07-37S ゲレト・スラウフ・テスナ 最終防衛線
クロスハウゼン旅団第一歩兵連隊が撤退した直後、それを追うように敵軍は突撃を再開しました。
先頭は当然、親衛大隊。
それに入り混じるようにフロンクハイト魔導大隊。
親衛大隊の両脇にも重装歩兵大隊が続きます。
そうして、敵軍は突撃を開始し、そして、止まろうとしました。
そう、止まろうとしたのです。
最前列の兵士は。
第一線から第五線までの帝国軍陣地の間は、それぞれ数百メートルの間隙がありました。
敵は当然、第五線と第六線の間もそうだろうと考えていたのでしょう。
ですが、第五線と第六線の間は五〇メートルしかありません。
第六線陣地はこれまでの陣地とは全く形態が異なります。
第六線陣地は一言で言えば、大きな堀です。
幅十五メートル、深さ五メートル、長さは七〇〇メートルを超えます。
それ以外の施設は堀の後ろに申し訳程度の土塁がある程度です。
堀にはだいたい一〇〇メートルごとに簡易な橋があります。
欄干もない粗末な木製の橋ですが、これは、第五線陣地将兵の後退のために設けられました。
勿論、戦闘には使えない、簡単に破壊できる橋です。
カンナギ・キョウスケが基礎を作り、バフラヴィー様の正夫人、スタンバトア様とヌーファリーン殿が責任者となって作られたのがこの陣地です。
堀の拡張は、朝からこの戦闘の直前まで、ヘロン市の住民を動員して行なわれていました。
ヘロン市住民の人海戦術もありますが、スタンバトア様らの魔法が無ければ不可能だったでしょう。
第六線陣地の情報は秘匿され、私たちにも直前までは知らされていませんでした。
敵も知らなかったでしょう。
そもそも、朝の時点では一部しかできていませんでしたから、スパイがいても知らせるのは無理だったと思います。
更に、スタンバトア様たちは堀に認識阻害魔法をかけています。
この魔法は、対象がなんとなくぼやけるぐらいの物ですが、この場合は効果的でした。
しかし、帝国内公女であるスタンバトア様に魔法での穴掘り経験があったことが驚きです。
聞けば、レトコウ紛争で経験していたそうですが、何があったのでしょう?
良く分かりませんが、とにかく、今現在、敵重装歩兵部隊の前には巨大な堀があります。
幸か不幸か直前の豪雨で底には大量の水も溜まっています。
ここに落ちれば、どうにもならない、死は免れないのは一目でわかるでしょう。
しかも、七〇〇メートルもありますから迂回は不可能です。
ですので、敵は止まるしかありません。
ですが、敵は重装歩兵。
視界も悪く、聴覚も制限されます。
加えて、認識阻害魔法に戦場の喧騒、雨まで降っています。
堀に気づけたのは最前列の兵士の数名、それも十メートルほどに近寄ってからでした。
堀に気付いた兵士が必死に止まれと叫びますが、気付いていない兵士は前進を続けます。
続けてしまいます。
一部の兵士が必死に止まろうとしても、後ろは止まりません。
止まろうとした兵士も、前に押し出されます。
そして、そこを帝国軍のありったけの投射兵器が襲います。
全ての魔導砲、ヘロン要塞から運ばれた大型クロスボウ、バリスタ。
矢が限られるため温存されていた長弓兵部隊もここぞとばかりに連射しています。
クロスボウ部隊は、先端に石を付けたボルトを撃っています。
プレートメールに対して貫通威力は無く、射程も命中率も低下しますが、当たれば打撃力は大きく、足を滑らせれば転倒します。
転倒すれば、足元は下り坂。
丁寧に整地された下り坂には雨が降っています。
転倒すれば、そのまま、前に転がっていきます。
周囲の兵士を巻き込んで、転がっていくのです。
更に帝国軍は、敵陣に油壷を投げ込みます。
当初の予定では火攻めにするはずでしたが、この状況では油だけでも効果があります。
雨と油にまみれ、下り坂で転倒すれば、もう終わり。
堀底まで一直線です。
敵にとって最悪なのは、敵の前進が止まらない事実でしょう。
魔導砲の攻撃を受けた敵兵は、これまでの経験で前進を早めます。
魔導砲から逃れるには一刻も早く帝国軍陣地に到達するしかありません。
少なくともこれまではそうでした。
前の兵士が止まれと叫んでも、後ろの兵士は恐怖で足を速めるのです、
「ねえ、テスナ、アーサー家のウェズリー将軍って知ってる?
