

 宗教本科を履修すればマリセア正教僧侶として最低限の修行を修めたものと見なされ、『黄色』のストアが許され、カゲシン政府官僚への道が開かれる。

 だが、その宗教本科、近年は子供のお遊戯会と揶揄される状態となっていた。


 宗教本科の修行、年に一回のカゲシン奥の院参り、季節ごとのカゲシン宗廟参り、つまり千日行と五百日行の簡易版もあるが、基本は日々の『受戒』と『写経』である。

『受戒』と『写経』は一セットであり、これを千日間達成することで、宗教本科履修とされる。

『受戒』は『我無意味に生き物を殺す事なし』とか『我悪しき言葉遣いをする事なし』といった戒律を心に刻む修行。

 導師の先導の下に戒律を唱え、一回ごとに礼拝する。

 戒律は約二〇〇。

 長年の歴史で簡略化され、学生は椅子に座っての参加が許されていた。

 礼拝も軽く頭を下げるだけである。

 セットである『写経』もまともに行えば一つに三時間から五時間かかるが、これも簡略化の結果、自宅で書いたものの提出だけで許されるようになっていた。

 多くの学生は使用人に書かせる。

 あるいは専門の店で購入した物を提出する。

 カゲシンには『写経』専門の職人が多数いて学問所前には列をなしているぐらいだ。

 このように安易で、真面目にやれば三年と少しで履修可能となる内容である。

 近年の学生はこの宗教本科を五年から七年かけて履修するのが普通であった。

 五年未満で履修すると褒められたぐらいである。

 子供のお遊戯会と言われるのも致し方ないだろう。


 ピールハンマドはこの宗教本科を改革、簡略化を廃止した。

 結果、『受戒』は立って行うことになった。

 礼拝も完全礼拝に戻された。

 完全礼拝、俗に五体投地と言う。

 額と両肘両膝の五か所を地に付ける事からこう呼ばれる。

 ちなみに両掌は地に付けず上を向けてやや浮かせる。

 直立して唱和、そして五体投地、これを二〇〇回、それも導師の先導に合わせて繰り返す。

 かなりの修行だろう。

『写経』もその場で書くことが義務付けられた。

 斯くしてその日から宗教本科は真の修行場となり、脱落者が続出。

 施薬院には病欠用の診断書依頼が殺到。

 各方面から不平不満が相次いだ。


 何故、宗教本科の修行が簡略化されたのか。

 それは、カゲシンという宗教組織が帝国を支配する事となったからだ。

 マリセア正教寺院が地方行政を統括しており、寺院で正規業務を行えるのは僧侶資格保持者だけ。

 帝国全土のマリセア正教寺院に僧侶を配置するには大量の人員が必要だ。

 大量の僧侶を育成するため宗教本科の修行は徐々に簡略化されてきたのである。


 反対派は訴える。

 戦乱と政変でカゲシンでも地方でも官僚は不足している。

 そんな時に僧侶育成を厳格化するなど行政を麻痺させるためとしか思えない。

 勿論、ピールハンマドには反論がある。

 今回の戦乱は本をただせば内乱。

 クチュクンジ一派が外国勢力を招き入れた事が原因だ。

 何故に今回のような政変が起きたのか?

 マリセア正教の僧侶が、組織が、あまりにも世俗化し宗教家本来の規律を失ったことが最大の原因なのだ。

 第三帝政末期の混乱した状況でマリセア正教寺院が支持を集め、地方業務を代行するようになったのは、マリセア正教僧侶の道徳性が高かったためである。

 マリセア正教は僧侶の規律を取り戻す必要がある。

 故に、新たな僧侶は、官僚は、正しい修行で鍛えられた者でなければならない。

 そもそも、修行制度を厳格化してからまだ一月余り。

 少なくとも三年は待つべきだ。

 三年たてば厳格化された修行により鍛えられた僧侶たちが新たな官僚として帝国を再生する。


 だが、当座は簡略化した制度を続けるべきとの意見が大勢を占めた。

 地域諸侯、自護院などの世俗派は勿論、カゲシン宗教貴族の反応も芳しくない。

 現在の宗教貴族の大半は簡略化された修行で資格を得ているのだ。

 ピールハンマドは『外敵退散』の祈祷成功により集めた支持母体が急速に弱体化しているとの報告を受ける。

 このままでは、バャハーンギール一派に追い込まれてしまう!




