05-08 飲みすぎ、食べすぎ、やり過ぎ、(二)

 現代の医師であれば糖尿病で昏睡と言われても不思議には思わないだろう。

 だが、近世以前では糖尿病で昏睡となる事は稀であったという。

 糖尿病性昏睡には大きく分けて低血糖性と高血糖性の二種類がある。

 低血糖性昏睡は、血液中の血糖値が極めて低くなって昏睡に陥る状態だが、薬剤、スルホニルウレア剤やインスリンの過剰投与で起こる。

 当然ながら、これらの薬剤が出来る前は起こり様が無かった。

 高血糖性昏睡は、血液中の血糖値が高くなりすぎて昏睡に陥る状態だから、理論的には近世以前にも起こり得る。

 だがこれも、現実にはまず起こり得なかった。

 人間、具合が悪くなれば食事摂取量は低下する。

 食事をとらなければ血糖値は自然に低下する。

 つまり、簡単に摂取できる高カロリー食品、特に高カロリー飲料が手近に豊富に無ければ高血糖性昏睡は発生しない。


『宗主専用スペシャルドリンク』、説明を受けた時には眩暈がした。

 ベースは赤ワイン、それに各種薬草の抽出液、魔獣亀の生き血、魔獣魚の白子などなどを加え、最後に大量の砂糖で仕上げる。

 砂糖は、各種材料の苦みを消すためでもあり、飽和限界まで投入されている。

 レシピを見ると一リットルに一五〇グラムほどの砂糖が入っているようだ。

 一リットルで少なくとも五〇〇、下手すると八〇〇カロリーぐらいあるかも知れない。

 ポカ〇スエットなんか目じゃないな。

 宗主は一日八リットル前後飲んでいた、・・・三回ほど聞き返しちゃったが事実らしい。

 容態が悪くなってからも、意識が戻る度に飲んでいたとか。

 まさか、こちらの世界でペットボトル症候群を診ることになるとは思わなかったよ。




「この飲料は極めて糖分が多く、非常に高カロリーです。

 恐らく、猊下は何年も前から糖尿病に罹患していたのでしょう。

 この飲料の過剰摂取を続けた結果、高血糖性昏睡に陥った物と診断いたします」


「やはり、その飲み物か」


 シャイフが苦々し気に吐き出す。


「高血糖性昏睡は、確か、魔力量の高い者であれば成りにくいと聞きます。

 宗主猊下は上級魔導士レベルと聞きますから体内でマナが産生される時に血糖が使用される筈です」


 シノさんが、こちらの人間特有の話を持ち出す。

 こちらの医学書によればマナは理論的には人間の体全ての細胞で産生されるが、大半は、上行大動脈周囲のリンパ節みたいな組織で産生されるという。

『マナ節』という名前が付いている器官だ。

 このマナ節は主として血液中の糖分を使用してマナを産生する。


「それについてなのですが、猊下は上級魔導士とお聞きしましたが、本当でしょうか?

