03-24S インタールード 三月六日 葛藤
━━━『パンとサーカス』、帝国の治世を批判的に描写した出典不明の警句である。しかし、帝国歴代統治者が、帝国国民、特に首都市民への食糧供給と娯楽提供に苦心したのは事実だろう。━━中略━━闘技場における娯楽の提供は第一帝政期より行われていたが、第二帝政期以降、より盛大で重要な催しと化す。━━中略━━第四帝政期にもこれは受け継がれたが、内容には変化が見られた。第三帝政期までの人気は『戦車競技』と『奴隷による模擬戦闘』であった。だが、第四帝政期では個人による『武芸大会』が人気を博するようになる。━━中略━━第二帝政は多くの魔力を持った貴族層による統治であり、個人最高の武力を保有するのは皇帝という建前であった。第三帝政もこれに準ずる。よって、第二、第三帝政では個人による武芸大会は制限された内容、奴隷剣闘士などでしか有り得なかった。一方、マリセア正教による統治が行われた第四帝政では、魔力量に乏しいマリセア正教宗主が事実上の皇帝であった。故に、帝国市民個人による武芸大会が許容される余地が生じた。━━中略━━当初は、帝国軍内での最強を決める戦いであったが、流石にこれは弊害が大きかった。高位魔術師同士の戦いは制御が困難であり、手厚い医療体制が整えられたにも拘らず、負傷者が続出し、死亡者も稀ではなかったからである。更に、軍閥同士の諍いも無視できないレベルとなった。━━中略━━中止も検討された武芸大会だが、参加者を若年者に絞り、更に優勝者の次回参加を禁止することにより継続する。この制限により、帝国内軍閥上位者同士の潰し合いが回避され、優勝杯の回り持ちが可能となった。━━中略━━武芸大会優勝者はマリセア正教宗主から『望みの物』が下賜される建前であった。だが、実際には『マリセア正教第一の守護者』の称号を望む事が慣例とされた。━━中略━━高い個人戦闘力を持つ魔術師が大衆の面前でマリセア正教宗主に忠誠を誓う儀式は、国家にとって重要であり、武芸大会が存続した理由の第一であった。━━中略━━この慣習は、全てにおいて常識が無い男、により葬り去られることとなる。━━━
『ゴルダナ帝国衰亡記』より抜粋
カゲシン武芸大会。
特に個人戦トーナメントはカゲシンで最も注目される催事である。
当然、注目度も高い。
武芸大会は極めて危険であり、負傷は当たり前で、時に死者すら出る大会だ。
当然ながらカゲシン施薬院がサポートに当たる。
東西の選手控室横に医務室が置かれ、医療魔導士が待機する。
その主任に選ばれるのは、特に本選のそれに選ばれるのは、カゲシンで最も腕の良い、特に外科施術に卓越した技量を持つ医療魔導士と決まっている。
ここ数年、本選の東側はシャイフ・ソユルガトミシュが、西側はバフシュ・アフルーズが担当していた。
だが、今年、バフシュ・アフルーズはいない。
性病に罹患して入院中なのだ。
本人は一時的にでも退院して、本選の主任を務めたいと具申したが、ソユルガトミシュに却下される。
シャイフ・トクタミッシュは父親の決定に、歓喜した。
勿論、表面には出さない。
だが、彼は自分がそれに指名されることを疑わなかった。
今年の武芸大会は、自分が父に次ぐ医療魔導士として周知される場になるのだ。
だが、父親が指名したのはカンナギ・キョウスケだった。
施薬院に入ってまだ半年もたっていない十六歳の若者である。
男性でありながら自慰行為が好きで、男一人愛同盟とやらに参加し、かつ、幼女趣味でもあるという変態が、施薬院を代表する任務を担う!
あり得ない話だ!