 シャールフ公子もピールハンマドには誤算となった。

 シャールフ公子はガーベラ会戦ではバャハーンギールを上回る武功を挙げたものの、その直後に『公開初夜の儀』という愚行をしでかした。

 公開というだけでも信じ難いが相手はよりによって悪名高いクテン・ジャニベグ。

 貴族や諸侯の評判も地に落ちている。

 どう考えてもシャールフの宗主即位は無理だ。

 ピールハンマド自身が第一正夫人にと望んでいたネディーアール殿下の変貌もショックであった。

 ガーベラ会戦後カゲシンに帰還した彼女を見たピールハンマドは愕然とする。

 何と下品な胸だろうか!

 ピールハンマドは生粋のマリセア正教ニクスズ派であり、生粋の幼女趣味者であった。

 彼がネディーアールに固執していたのは内公女で最も若く百日行達成者で処女で美形だったからである。

 何より、夏の時点で彼女の胸はCカップであった。

 ピールハンマドがぎりぎり許容できる大きさである。

 そう、女性の胸はCカップ以上になってはいけない!

 これは、彼の師匠である前宰相エディゲ・アドッラティーフ、その息子ムバーリズッディーンが語っていたこの世の真理である!

 なのに、ネディーアールはそれを越えてしまった。

 ピールハンマドが目を瞑っていた真実を言えば、彼女の母親を考慮すればネディーアールは遅かれ早かれピールハンマドの理想から逸脱しただろう。

 外征の時期がネディーアールの第二次性徴の時期と重なった事、そして、カンナギ・キョウスケとの性交に耽溺してしまった事が彼女の胸部を急速に発育させてしまっただけである。

 余談だが、カンナギ・キョウスケはネディーアールから胸を大きくするよう頼まれたものの、彼女に関してはこのままでも充分大きくなるだろうからやり過ぎは良くないと自然に任せていた。

 それでもネディーアールの胸はDカップを超え、Eカップに迫ろうとしている。

 そして、それと共に変わったのが彼女の服装だ。

 外征以前のネディーアールは宗主の注目を避けるため武人的な装いをしていた。

 だが、カゲシン帰還後には母親との関係が改善したこともあり、母親デュケルアールの若年時のドレスを譲り受けて着用していた。

 肌の露出が多く、胸を強調したドレスである。

 これは、宗主シャーラーンの趣味であり、カンナギ・キョウスケの趣味にも合っていた。

 ピールハンマドにとっては下品極まりない!


 こうして、ピールハンマドはシャールフとネディーアールを諦めた。

 そこに、バャハーンギール側から、『和解案』が示される。

 僧侶修行の厳格化、百日行などの修行達成者の積極的な登用は、ピールハンマドの案を継続する。

 だが、従来の簡略化した修行での僧侶位階の発給も継続する。

 その上で、職種により両者の住み分けを図るというものだ。

 現実問題として絶対的な官僚不足が存在している。

 これは折衷案としては妥当と言えた。

 ピールハンマドは不承不承受け入れる。

 更に、バャハーンギール側は婚姻を持ち出した。

 帝国宰相の第一正夫人は宗家内公女でなければならない。

 第二正夫人は有力諸侯の娘だ。

 以前はブンガブンガの女王と言われたトエナ系内公女ガートゥメンとネディーアールしか未婚の内公女はいなかった。

 だが、新たな内公女、正確には将来の内公女ができていた。

 即ち、バャハーンギールの娘である。

 バャハーンギールの娘を第一正夫人に、ゴルデッジ侯爵の娘でバャハーンギール第一正夫人の同母妹でもある娘を第二正夫人との話だ。

 二人とも魔力量は従魔導士程度でピールハンマドとも合う。


 問題はバャハーンギールがピールハンマドよりも年下なことだろうか。

 バャハーンギールの長女は二歳。

 ゴルデッジ侯爵の娘は十一歳であった。

 帝国広しといえど二歳の娘を第一正夫人候補と言われて喜ぶ貴族は多く無い。

 普通の男性であれば、馬鹿にされたと激怒するか、政略結婚として割り切るかだろう。

 だが、ピールハンマドは本気で喜んだ。

 この話を聞いた時、ピールハンマドはエディゲ家謹製の『淑女の躾け方』、キョウスケ婚約者のハトンも熟読している例の本を取り出し、舌技は何歳から仕込もうかと熟考してしまった程である。

