02-18S インタールード 方針転換

 ━━━第四帝政の政治制度の特徴として、良く上げられるのが、二種類の貴族位階である。━━中略━━女傑ハキム・ニフナニクスの帝国統一過程において、一つの問題が発生した。マリセア宗家は帝国の貴族位を持たず、ニフナニクス以下のカゲシン首脳も同様であった。━━中略━━カゲシン中枢は、カゲシン幹部に帝国貴族位を授与することを検討する。しかし、これは、帝国諸侯からの強い反発を招いた。━━中略━━帝国の貴族位は帝国皇帝だけが授与できる、というのが諸侯の言い分であった。また、貴族は必ず領地を持つことになっており、帝国内の全ての土地は既存の爵位と関連付けられていた。故に、新たな領地なしに新たな貴族位を作ることはできない。━━中略━━現実問題として言えばこの当時既に貴族位と土地の関係は抽象的な概念と化していた。長い歴史において領地を失った貴族が増加し、第三帝政開始時において、帝国内貴族の半数以上が領地を持たない『土地なし貴族』であった。国家からの俸給だけで生活する官僚貴族が過半を占めていたのである。━━中略━━しかしながら、形式上、貴族は領地名をその家系名としていたのも事実であった。幾つか途絶えていた貴族家もあったが量的に足りなかった。当時、カゲシンは百人単位で新たな貴族が必要だったのである。帝国内外の貴族を統治するにおいて、統治する側の政治的社会的地位が著しく劣るのは、現実問題として無視できなかった。一方において、既存の貴族層は大量の新規貴族の授爵により既存の爵位が希薄化することを恐れた。━━中略━━最終的に折衷案として採用されたのが、カゲシンで従来使用されていた僧侶位階を貴族位に準じると見做す制度である。━━中略━━カゲシン僧侶位階で最上位の『僧正』を従来の貴族位の『公爵』と同等に、同様に地域統括の最高位であった『大僧都』を『伯爵』と同等に見做し、他の官位も同様に紐づけられた。これにより、カゲシンの使者が地方で屈辱的な対応を受けることは激減、帝国の円滑な運用が可能となった。━━中略━━僧侶位階の貴族位化は従来の貴族階級からも比較的好意的に受け取られた。当時の地方貴族が最も恐れていたのが、中央権力による貴族のすげ替えであった。カゲシンにより任命された新たな『伯爵』が従来の伯爵の後釜に座るという事態である。僧侶位階の採用は、少なくとも直ちに大規模にこれが行われることは無いというカゲシンからのシグナルでもあり、地域貴族たちに安堵と共に受け入れられた。━━中略━━一方において、僧侶位階の貴族位化は、従来宗教的要因においてのみ授与されていた宗教位階の世俗化をもたらした。宗教的権威と指導だけであれば宗教修行のみで僧侶位階を決めるのが妥当であろう。しかしながら宗教貴族が世俗的権威と権力、財力を併せ持つようになると、宗教的能力だけで僧侶位階を決めるのは困難になる。━━中略━━宗教的能力と世俗的能力を併せ持つ人材は希少であり、現実的統治のためには、宗教的能力に欠ける実務官僚に対して上位の僧侶位階を与える必要が発生した。━━━

『ゴルダナ帝国衰亡記』より抜粋




 バフシュ・アフルーズはカゲシン施薬院シャイフ教室の、いや、施薬院の不適応者である。

 その素行は極めて悪い。

 マリセアの正しき教えに対する無関心を公言し、全ての宗教行事を欠席する。

 遊女や流れ者らとの交遊を公言し、売春宿の常連を気取って憚らない。

 だが、困ったことに彼は施薬院全金徽章の持ち主で上級講師の肩書まで持つ一流の医師なのだ。

 その医師としての実力は施薬院でもトップクラスであり、実際、実力だけであればとっくに『主任医療魔導士』に認定されていなければおかしいぐらいである。

 しかし、現実のバフシュはシャイフ教室の講師の一人に過ぎない。

 マリセアの正しき教えに基づく宗教修行を全く行っていないからだ。

 バフシュは宗教修行の一切を無駄と断言し、未来永劫行わないと宣言している。

 故に、彼が『主任』となり自分の教室を持つことも未来永劫無いだろう。


 シャイフ教室の次席トクタミッシュはこの男と全く反りが合わなかった。

 調和と秩序をモットーとするトクタミッシュにとってバフシュの存在は目障り以上のものである。

 マリセアの精霊に対する信仰心なしに高度な医療魔法を駆使するバフシュの存在はカゲシン宗教関係者、つまりカゲシン政府高官にとって許されざる存在であり、彼に宗教修行を行わせろとの、あるいは、施薬院から追放せよとの『指導』は絶えることが無く、しかも、そのほぼ全てがトクタミッシュの下にもたらされていた。