 私は本日初めて診察させて頂きましたが、猊下には従魔導士かそれ以下の魔力しか感じられませんでしたが」


「其方、猊下を侮辱するのか!」


 施薬院講師の一人が激昂するが、シャイフが冷静に押し止める。


「其方は、今日初めて診たのであろうが、猊下は本当に上級魔導士の魔力量は保持されていたのだ。

 現在は、体調が悪いからマナの産生が落ちて、・・・それが原因か!」


「はい、現在の猊下には糖尿病だけでなく、心不全と腎不全があるのは間違いありません。

 心不全で循環血液量が低下しマナの産生量も低下し、結果として血液内の糖分も消費されません。

 マナが産生されないからマナによる回復力も低下しているのでしょう」


 糖尿病に関して言えば膵β細胞からのインスリン産生低下と末梢インスリン抵抗性増大の両方が起こっている可能性が高い。


「よく分らぬが、其方のいう所が正しいとして、猊下の容体は回復するのか?」


 エディゲ宰相が口をはさむ。


「血糖値を低下させれば意識は回復する可能性は高いと考えます。

 祝福の儀式が行えるかどうかは分かりませんが、現状においては、まず、これを行う必要があるかと」


「その薬が有るのだな」


「インスリンという薬が有ります」


「待て、その薬は、・・・」


 シャイフ主席医療魔導士が苦悶の声を上げる。


「分かっています、先生。

 ですが、他に手はない。

 放置して自然に意識が戻る可能性が無い訳では有りませんが、既に十時間と聞きます。

 このまま意識が戻らなければ最悪の事態を考慮しなければなりません」


「だが、・・・」


「何の懸念が有るのだ?」


 唸り続けるシャイフに宰相が声をかける。


「インスリンは我らの始祖様が医学書に記載した唯一の『糖尿病治療薬』です」


 シノさんが静かに言葉を発した。


「ですが、量の調節が極めて難しいのです。

 少なければ効果は無く、多ければ死にます。

 それも症例によって投与量が変化するだけでなく、同じ患者でも日によって適切な量が変化するのです。

 そして、どれぐらい投与すべきかという目安もありません」


「そんな劇薬を使用するというのか!」


 宰相の声は悲鳴に近い。


「極めて危険な事は承知しています。

 ですが、他に手はない。

 そう考えます」


 シャイフが頭を抱えて唸る。


「確かに、この尿からは糖の臭いがする。

 猊下が糖尿病であることは間違いない。

 だが、糖尿病で昏睡などという太古の医学書にしか記載されていないような状況だというのか、・・・」


 地球でも糖尿病は古代から存在した。

 日本では平安時代の藤原道長が糖尿病だったとされる。

 だが、糖尿病の治療が開始されたのは二〇世紀に入ってからであり、一般化したのは第二次大戦後と言って良い。

 そもそも、血糖値の測定が出来なかった。

 正常人の空腹時血糖は一〇〇mg/dl弱というところである。

 これが一三〇を超えると糖尿病と言って良いし、五〇になると低血糖で脳細胞が破壊される可能性が出て来る。

 この、一〇〇、一三〇、五〇という数字、血液一リットル中の糖分が、一グラム、一・三グラム、〇・五グラムということである。

 この繊細な測定が出来なかった。

 こちらの世界でも出来ていない。

 測定できないから糖尿病の診断も無い。

 魔法でも測定できないらしい。

 オレなら魔法で出来るんじゃないのかって?