 カンナギ・キョウスケが聞いたならば、『お前は前田利常か!犯罪以前の問題だろう!』と突っ込んだだろう。

 だが、ピールハンマドはこの『厚遇』に満足した。

 こうして、バャハーンギールとアーガー・ピールハンマドの和解が成立したのである。




 和解は成立したものの、これは双方の強硬派には不満であった。

 つい先日まで互いに非難し合っていたのだから仕方がない。

 ピールハンマド派では宗主護衛騎士団長ラーグン・ホダーイダードが離脱した。

 ラーグンはあくまでもシャールフ擁立を唱えて譲らない。

 彼は最近タルフォート伯爵に接近しているという。

 公には明言していないが、タルフォート伯爵もシャールフ擁立派だという。

 シャールフの下で宰相になると言っているらしい。

 タルフォート伯爵についてはガーベラ会戦直後にはシャールフと親密な行動は無く、バャハーンギールも自分の派閥と認識していた。

 噂ではカゲシンへの帰途に鞍替えしたとの事だが、詳細は分からない。

 それでも注意は必要だろう。

 クチュクンジが失脚した現在、タルフォート伯爵は宗家に最も近い血統の有力諸侯なのだ。

 ピールハンマドは自派を固めるためにも、そしてバャハーンギールたちに力量を示すためにも、功績を必要としていた。




 ノックの音がした。


「入れ」


 ピールハンマドの言葉に導かれるように入室したのは白い肌に灰色の髪、グレーの瞳をした筋肉質の男だった。

 帝国民が想像する典型的な月の民の外見である。


「お待たせしましたかな?」


 部屋に招き入れられた男、セリガー社会主義共和国連邦の対帝国外交現地責任者ユーリーはそう言って席に腰かけた。

 ピールハンマドは頭部の宰相冠を確認する。

 冠と言っても宗教国家宰相のそれは簡便な物である。

 だが、それには威圧防止の防壁が施されている。

 月の民との会談では絶対的に必要な品だ。

 衣服も一見質素だが、入念な対魔法防御が施された逸品。

 ピールハンマドの魔力量は従魔導士程度に過ぎない。

 一方、目の前の男は守護魔導士クラスと情報にはある。

 密室での一対一の会談。

 用心に越したことは無い。

 それでも目の前の男がその気になればピールハンマドは一分と待たずに絶命するだろう。

 ピールハンマドにとってこの会談は命がけであった。


「事前の使者と書面で概略は聞いている。

 だからここにいる。

 貴官はつい先日までクチュクンジと連携していた。

 それが、今回は我らと提携したいという。

 信じるに足る保証を聞きたい」


 ピールハンマドは前置き無しで本題に入った。

 儀礼は必要ない。


「まず、お話ししたい。

 閣下も並々ならぬ覚悟でこの場に来られたものと推測いたします。

 ですが、自分もそれは同じ。

 いや、恐らくは閣下以上でしょう。

 自分は今回の任務に失敗した場合、命の問題になります」


 セリガー共和国対帝国現地責任者であるユーリーは監視役のバイラルと共にガーベラ会戦まではカゲシン市内にあり、クチュクンジと提携していた。

 ガーベラ会戦による敗北でカゲシン在住のセリガー一行はカゲシンを脱出。

 セリガーの秘密拠点があるオルダナトリスに退避する。

 そこで、ユーリーとバイラルは談合した。

 今回の失策はケイマン族とフロンクハイトによるものであり、セリガー側に過失はない。

 だが、大きな失敗であるのも事実。

 このままセリガー本国に戻れば、ユーリーは勿論、バイラルも危うい。

 セリガーの対帝国責任者である『第七市民ニキータ』は失敗を二人に押し付けるだろう。