後にウェリットン公爵になったとかいう人らしいんだけど」
カンナギ殿から第六線陣地の説明を受けたというタイジ様が挙げた人物は私には全く聞き覚えの無いものでした。
「少なくとも牙の民の軍人ではないですね。
帝国軍人でもないと思います。
帝国の公爵家であれば、私が知らない筈がありません」
オルジェイトも知らないようです。
「そうだよねー、僕も全然知らない名前なんだよ。
昔々の人かなぁー。
でも、今回の作戦は、キョウスケが言う所では、その将軍のパクリなんだって」
そうしてタイジ様が、正確にはカンナギ殿がタイジ様に説明したのは、『反斜面陣地』という概念でした。
普通、陣地は、高所に作る物です。
高所の方が見晴らしは良く、射撃武器は射程が長くなり命中率も良くなります。
白兵戦でも高い位置から低い位置の敵を攻撃するのが有利です。
故に、要塞や砦は櫓や壁を立てて敵より高い位置を確保します。
野戦でも高い位置に陣地を作るのが常識でしょう。
ですが、斜面の反対側に陣地を作るのも利点があると、カンナギ殿は説明します。
「斜面の反対側に陣地を作るメリットは敵にこちらの陣地の正確な位置と規模を悟らせない事だ。
斜面の反対側にいる敵はこちらを見ることが出来ない。
攻撃もできない。
こちらを攻撃できるのは、斜面のこちら側に来た敵だけだ。
こちらは、斜面を越えてきた敵だけを相手にすればよい。
そして、こちら側に充分な射撃武器がある場合、低所のデメリットはさほどでもない」
敵軍に自軍陣地の位置と規模を悟らせない。
典型的なのが、この巨大な堀でしょう。
通常であれば、野戦でこのような巨大な堀を作ってもあまり意味はありません。
せいぜい敵の攻撃位置を限定できる程度でしょう。
巨大な堀に突撃して、自ら堀に落ちるなど有り得ません。
ですが、突撃する側が直前まで堀の存在を知らなければ話は変わります。
この堀は、この朝の段階でも完成していなかったのです。
敵軍は、あるいは第六線陣地の存在は掴んでいたのかもしれません。
ですが、その位置と内容までは知らなかったのでしょう。
そして、現在、敵は次々と自ら堀に突っ込んで落ちています。
敵は、視界と聴覚が制限された重装歩兵。
それが密集隊形で突撃してきています。
斜面の向こう側では、反対側で激戦が行われている事しか分からないでしょう。
敵兵はこちら側にきて初めて、いや、しばらくたって状況を知るのです。
ですが、止まろうとしても、後ろからは味方が次々に突進してきます。
下り坂で止まるのは困難であり、左右に避けようとしても、帝国軍の射撃兵器が襲います。
ケイマン軍重装歩兵、精鋭の親衛大隊が何も分からないままに、次々と坂道を転がり、堀に落ちていきます。
フロンクハイトの魔導兵は、視界が広いので状況を早めに理解したようですが、戦場の喧騒と雨の中、後続には声が届きません。
そして、態勢を崩した重装歩兵に巻き込まれて堀に落ちていきます。
敵は大混乱で、反撃も何もありません。
いえ、元々重装歩兵は白兵戦以外できません。
フロンクハイトの吸血鬼も、ライトニングボルトはせいぜい十メートルほどしか届きませんから、十五メートルの堀の向こうには届きません。
ファイアーボールも雨で射程が落ちます。
掘の際まで近寄れば投擲可能ですが、そのような兵士は目立ちますから狙い撃ちにされます。
面白い、というか、唖然とするぐらいの速度で敵重装歩兵部隊が、精鋭の親衛大隊が潰れていきます。
そして、敵には更なる悲劇が待っていました。
敵親衛大隊とフロンクハイト大隊の後ろから重装騎兵部隊が突撃してきたのです。
兵士から馬まで赤い鎧を揃えている所からすると、これも親衛大隊なのでしょう。
その親衛騎兵大隊が、斜面を乗り越え、そして、堀に向かって突撃していきます。
経路上の歩兵を巻き添えにして、です。
私も牙の民、騎兵は熟知しています。
突撃状態の騎兵部隊が五〇メートル程度で止まるのは至難の業です。
それも下り坂に雨と油付です。
分かっていても止められません。
恐らく突撃している兵士は地獄に向かっている心境でしょう。