 バフシュ本人に前の方の解決策を実行する気が皆無な以上、トクタミッシュとしては、後ろの方の解決策を実行する事に吝かではない、どころか、熱烈に実行したいのだが、これもまた現実には不可能であった。

 バフシュは交友関係が広く、彼が主催する『ブンガブンガ』と称する不謹慎で不道徳で貞操観念皆無で、マリセアの正しき教えに真っ向から戦っているパーティーには、何故か、少なくない政府高官が参加しており、彼の後ろ盾となっている。

 また、バフシュの卓越した医療知識と技術は、彼が戦場に赴く数少ない施薬院講師であることと相まって、自護院関係者から極めて高く評価されていた。

 そして、何より、シャイフ教室主幹にして、トクタミッシュの父親であるソユルガトミシュが彼を買っていた。

 ソユルガトミシュはバフシュの師匠でもあり、彼が唯一尊敬している医師でもあったのである。

 トクタミッシュとしては、他の理由は無視できても父親の意見だけは逆らうことが出来なかった。

 彼は父親が引退し、自分が教室主幹となったら直ちにバフシュを放逐する気であったが、とりあえずは、放置を決め込んでいたのである。

 尤も、バフシュの方も、ソユルガトミシュが引退したら、カゲシン施薬院を辞めると公言していたのだが。


 そんな間柄であったから、バフシュの方から「話があるから席を作れ」との申し出を受けたのは驚天動地に近い驚きをトクタミッシュにもたらした。

 バフシュは自護院の遠征実習に参加していた。

 通常であれば実習後は打ち上げと称して、三日三晩『ブンガブンガ』に耽るのを常としていたが、それをたった一晩で中止して、話をしたいと言い出したのである。

 トクタミッシュは驚きながらも座を用意した。


 シャイフ教室は施薬院で最も大きな教室である。

 教室が占拠する施薬院内の面積は教室の勢力に比例する。

 シャイフ教室は勿論施薬院最大の部屋数を維持している。

 その一室に集まったのは三人だった。

 シャイフ・ソユルガトミシュ、トクタミッシュ、そしてバフシュ・アフルーズ。

 従者たちまで下がらせて話は始まった。


「自護院遠征でスッパイ・キョウスケに会った」


 前置きもなしにバフシュが話し始める。


「ほう、それで、どう見た?」


 主席医療魔導士が端的に問う。


「ありゃあ、天才だな」


「それは、分かっている。どの程度だ?」


 トクタミッシュは目をむいた。

 あの変態が天才?