 ユーリーはニキータが人族の女に産ませた息子である。

 セリガーでは多くの血族を得るため、高位の男性市民はしばしば人族の女に子を産ませる。

 血族同士で子を成すよりも簡便だからである。

 ユーリーは人族として生を受け、その後才能を認められて転化した。

 息子ではあるが、ニキータにとっては使える駒の一つでしかない。

 自分の身代わりとして責任を押し付ける事に躊躇は無いだろう。

 そこで、ユーリーはそのままオルダナトリスに留まった。

 バイラルは本国に戻り報告、そしてユーリーとの橋渡しを担う。

 そうして、彼らは起死回生の策を作り上げた。


「ポイントは帝国とセリガー双方にとっての利益、です。

 確かに我々はつい先日まで、帝国から一方的な利益を取ろうとしていました。

 それは認めます。

 ですが、この状況になっては多くは望めない。

 そして、我らにとっての現状は、今回の騒乱以前よりも悪化しているのです。

 帝国の東部、国境近くに国家守護魔導士、それも複数を擁する軍閥が駐屯している。

 これは、セリガーにとって許容できません」


「セリガーが誇る一桁市民にとってはどうでも良い話ではないのか?」


「勿論、我らが全力を挙げれば勝利できるでしょう。

 ですが、我らにとっても恒常的な戦争状態は好ましくありません。

 既に北方のスラウフ族とは泥沼の戦いとなっているのです」


 牙族遊牧民国家であるスラウフ族は、セリガーの上位者が出撃したと知れば、草原の奥深くに退避し、いなくなった途端、襲撃に転じる。

 セリガーにとっては頭の痛い相手だ。

 この辺りの事情はピールハンマドも知っている。


「クロスハウゼン軍閥と戦うとすればセリガーの有力部隊を用意しなければなりません。

 これはセリガーと帝国との全面戦争を意味します。

 我らといえど簡単に踏み切ることはできません。

 ですがそうなると、クロスハウゼン軍閥に備えて東部の軍備を増強せねばならない。

 これはかなりの負担です」


 若き宰相は頷いた。

 それは確かにそうであろう。


「ですが、幸いクロスハウゼン軍閥が邪魔なのは我らだけではない。

 カゲシン中央政府は地方に巨大軍閥が存在する事を許容できない。

 複数の国家守護魔導士を有し、帝国中央軍でも潰すことが不可能な規模の軍閥は許容できない。

 帝国中央政府が地域軍閥として許容できるのは現状の騎士団規模、兵力は一万程度でトップは守護魔導士まで。

 違いますか?」


 ユーリーの言葉は第四帝政の本質を突いていた。

 宗教国家である第四帝政は、政権トップが軍権を直接握っていない。

 帝国中央政府が持つ軍事力は地域諸侯が反乱を起こしてもそれを鎮圧できるギリギリの規模だ。

 地域諸侯の軍事力が強化されれば、あるいは中央の軍事力が低下すれば、均衡は崩れる。

 中央軍が減少し、中央から地方に移動した軍事力がそのまま留まるというのは最悪の事態だろう。


「クロスハウゼンがシュマリナを陥落させてからまだ半月程度だ。

 クロスハウゼンは何れカゲシンに戻ると明言している」


「だが、その時期は明言していない。

 我らの所にはクロスハウゼンがシュマリナ地区の支配を着実に進めているとの情報が入っています。

 既に代官は大半がクロスハウゼン系に置き換えられました。

 中小諸侯で反抗的な者が幾つか懲罰的に潰されたとの話も聞いています」


 その話はカゲシンにも入っている。


「更に言えば、クロスハウゼンがカゲシンに戻ってきたとしてどうするのです?