 実は、オレ、血糖値の測定方法を知らない。

 いや、機械を使っての測定ならしてたよ。

 でも、測定法は原理すら知らない。

 だから魔法を使っても無理だろう。


 実は、医学部では血糖値の測定法とかはろくにやらない。

 正確に言えば、測定法の名前と原理ぐらいは習った記憶があるが、欠片も覚えてはいない。

 ここら辺は、薬学部がやっている世界なのだ。

 どこかに地球の薬学部卒業者が転生していてくれればいいのだが、・・・いないよな。


 余談だが、一般人では医学部や薬学部がどのような研究をしているのか理解していない人が多い。

 薬剤師は薬学部で薬の研究だけをしていると思い込んでいる人が多いが、実は、薬学部はあまり薬を作っていない。

 薬の研究、特に病気の治療薬、治療法については医学部で医者が研究している例が多いだろう。

 薬学部の研究は医学部よりも化学系に寄っている。

 知り合いに聞いたところでは近年の薬学部ではドラッグ・デリバリー・システムが花形なのだとか。

 薬物を体内に運搬する方法の研究だ。

 血糖値などの微量物質測定も薬学部では主要な研究項目の一つである。

 創薬部門もあるが、既存の薬剤の構造を研究し、その一部を変化させて改良するとか、純粋な化学物質の研究から薬に繋げるとからしい。

 そんなんだから、薬剤師が単体で異世界転移してもかなり地味な話になるだろう。

 そもそも薬剤師は病気の診断については何も訓練されていないから、一人で活躍するのは無理がある。

 水疱瘡と麻疹と風疹と天然痘、薬剤師が見分けられるとは思えない。

 現代医学では薬学部の研究はとても重要なんだけどね。




「キョウスケ、―――カンナギ医師が言うように宗主猊下が糖尿病なのは間違いありません。

 問題は昏迷の原因が糖尿病かどうかですが、確かに他に原因が見当たらないのも事実です。

 そして、私も初めて知りましたが、この宗主専用の特別飲料はカロリーが高すぎでしょう。

 これを常用していたのでしたら、カンナギ医師の言う高血糖性昏睡は有り得ると私も思います」


 シノさんが冷静に状況を分析する。


「だが、それでも危険は同じではないか」


「インスリンを少しずつ投与して、意識が回復した時点で直ぐに停止するのであれば、危険性は比較的少ないと考えます。

 あくまで比較的に、ですが」


 血糖値を測定できない状況でインスリンを投与するのは、極めて危険な行為である。

 だが、今回の場合は高血糖性昏睡だ。

 宗主の血糖値は少なくとも五〇〇以上、恐らくは八〇〇、いや、一〇〇〇以上になっている可能性すらある。

 血糖値を三〇〇ぐらいまで下げれば取りあえず意識は戻る可能性が高い。

 糖尿病の根本的な治療にはならないが、今現在を乗り切ることはできるだろう。

 説明に、シャイフは何とか頷いた。

 施薬院講師の一人が古い医学書を運んでくる。

『最終皇帝』の書き残した記録を参考にオレはインスリンの作製を開始した。


 インスリンはオレが作ることになった。

 シャイフやシノさんも含めて誰も作ったことが無かったのだ。

 いや、オレも作ったことはないけどさ。

 でも、使用したことは有るからまだマシだろう。

『最終皇帝』が残した医学書にはインスリンの記載があり、ざっとした手順と力価設定が書かれていた。

 大変ありがたい記述だが、確かに、これだけで作るのは困難だ。

 この世界の魔法は合目的に使用できるが、理論が分かっていなければ作成難度は跳ね上がる。

 インスリンがどのような物質でどのように作用するのか、分かっているのはオレだけだ。

 結果から言えばインスリンはあっさりと合成できた。

 うさぎを一匹調達して、二単位ほど筋注したら痙攣していたから、効果はあるのだろう。

 患者は浮腫だらけで意識レベル低下中。

 地球でなら、中心静脈栄養をぶち込んで全身管理だが、ここにそんな物は無い。

 こちらの技術レベルでは注射針とガラス製シリンジは何とか作れるが、点滴用のチューブは作れない。

 従って中心静脈どころか末梢ルートも取れないし、尿道カテーテルも無い。

 浮腫だらけで末梢なんて無いけどね。

 しかし、ルートが無いというのは不安だ。

 考えてみれば補液ができればインスリン投与も必要なかったかも知れない。

 血管ルートがないということは、現代医学の武器の大半を封じられていることなのだと、今更ながら思う。


 シャイフ、シノさんと相談し、まずは十二単位を皮下注した。

 その後三〇分おきに四単位追加。