 確かに、薬を作る技術はあるのだろうが。

 戸惑う彼を無視して会話は進む。


「べらぼうだ。

 現時点で技量も知識も俺と大差ねえ。

 あれで十五歳ってんだ。

 素質は俺よりも上、師匠よりも上かもな」


「具体的に何をやった?」


「粉砕骨折の手術をやった。

 入構して数か月のガキどもを引き連れてメインで執刀しやがった。

 文句のつけようがない手術だった」


「入講したての者に手術を許可したというのか?」


 トクタミッシュがバフシュの不手際を責める。


「その前に重症の火傷を何人も処置してたからな。

 代用皮膚の圧着を八件、一時間もかからずにやりやがった。

 馬鹿みたいな速度だ。

 それ以前に、患者の仕切りが良かった。

 怒鳴り散らす馬鹿貴族に面と向かって怒鳴り返して場を仕切っていた。

 怒鳴ってた馬鹿貴族も、ああもきれいに治されちゃあ、文句も引っ込む。

 ありゃあ、相当、場数を踏んでるな」


「施薬院入りたての十五歳が場数を踏んでるわけが無かろう!」


「だから、他で修行してたんだろ。月人とやらに、よ」


「信じられん!」


「俺の言葉が信じられないんなら、一緒にいた奴らから話を聞くんだな。証人は腐るほどいる」


 バフシュの言葉にトクタミッシュが沈黙する。


「粉砕骨折と言ったな。破砕した骨の復元も全て行ったのか?」


 入れ替わるようにソユルガトミシュが質問する。


「完全に、だ。ほぼ一人でやっていた。一時間、かかっていない」


「魔法は、無詠唱だな?」


「ご推察の通り、全て無詠唱だ」


「そんな、馬鹿なことが、・・・」


「まずは、話を聞け!」


 疑問を投げようとしたトクタミッシュに父親が言葉をかぶせる。


「あいつは、何でも、無詠唱だ。

 全身麻酔も一回法で無詠唱だった。

 だが、本当に驚くべきなのはここからだ」


 バフシュ・アフルーズは芝居でもするかのように大げさな身振りで両手を広げた。


「学生の一人が、あいつを問いただしていた。

 驚いたことにスッパイは、全身麻酔の九回法を知らなかった。

 七回法も五回法も、三回法も知らなかった。

 それを教えられたあいつは不思議そうに言った。

『一回の魔法で行える事をわざわざ何回もの魔法に分けて行う意味が分からない。時間も手間もマナも余分にかかる。非効率だ』とな」


 バフシュの身振り手振りにより一層力が入る。


「つまりスッパイは全身麻酔の一回法しか習っていない。

 いきなり一回法を教えられてそれを習得しているんだ。

 あいつの師匠が吸血鬼なのかどうかはともかく、兎に角とんでもない師匠だってことは確実だ。

 それを習得しちまう弟子も弟子だが」


「技術は良しとして、患者の仕切りを行っていたと言っていたな。

 他の学生にも指示を出していたのか?」


「ああ、上級生も顎で使っていた。

 最初は戸惑っていた奴もいたが、最後はみんなあいつに従っていたな」


「ふむ、それは、新しい情報だな」


 ソユルガトミシュが考え込む。


「それでだ、今日の話だが、・・・」


「スッパイをうちの教室に入れろ、という話か?」


「ああ、その通りだ」


「遠征実習に他の教室の者はいたのか?」


「いや、いない。学生もうちの関係だけだ」


「ならば、焦る必要は無かろう」


「父上、一体何の話をしているのですか?

 まさか、スッパイをうちの教室に、・・・」


 自分を無視して進む話にトクタミッシュが焦る。


「有能な人材は教室の発展のために必要だ。

 そうだな、来月には入局させよう。

 クロスハウゼンには既にそれで了承を取っている」


「スッパイは変態です!」


「副作用があっても、効果が大きい薬は使える。

 それを使うのが名医というものではないか?

 副作用が無くても効果が無ければ、小麦粉と変わらん」


 バフシュが意味ありげに笑い、トクタミッシュが顔を真っ赤にする。

『小麦粉』とはバフシュ・アフルーズがトクタミッシュに付けたあだ名だ。

 ちなみにバフシュ自身は『劇薬』と自称している。


「来月か、妥当な所だな。

 それと、もう一つ。

 スッパイの『月の民の薬』だが、・・・落ちこぼれ相手に講義をさせてるんだってな。

 いいのか?」


「スッパイの薬剤作製講義は、施薬院会議で決定された話だ。

 生徒の選定に問題があることは認めるし、我が教室としても不本意だ。

 だが、スッパイの講義に問題があるのも事実だろう。

 今の者たちに教えられないようであれば、施薬院全体に広めるのは無理だ」


 怒りを押し殺したままトクタミッシュが説明する。


「父上、スッパイの教室入局はもう少し待ってからにしませんか?

 変態性癖といい、コミュニケーション能力が低い者は医者として不向きです」


「スッパイの医者としての能力は先ほどバフシュが証言したと思うが」


 父親の断言に息子が沈黙する。


「講義を続けさせるとしても、もう少しマシな生徒に変えてやったらどうだ?

 ヌーシュのバカ息子とかじゃあスッパイが気の毒だ」


 アフルーズはトクタミッシュを無視して主席医療魔導士に問いかける。

 スッパイの薬剤作製講義に出ている学生はアーガー・シャーフダグとそれを後援する二つの教室からの選抜だ。

 それぞれ、教室の、あまり出来の良くない跡取り息子が選ばれている。


「では、誰に変える?」


「えっ」


「スッパイの薬剤作製を習得できそうな学生の名を上げてみよ」


「それは、・・・」


「バフシュ、其方、スッパイから、薬剤作製を習ったのだな?」


「ん、・・・ああ、・・・まあ、そうだ」


 問い詰められたバフシュ・アフルーズがしぶしぶ認める。


「バフシュ、其方、勝手に何をしている!