 ベーグム改めガーベラ師団はヘロンから戻らない。

 ナーディル師団もジャロレークから戻らない。

 中央はクロスハウゼン一強となる。

 これで、クロスハウゼンがトエナ公爵家を屈服させれば、その威勢は並ぶ者がなくなるでしょう。

 自分には、シャールフ宗主とバフラヴィー宰相という未来しか見えませんが」


「確かにそれは認められん!」


 マリセア正教を軽んじる世俗派が帝国を支配する未来などあってはならない。


「全く、その通りでしょう。

 要するに、クロスハウゼンの存在は、特にその若き指導者バフラヴィーの存在は許容できない。

 セリガーにとっても、帝国中央政府にとっても。

 ここに我らの合意点があります」


 第四帝政の歴史は、マリセア宗家と軍指揮官の相克の歴史でもある。

 内乱あるいは外乱が発生するたびに中央軍が派遣される。

 勝利すれば軍の権威が上がる。

 統治のためにそれを抑制する。

 今までも中央軍指揮官が罪に問われた例は少なくない。

 十三年前のケイマン族との戦いではベーグム師団が敗北し、クロスハウゼン師団が勝利している。

 しかし勝利したクロスハウゼンは、師団長カラカーニーの息子二人が戦死した。

 このため、この時は特別な抑制策は取られていない。

 だが今回、ガーベラ会戦の指揮を執ったのは若きバフラヴィーである。

 あと二〇年は寿命があるバフラヴィーの権威増大は認められない。


「それで、この案か?」


「はい、我らが預かっている『粗大ごみ』を餌にバフラヴィーをおびき寄せます」


 クチュクンジはシュマリナ陥落後に国境を越えセリガーに庇護されていた。

 現在クチュクンジがいるのは中間地帯、帝国とセリガーの緩衝地域の一角である。

 実は、クロスハウゼン・カラカーニーは一つの失策をしていた。

 彼は、シュマリナを失ったクチュクンジは北上し旧ウィントップ領経由でトエナ公爵家に移動と予想していたのである。

 だが、トエナ公爵家と提携していたスラウフ族は北の草原に去り、旧ウィントップ領は主不在の無法地帯となっていた。

 旧ウィントップ領東端のローカード要塞にはローカード伯爵が復帰している。

 クチュクンジが通れる状態ではない。

 クロスハウゼンにはこの情報が入っていなかった。

 スラウフ族はクロスハウゼンに使者を送っていたが、戦乱地区を抜けられず、遅れに遅れていたのである。


「破門されたとはいえマリセア宗家に連なる者を粗大ごみとは敬意に欠けるな」


「確かに使い道があるのですから、ゴミではないですか」


 ユーリーが達観した顔で続ける。


「そのクチュクンジ殿を帝国東部地区で蜂起させればクロスハウゼンは鎮圧に向かうしかない」


「おびき寄せて殺すというのだな」


「クロスハウゼンがそれを拒むのであれば、それを咎に処罰すればよいでしょう」


 ピールハンマドは頷いた。

 そこまでは納得している。


「いくつか懸念がある。

 クロスハウゼンを誘き出して、それで勝てるのか?

 ガーベラ会戦でバフラヴィーはフロンクハイトの枢機卿を倒している」


「ご不安は尤もです。

 ですが、心配はいりません。

 第一に、こちらは『一桁』を派遣します。

 セリガー共和国の一桁はフロンクハイトの枢機卿よりも格上です」


 その保証はあるのかと、数か月前のピールハンマドなら聞いただろう。

 だが、今の彼はとりあえず話を聞くという技能を身に着けていた。


「もう一つ、クロスハウゼン・バフラヴィーは単独でフロンクハイトの枢機卿を倒したわけではありません。

 枢機卿が単独で突撃してきた所を他の魔導士と共同で撃破したと聞きます。

 バフラヴィーが主体だったのはあるでしょうが、他の助力も大きかった。

 特に、ゲレト・タイジという牙族に突然出現した魔導士の存在が大きかったと聞きます」


 確かに、バフラヴィーは他の魔導士の助力、特にゲレト・タイジのそれを称賛していた。


「枢機卿は単独でもバフラヴィーに勝てると考えて突進したのでしょう。

 そして、それは恐らく正しかった。

 だが、戦いは一対一にはならず、助けが入った」


「一対一なら勝てるということか?」


「確実に。

 仮に魔力量が同等だとしても、我ら血族は再生力で人族に大きく勝ります。

 一対一、あるいはこちらが多数であれば問題ありません。

 故に、この場所が必要となります」


 ユーリーは二人の間に広げられていた地図の一点を指し示す。


「だが、その様な決闘にカラカーニーやバフラヴィーが応じるのか?」


「それを命じるのがそちらの役目です。

 取り逃がした国賊を確実に始末しろと言えば否とは言えますまい」


 ピールハンマドは頷いた。

 十中八九、クロスハウゼンは受けるだろう。

 仮に受けなければ、それは粛清の口実となる。

 ピールハンマドはしばし熟考し、そして口を開いた。


「良かろう。

 内密に宗主猊下、並びにバャハーンギール殿下の裁可を受ける。

 二日間だけ待て」


「期待していますぞ」


 月の民が指し示した地図には、アルダ=シュールとあった。




 ━━━第四帝政においては、帝国中央政府の権威はマリセア正教によって保たれているとの建前であった。勿論、現実には武力的な裏付けが必要となる。━━中略━━第四帝政は文民政権であり、現代的な視点としては賞賛すべきであるが、現実問題として歴代政権は軍事組織の制御に苦心した。━━中略━━対外戦争での勝利による軍事組織の、特にそのトップの勢力拡大をカゲシン政権は早期に抑制する必要があったのだ。これが第四帝政の組織を維持するのに不可欠であったのは事実だろう。━━中略━━しかしながらガーベラ会戦後、帝国歴一〇七九年から一〇八〇年にかけて実行された政策は、後世からの視点で見れば拙速との誹りは免れ得ない。━━━

『ゴルダナ帝国衰亡記』より抜粋

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