 このインスリンが速効型か中間型かあるいは他の型か、全然分からないのだが、速効型か超速効型という仮定で考えている。

 体重一四〇超だから、かなりの量が必要だろう。

 だが合計四〇単位に達した時点で、びびって、次からは二単位に減量した。

 結果、合計四八単位投与した時点で意識が覚醒した。

 早朝に呼び出されてから、ずっと張り付きで既に夕方。

 宰相以下、隣室に待機していたカゲシン首脳陣が歓声に沸く。

 オレとシャイフは安堵と脱力でへたり込んだ。

 一歩引いた位置のシノさんが肩に手をかけてほほ笑んだ。




 良かったと思ったのは一瞬だった。

 意識を取り戻した宗主猊下、真っ先に言ったのは「飲み物を」であった。

 それに答えた女官が差し出したのが例の『スペシャルドリンク』。

 反射的に止めた。

 揉めた。

 こんなハイカロリックな物飲まされたら、また血糖値が上昇して意識朦朧になるだろう。

 だが、宗主お付きの女官が金切り声で反論する。


「この飲み物は滋養に満ちた体に良い物だけで作られた猊下専用の特別製、極めて高価な物なのですよ!」


 この女官、宗主の乳母で、エディゲ宰相の同母の妹。

 よーするにかなり地位が高い。


「良く分からぬが、猊下は体が弱っておられる。

 滋養に満ちた飲み物をお出しするのは当然ではないのか?

 単なる水では滋養はなかろう」


 宰相まで口をはさむ。


「糖尿病は別名、贅沢病、富貴病ともいいます。

 滋養に満ちた物のとり過ぎが原因なのです」


「今後、猊下の飲み物は純粋な水か、砂糖の入っていないお茶にすべきでしょう。

 酒は、ワインも含めてすべて危険です」


 宗主の枕もとで騒ぐのも何なので別室に移り、シャイフと二人で懸命に説得したが、・・・なかなか納得しない。

 まあ、地球でもいたからね。

『体に良い滋養に満ちた烏骨鶏の卵の味噌漬け』を毎食食べていたとか、『体を健康にする天然無添加濃厚ぶどうジュース』を毎晩一リットル飲んでたとか、・・・『食事ではなく薬』という認識なので、食事表とか提出させても記載しない。

 糖尿病患者あるあるだ。


 だが何とか、病気について納得していただいたと思ったら、次が有った。


「ですが、この特製飲料がなければ、猊下の夜のお勤めに支障を来します。

 これがダメなのでしたら、他の手段でそれが可能になるようにして頂かねばなりません!」


「宗主猊下の現在の容体では、夜のお勤めは無理、というか危険ですらあります」


「猊下はお子を成すために懸命に努力をされているのですよ!」


 おそるおそる意見したら発狂された。


「猊下は夜のお勤めのために極めて真面目に誠実に取り組んでおられるのです。

 自らの体を鞭打たせることまでお許しになっているほどなのですよ!」


 体に鞭打ってじゃなくて、鞭打たせて、なのね。

 つまり、あの背部と臀部のみみず腫れは、・・・。

 女官、サライムルク乳母が滔々と語ったところによると、マリセア宗主シャーラーン猊下は宗主に就任したころから勃起不全に悩まされていた。

 このため、様々な手段でそれを克服してきたという。

 帝国内外から精力剤・興奮剤を取り寄せ、夜のお勤めが可能になる方法を様々に試してきたのだと。

 鞭で打ったり打たれたり、縄で縛ったり縛られたり、赤ん坊の格好をさせたりさせられたり、他の男に目の前でさせて見学したり、そうやって毎晩毎晩励んできたと・・・聞いていて眩暈がした。

 いくら聞き手が医者だからと言って、こんな内容をあけすけに語ってよいのだろうか?

 多分、感覚が麻痺している、・・・しきりに、『真面目に誠実に取り組んで』と言っていたから彼女の中では正当化されているのだろう。

 宗主猊下は毎日、真面目に誠実に変態道を極めておられたわけだ。

 ・・・真面目って何だろう?


 ちなみに、正夫人ごとに担当が決まっていたそうで、クテンゲカイ侯爵系の第五正夫人は『露出』担当だった。

 クテン・ジャニベグは露出プレイを最新流行と主張していたが、・・・そーゆーことね。

 侯爵が強く止められなかった訳が分かったよ。


 しかし、サライムルク乳母に、宗主猊下がいかに夜の生活に力を注ぎ、子づくりに邁進していて、それが不可能になれば生きる気力を無くしかねないと力説されても、無理な物は無理だ。

 シャイフは医師団だけで協議したいと言って、別室に移動した。

 うまい手だ。

 冷却時間を置けば乳母と宰相も多少は落ち着くだろう。

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