敵ながら、気の毒としか言いようがありません。
次々と、堀に落ちていく重装騎兵。
その突撃がかろうじて止まった時、赤い鎧の重装騎兵はほとんど残っていませんでした。
敵重装騎兵の後ろには通常の騎兵が続いていましたが、これは何とか停止することに成功しました。
ですが、停止したからと言って敵の試練は終わりません。
棒立ちになった歩兵と騎兵の集団に魔導砲や大小のクロスボウ、そしてロングボウなどの投射兵器がうなります。
我が第二魔導大隊も、最後のマナを振り絞って砲撃を継続します。
「いけるぞ!」
「勝てるぞ!」
「残らず殺せ!」
生気を取り戻した兵士たちが最後の気力を振り絞って戦っています。
そんな、勝てるか、と思えた時でした。
突然、一人の敵兵が味方陣地のど真ん中に躍り込みました。
金色の髪に白い肌、青い目、そして白い法衣。
間違いありません。
あれは、フロンクハイトの枢機卿、吸血鬼の親玉でしょう。
見れば、中央部の堀が半ば埋まっています。
敵重装騎兵大隊が丸々落ちたことで、その死体で堀が半ばまで埋まっていたのです。
吸血鬼は味方の死体を足掛かりに堀を飛び越えてきたのです!
フロンクハイト枢機卿は鞭のような物を両手で振り回します。
あれは、恐らく『竜』と呼ばれる吸血鬼だけが使える魔法でしょう。
あっというまに、十人以上の兵士が倒れます。
恐ろしい力です。
このまま、たった一人の吸血鬼に蹂躙されてしまうのかと思った時に、一人の重装歩兵、プレートメールを身に纏った兵士が躍り出ました。
あれは、バフラヴィー様です。
総司令官が自ら最前線で戦っています!
総司令官が一兵卒として戦うのは褒められたことではありません。
ですが、この場合はこうするしかないでしょう。
フロンクハイトの枢機卿に対抗できるとしたらバフラヴィー様しかいないのです。
吸血鬼の『竜』がバフラヴィー様の体に巻き付きます。
「いまだ、撃て!」
バフラヴィー様が『竜』に耐えます。
耐えていますが、バフラヴィー様から攻撃することはできません。
吸血鬼の二本の『竜』は一本がバフラヴィー様の盾と体に、もう一本が剣を持つ手に巻き付いています。
ですから、バフラヴィー様自身が攻撃することはできません。
バフラヴィー様の言葉に周囲から矢や魔法が跳びます。
ですが、吸血鬼の体には届きません。
良く分かりませんが、体の表面で弾かれているようです。
「テスナ、オルジェイト、魔導砲、長砲身の魔導砲だよ!」
タイジ様が叫びました。
ですが、魔導砲で狙うには的が小さ過ぎます。
いえ、狙うこと自体はできます。
これまでも何度も敵兵を狙って撃ってきました。
ですが、それは、的の周囲に味方がいない場合です。
魔導砲では、一メートル程度は誤差の範囲です。
バフラヴィー様と吸血鬼が近接している状況ではとても魔導砲で狙うことはできません。
「あああああああああ、そそそそ、そう。
いや、じゃ、じゃあ、僕が狙う。
そー言えば、僕じゃなきゃダメだってキョウスケが言ってた」
意味不明です。
タイジ様が狙ったからと言って魔導砲の誤差が減るわけではありません。
「ああ、えーと、だから、まず、僕がライトニングボルトで狙う。
僕の魔法が当たったら、バフラヴィー様と少し距離が取れると思う。
そしたら、魔導砲で狙って」
「タイジ様、ライトニングボルトは何本も当たっています。
でも倒せていないのですよ!」
オルジェイトが叫びます。
「ああ、フロンクハイトの枢機卿は『風鎧』とかいう技があるんだって。
だから普通の魔法だと弾かれちゃう。
高威力の魔法が必要だってキョウスケが言ってた。
それを撃てるのはバフラヴィー様と僕だけだって。
だから、もう、僕しか撃つ人いないから、生き残りたかったら撃てって、それで、撃たなかったらライデクラート様に頼んで、・・・ぶち込んでもらうって、キョウスケが、・・・」
良く分かりませんが、バフラヴィー様は限界のように見えます。
『竜』が盾を押しつぶしていくのが見えるのです。
「分かりました。
やりましょう!」
私とオルジェイトで魔導砲を用意します。
長砲身、長射程の魔導砲です。