だが、驚くべきことに施薬院代表会議で提案されたこの事案は、異論無く了承されてしまう。
結果を知らされたトクタミッシュは驚愕したが、代表会議の決定は覆せない。
そして、父親に楯突く勇気もなかった。
更に、後日、承認を求められた自護院からも異論は出なかった。
カンナギは十二月、一月、二月と三か月連続で自護院実習に参加し、処置と手術を行っている。
既に自護院では充分な実力を持った医師として認識されているという。
それどころか戦闘能力がある医官として期待の星だという。
これまた、トクタミッシュにとっては青天の霹靂であった。
振り返ってみれば、兆候はあった。
カンナギは施薬院に入って早々に個人的に主治医として治療を開始し、手術まで始めていた。
自護院実習で多くの手術を行い、更に、トクタミッシュは反対したのだが、二月からは施薬院の大規模手術まで任されるようになっている。
確かに手術は下手ではない。
だが、偶然と幸運によるところが大きいとトクタミッシュは判断していた。
カンナギの医者としての技能は、確かにそう悪くはないが、特に傑出した物ではない。
少なくともトクタミッシュを大きく超える事は無い、はずだ。
しかし、トクタミッシュと同時にカンナギの手術を見学した他の教室の講師は、以後、彼に対しての非難を行わなくなってしまった。
トクタミッシュの意見に賛同する者は残念ながら少数派になっている。
シャイフ教室の内部ですら、カンナギを認める声が大きくなっているぐらいだ。
これについては、『薬術便覧』が問題だっただろう。
普通、著作者として名前が入るのは一人か二人だ。
ところが、この薬術便覧には数十人の名が入っている。
カンナギは大量の人員を採用して、本の原版を恐るべき短期間で仕上げてしまった。
シャイフ教室の講師の多くがこれに参加し、何かしらの報酬を得ている。
更には他教室の講師や、学生まで参加していた。
参加者に支払われる報酬は、そう大きな額ではないが、少なくもない。
下働きの学生では金貨数枚を得た者迄いる。
カンナギは自分の取り分を放棄して、協力者に報酬を支払ったのだ。
シャイフの名を冠した書物の著者の一人として名前が載り、報酬迄得てしまった講師達は、カンナギの悪口が言えなくなっている。
要するに、カンナギはシャイフ教室を買収したのだ。
如何にも道徳心が欠如した変態のやりそうなこと。
分かっていたのに阻止できなかったのは忸怩たる思いだ。
トクタミッシュはため息をついた。
カンナギの薬術便覧は絶対に阻止しようと決めていたのだが、完成が早すぎて不意を打たれたのである。
普通、本を作るのには一年かそれ以上かかる。
僅か数か月で作ってしまうとは。
そして、その功績もあってカンナギは全金徽章を授与されてしまい、施薬院講師に就任してしまう。
僅か数か月で全金徽章!
トクタミッシュでも十年以上かかったのに!
あり得ない!
計算違いと言えば、『性病病棟』もそうである。
カゲシンに性病が蔓延している事、特に宗主補フサイミールの感染を重く見た帝国宰相府は正式に『性病対策本部』の設置を施薬院に命じた。
当然の命令ではあるが、施薬院内部の調整は難航する。
話を聞いたトクタミッシュは、どこかの教室に『性病対策本部』を押し付けることを提案した。
どう考えても、うまく行くはずがない仕事である。
最大限うまく行ったとしても非難轟々だろう。
しかし、時間が無かった。
シャイフ・ソユルガトミシュは主席医療魔導士の責務として自らの教室でこれを受けることを決する。
勿論、施薬院全体での業務であるから、施薬院の教室の全て、医師の大半が、これに関わる。
だが、主導権と責任はシャイフ教室に課せられた。
とんだ貧乏くじだ!
ソユルガトミシュは自ら『性病対策本部長』に就任した。
しかし、ソユルガトミシュ自身は、対外的、政治的な案件で手が一杯になるのが目に見えていた。
ソユルガトミシュは教室次席である息子のトクタミッシュを『対策本部次長』に任命し、実務を命じる。
ここで、トクタミッシュは逃げを打った。
『性病病棟』を独立させ、その本部長をバフシュ・アフルーズに、本部長補佐にカンナギ・キョウスケを任じたのである。
誰もやりたがらなかったから、この人事はあっさりと決まった。
ちなみに、バフシュ・アフルーズは『入院中』のため決定だけが通知された。
勿論、厳密に言えば『性病病棟』もトクタミッシュの管理下である。
だが実際にはトクタミッシュ自身は外来部門に居を定め、患者を『性病病棟』に隔離する役目だけを担ったのである。
これにより、トクタミッシュは最低限の責任を負うだけに留めることに成功した。
実際の責務、性病治療の失敗責任はバフシュとカンナギが負うことになるだろう。
慌てふためくバフシュとカンナギの顔が見られると、トクタミッシュはほくそ笑んだ。
だが、拍子抜けしたことにカンナギは不平らしい不平をこぼさなかった。
「今回の性病は従来薬のサルファ剤では治療困難ですし、高級医薬品に精通している医師は少数です。
仕方がないでしょう。
若年ですが、微力を尽くさせて頂きます」
そして、カンナギは初日から精力的に動き出した。
施薬院の講師、学生を動員し、組み分けし、更に、補助の下働きまで組織化した。
下働きが不足すると、下働きの下働きとしてカゲシンの衛兵を動員した。
長丁場になると見越して、医者も下働きもローテーションで日勤と夜勤に振り分け、きっちりと休暇まで与えた。