 大方、その薬を売って儲けようとでもしているのであろう!」


「ああ、そうだ。悪いかよ。

 だから、今、スッパイをうちの教室に入れようって話をしたじゃないか。

 同じ教室なら文句は出ねぇ。そうだろ!」


 トクタミッシュの詰問にバフシュが激昂する。


「それで、作れるようになったのだな?」


 あくまでも冷静にソユルガトミシュが話を戻す。


「俺が出来ないはずないだろう」


「スッパイに手を副えてもらったか?」


「まあ、そうだ」


「それで、どう思った?」


「どう思ったって、・・・ああ、そーゆーことか」


 何かに思い当たったようにバフシュが黙り込む。

 それを見て、施薬院主席医療魔導士は一つの包みを取り出した。


「スッパイのもたらした技術で作成した鎮痛薬だ。

 私が作製した。

 スッパイが薬を作っているのを何度も観察し、解析し、作り上げた。

 一か月以上かかった」


「一か月以上、・・・」


 トクタミッシュが息を呑み、バフシュが納得したように首を振る。

 シャイフ・ソユルガトミシュと言えば、魔法解析にかけては施薬院随一、カゲシンでも有数とされる。

 魔力量では圧倒的とされる自護院の国家守護魔導士たちも、細かな魔法解析についてはソユルガトミシュを認めている。

 その主席医療魔導士が解析に一か月以上!


「あの男の魔法は一見、簡単に見える。

 漏れ出る余剰マナは極めて少ない。

 余剰マナが少ないという事は、その魔法に使用されているマナが少ない事を意味する。

 通常であれば、な」


「実際に、スッパイの魔法をやってみて分かったが、意外とマナを使う。

 慣れてくれば、少ないマナでできるようになるだろう。

 だが、最初は無理だ。

 俺でも八回ぐらいかかった。

 マナはすっからかんになった」


 ソユルガトミシュの言葉をバフシュ・アフルーズが引き取る。


「全身麻酔魔法の一回法は複数の魔法を統合した魔法だ。

 短縮詠唱か無詠唱になる。呪文を唱えてでは実行できん。

 スッパイの魔法も同様だ。

 本人は二つの魔法の同時運用と言っていた。

 それだけでも驚異的だが、実際にはその二つの魔法がそれぞれ高度な複合魔法だ。

 呪文を唱えての魔法では理論的に実行できぬ。

 呪文を唱えて魔法を構築するだけの技能では一生習得はできぬであろう」


「だな、全身麻酔一回法ができる技量がいる」


 トクタミッシュは唖然とした。

 全身麻酔一回法が可能な医師は施薬院全体でも十人に欠けるだろう。


「あの男の技術を習得するには、高い技能と多くの魔力量が必要だ。

 少なくも基本の魔力量が無ければ話にもならん。

 正魔導士並の魔力量が必要であろう。

 バフシュよ、其方、今の施薬院にスッパイの技術を習得できる者が何人いると思う?」


 バフシュが腕を組んで考える。


「学生に、・・・いるかな、・・・講師以上でも、・・・数人、・・・ああ、あのゲレト・タイジってスッパイと一緒にいた学生は何とかなりそうだぞ」


「ゲレト・タイジは膨大な魔力量を持つが牙族の留学生だ。

 我らはカゲシン施薬院の組織としてスッパイの技術を獲得しなければならん」


「父上、お待ちください。

 スッパイの魔力量は自護院に頼んで何度も測定しています。

 それによれば、彼の魔力量は従魔導士程度。それも、下の方です。

 とても、そんな魔力量はありません」


 トクタミッシュが再び、父親に抗議する。


「そんな、あやふやな判定などどうでもよい。

 そもそも、魔力量測定など私自身でできる。

 確かに、スッパイの見た目の魔力量は少ない。

 だが、実際の彼の行動から見た目の数倍は魔力があるのは明らかだ。

 スッパイは実技試験で、タライいっぱいの水を一瞬で出している。

 従魔導士でできることではない」


「重度熱傷の代用皮膚貼り付けを八件立て続けにやって、その後、粉砕骨折の手術を二件。

 正魔導士でも上の方の魔力量はあるだろうな」


 バフシュの再度の揶揄にトクタミッシュが屈辱で打ち震える。

 この三人の中でトクタミッシュの魔力量が一番低い。

 トクタミッシュでは、バフシュが挙げた一連の処置はとても行えないだろう。


「クロイトノット・ナイキアスール夫人にも確かめた。

 彼女によると、スッパイの魔力量は少なくとも上級魔導士以上、だそうだ。

 そもそも、いくらマナ操作がうまくとも、従魔導士程度の魔力量の男を、あのクロスハウゼンが後援するはずが無い」


「上級魔導士以上ね。

 男一人愛の変態でもクロスハウゼンが手放さない才能ってことか。

 こちらで、囲い込むことはできねーのか?