タイジ様がライトニングソードを構えます。
ですが、手が震えて、狙いが定まりません。
私はオルジェイトに魔導砲を任せると、タイジ様を背後から支えます。
慎重に狙いを付けます。
「今です!」
私の合図とともにライトニングソードから魔法が飛び出ます。
敵との距離は五〇メートル余り。
普通のライトニングボルトでは絶対に届かない、ファイアーボールですら困難な距離でしょう。
ですが、タイジ様が放った魔法はその距離を乗り越え、そして、吸血鬼の左わき腹に当たりました。
瞬間、吸血鬼の左手から『竜』が消えました。
これを見逃すバフラヴィー様ではありません。
バフラヴィー様は自由になった右手の剣を吸血鬼の右腕に叩きつけました。
吸血鬼が苦悶の表情で叫びます。
吸血鬼の右腕から鮮血が噴き出します。
腕は、切断こそされませんでしたが、出していた『竜』は失われます。
バフラヴィー様はそのまま左腕の盾を吸血鬼に叩きつけます。
たたらを踏んで後退する吸血鬼。
ですが、吸血鬼はしぶとく左腕の『竜』を作り直します。
ですが、そこまででした。
オルジェイトの魔導砲が命中したのです。
オルジェイトの発射した砲弾が吸血鬼の左腕に直撃します。
更に次々と魔導砲が、大型のクロスボウが、放たれます。
皆、チャンスを窺っていたのでしょう。
半分以上は外れましたが、数発は命中し、吸血鬼の体を粉砕します。
「油だ!」
バフラヴィー様の言葉に数人の兵士が駆け寄り、幾つかにちぎれた吸血鬼の体に油を掛けます。
そこに、バフラヴィー様がファイアーボールを放ちました。
周囲の兵士も追加で油を注ぎます。
魔導士が集まり、ファイアーボールが何発も、何発も撃ち込まれます。
吸血鬼、特に位が上の吸血鬼は少しでも体が残っていれば生き返ると聞きます。
入念に焼き尽くすしかないのです。
雨の中、吸血鬼の体が燃え上がりました。
そして、ケイマン軍の攻勢も終わりました。
敵前衛の三個の重装歩兵大隊はほぼ全滅です。
吸血鬼の大隊も同じ、重装騎兵大隊も同じです。
それらに後続していた通常の歩兵部隊、騎兵部隊は大量の屍をさらして敗走していきます。
吸血鬼の死が彼らの最後の勇気を砕いたのでしょう。
あの勇敢で獰猛なケイマン兵がパニックで敗走しているのです。
こんな光景は、そう見られる物ではないでしょう。
気が付けばバフラヴィー様が目の前に来ていました。
バフラヴィー様がタイジ様の肩を叩きます。
何度も、何度も叩きます。
タイジ様は完全に気が抜けたようで、呆然としていますが、嬉しそうです。
私も誇らしさで胸がいっぱいです。
気が付けば私たちの周囲に、帝国軍の首脳が集まっていました。
「我々の勝利だ!
勝どきを上げろ!」
第三魔導大隊長のレニアーガー殿の叫びに全軍が唱和しました。
シャールフ殿下が駆け寄ってきて、バフラヴィー様に抱き着きます。
「バフラヴィー、素晴らしいぞ!
やはり、バフラヴィーが一番手柄だ!
約束通り、一番にバフラヴィーの中に私が直接、・・・」
シャールフ殿下が何か言いかけたところで、バフラヴィー様が殿下の顔を鷲掴みにしました。
バフラヴィー様の指が顔面に食い込んでいます。
殿下の言葉が止まります。
あれは、相当に痛いでしょう。
殿下はフガフガと言葉にならない何かを叫んでいますが、バフラヴィー様はそのまま引きずっていきます。
どうやら司令部テントに戻るようです。
バフラヴィー様はシャールフ殿下の守役だと聞いていますが、カゲシンの公子にあのようなことをして良いのでしょうか?
シャールフ殿下の婚約者であるジャニベグ殿がバフラヴィー様に走り寄って抗議しています。
こちらでは、バフラヴィー様第一正夫人であるスタンバトア様が天を仰ぎ、第三正夫人のヌーファリーン殿がヤレヤレと首を振っています。
何が起こっているのかは分かりませんが、何となくかかわらない方が良い気がしました。
総司令部から旅団反攻準備の命令が出たのはそれから十五分後の事です。
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