下働きに休暇など聞いたことが無いが、休養時間、休日が無ければ人は倒れてしまうとカンナギは強引に導入する。
これらの動きをトクタミッシュが知ったのは数日後の事だった。
性病病棟の業務に可能な限り関わらないようにしていたからだが、カンナギは何でもソユルガトミシュに直接報告し、その許可を得ていた。
気が付けばトクタミッシュは完全に無視されていたのである。
そして、トクタミッシュが知らないうちに、たった数日で、数百人の組織が回りだしていた。
組織が回りだすとともに、カンナギはソユルガトミシュの右腕として認知され、施薬院の医師たちはカンナギの言葉をソユルガトミシュの言葉として受け取るようになっていったのである。
下働きたちに至ってはカンナギを精霊のように崇め奉りだした。
足りる筈がないと思われた『高級医薬品』もすさまじいペースで供給された。
性病病棟の一角にダウラト商会の幹部が常駐し、薬を管理し捌いている。
聞けば、月の民のセンフルールの者たちが全面的に協力しているという。
一体どうやって協力を取り付けたのか。
いや、月の民に助力を乞うなどと言うカゲシン施薬院の面子をつぶす行為を、誰が決めたのか、・・・勿論、シャイフ・ソユルガトミシュだった。
患者が恐ろしい速度で治癒していく。
性病患者であふれ、にっちもさっちも行かなくなる筈の病棟は秩序を保ったまま運営されていた。
収容しきれない患者が巷に溢れることもない。
失敗確実と思われた仕事が、着実に進行していたのである。
驚くべきは、カンナギがこの激務の中で、施薬院講義の試験を受け続けていた事だろう。
それも二日間で十科目以上の試験を受けて全て合格していたという。
トクタミッシュはカンナギの試験解答をすべて取り寄せて点検したが、点を削ることはほとんど敵わなかった。
性病病棟が稼働し、順調に機能し始めるにつれ、ソユルガトミシュとカンナギの評判も、また上昇する。
帝国宰相府の役人は、最悪の事態は避けられつつあると安堵し、カンナギを褒めたたえた。
トクタミッシュもまた、カンナギを抜擢したとして称賛されたのだが、それは彼にとって慰めにもならない。
先日まで、施薬院の有望株としてトクタミッシュを称賛していた貴族たちが、一斉にカンナギに興味を持ち始めていたのである。
貴族たちはこの若者を自分の派閥に取り込もうと躍起になっていた。
貴族制社会では有能な医師と強いコネを持つことは、派閥維持のために必須である。
これまで、その対象はシャイフ・ソユルガトミシュであり、高齢のソユルガトミシュの跡を継ぐのはトクタミッシュとされていた。
それが、高位貴族の関心が明らかに変化している!
特に入院中で、カンナギの仕事を実地で見ていた貴族は、極端だった。
高位の貴族夫人の中には、カンナギに対して、愛人としての地位まで提供する者が出始めていた。
そしてその中には、トクタミッシュが以前から気にかけていた女性、ボルドホン公爵弟の第二正夫人までもが含まれていたのである。
トクタミッシュはこの話を聞いた時には嫉妬で胸が張り裂けそうになったが、幸い、カンナギは申し出を辞退していた。
流石のカンナギも身分不相応と断念したらしい。
カンナギの取り込み騒動は、結局、モローク大僧都が自分の娘とカンナギの正式な婚約発表を大々的に行ったことで鎮静化する。
この会も、異例な内容だった。
大僧都家の娘の成人式が、カンナギの全金徽章獲得の発表と合わせて行われたのである。
宗教系貴族のモローク家の式には、クロスハウゼン家からクロイトノット・クロスハウゼン・ナイキアスール夫人が、施薬院からシャイフ・ソユルガトミシュ主席医療魔導士夫妻が、それぞれ参加した。
軍関係ではクロスハウゼン、施薬院ではシャイフ、宗教系ではモロークがそれぞれカンナギを囲い込むとの表明である。
あまりにも異例で盛大な式に、モローク家の娘は感動で泣いていたという。
トクタミッシュは、それらの報告を、勿論、柔和な平然とした顔で受けていた。
シャイフ教室で、いやカゲシン施薬院で、彼とカンナギの不和を悟る者はいないだろう。
だが、今や、トクタミッシュは明確にカンナギを敵として認定していた。
カンナギは失敗すべきなのだ。
武芸大会で、性病病棟で、必ず、絶対に、失敗すべきなのだ。
シャイフ教室の次代の代表は、次のカゲシン施薬院主席医療魔導士はトクタミッシュが任命されるべきなのだ。
極度の憤懣を内に秘めたまま、表面的には平静に職務を続けるトクタミッシュ。
ふと、一つの些細な事案が目に留まった。
武芸大会の下働き、参加者に食事や飲料を配布し、場合に応じて医療サービスを斡旋する下働き、それを取りまとめる商会が例年と変わっていた。
下働きと言っても、それなりのノウハウは必要だ。
何故、何年もそれを担ってきた商会が外され、全く実績のない商会に変更されたのか?
トクタミッシュは、事情を聞こうとして、止めた。
下働きの動きが悪くて、困るのはカンナギだけだ。
武芸者として参加する者たちからも不平は出るかもしれないが、それは、トクタミッシュの責任ではない。
トクタミッシュの頭からは、カンナギの反対側を担当するのはソユルガトミシュであるという事実は抜け落ちていた。
せいぜい、カンナギには苦しんでもらおう。
トクタミッシュが問い合わせを止めたことで、フロンクハイトの陰謀は辛うじてその命脈を保つことになる。
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