 シャイフ家の婿にして、戦争になったら貸し出すって事ならクロスハウゼンも納得するんじゃねーか?」


 トクタミッシュは忍耐の限界を感じつつあった。

 シャイフ家には現在、継嗣がいない。

 正確には、ソユルガトミシュにはトクタミッシュという後継ぎがいるが、トクタミッシュには男子がいない。

 トクタミッシュは既に三〇歳を超えた。

 男子どころか、娘も三人しかいない。

 更に、この十年、子供が得られていない。

 シャイフ家の後継問題は深刻であった。

 だが、そうだからと言って、男性自慰行為を公言する変態を婿になど、許されるはずもない!


「確かに、それも一考だな」


 トクタミッシュの思考をよそに現在のシャイフ家当主は賛意を示す。


「父上!」


 思わず叫ぶ。


「スッパイには既にヒンダル家に紹介し、その婿養子にとの話になっています」


「そう言えば、そうであったな」


 ソユルガトミシュが顎に手を副えて考え込む。


「私も忘れていたが、婚約も結婚も報告が無いな。どうなっておるのだ?」


 ヒンダル家での『事件』は施薬院に届いていなかった。

 キョウスケの書いた手紙も同様である。


「ヒンダルの娘って、あの引きこもりの奴か?」


 バフシュの問いに主席医療魔導士が怪訝な顔になる。


「引きこもり?

 施薬院入講試験の際に『特例』を申し込まれて面会したことがある。

 才能はゼロだったが、女としては可もなく不可もなくであったと記憶しているが」


「施薬院に滑り込んだが、勉学がダメで引きこもりになったんだよ。

 なんでも、えれえ、太ったって話だ」


 ソユルガトミシュがヒンダルの娘に会ったのは三年近く前だ。


「それは、私も把握しておりませんでした。

 ヒンダル家からの報告が無いのも確かです。

 早急に報告させます」


 トクタミッシュが焦った声で父親に返す。


「まあ、良い。却って好都合かもしれぬ。

 ヒンダルの話が止まっているようなら、そのまま潰せ。

 あの男は我が教室で囲い込む。

 後のことはそれから考えればよい」


「薬剤作製講義とやらは、どーすんだ?

 あれ、時間の無駄だろう」


「あの馬鹿どもが、自分たちにはできないと自覚するには時間がかかる。

 それまではスッパイに犠牲になってもらうしかない。

 彼の本当の学生だが、今月、十二月から入講試験を少し変えた。

 方々に伝手を頼って、魔力量の多い若者を三人程採用した。

 三人とも正魔導士以上の魔力量だ。

 一月からは彼らがスッパイの生徒となる」


 トクタミッシュは唖然とする。

 父親が十二月の入講試験に肝いりの学生を選抜していたのは知っていたが、まさか、こんな話だったとは。

 何故、自分に話が通っていないのか?


「施薬院内部に適任がいないなら外部からって事か。

 相変わらず、仕事、早ぇーな!」


 バフシュが感嘆する。

 トクタミッシュにはその感嘆すら自分に対する当てつけのように思われた。




 こうして、シャイフ教室のスッパイ・キョウスケに対する方針転換が決定された。

 意気揚々と引き上げたバフシュ・アフルーズを見送って、ソユルガトミシュは息子に声をかけた。


「スッパイの製薬だが、彼の術式を分解して、五回法として再現した。

 手間も魔力も余分にかかり、効率は著しく悪いが、この方法なら其方もスッパイの薬を作れるようになるだろう」


 ソユルガトミシュは息子に、この簡便法を作るのに時間がかかった事、それまで、話を止めていた事を謝罪した。

『画期的な新薬』をトクタミッシュも作製できる、という事実は重要だ。

 それが、どんなに非効率で、臨床現場では無意味に近いとしても、次の施薬院主席医療魔導士を獲得するには、『できる』という事実が重要になる。

 父親は、そう言って息子を諭した。


「其方はバフシュと折り合いが悪い。

 だが、スッパイとはうまくやるのだ。

 スッパイの能力はシャイフ教室が勢力を保っていく上で極めて重要だ」


 父親の言葉にトクタミッシュは呆然とした。

 極め付きの変態と仲良くやれというのか!

 自慰行為を公言する極め付きの変態にはヒンダル家のデブで充分ではないか!

 自分の娘を嫁がせるなど有り得ない!

 トクタミッシュは、スッパイから製薬技術を吸い出した後、カゲシンから追放するつもりだった。

 スッパイのような変態は、伝統あるカゲシン施薬院には相応しくない。

 バフシュ・アフルーズが相応しくないように!


 だが、トクタミッシュには父に反抗する気概も実力も無かった。

 父親が去った部屋でトクタミッシュはへたり込んだ。

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