072.頼られると嬉しいアイネさん~印章の印象~
「はいどうぞ、ユエさん」
「ありがとうございます」
夜。入浴後の自由時間。
僕が差し出されたカップを受け取ると、アイネさんは自然に微笑んで僕の隣に腰を下ろした。
最近すっかり当たり前になってきている、アイネさんの部屋でのティータイムだ。
僕が手にしているカップはこの前のデートで買ったもので、いつもアイネさんの部屋に置かれている。
アイネさんの生活空間に僕のためのものがあるというのは、うまく言葉にはできないけれど、嬉しいものだな……と思い、琥珀色の紅茶を口に含んでからなんとなくカップに彫られた月と星の模様を眺めてしまった。
「ふふっ……」
そんな僕の様子を見たアイネさんは、特に何を言ったわけでもないけれど機嫌が良さそうに微笑みながら、自分のカップを手にそっと僕の肩に頭を預けてきた。
僅かな重みと確かな温かさを感じ、その温かさは僕の心にも広がって……僕もきっとアイネさんと同じように微笑んでいるだろう。
お互い本当の意味で身体を重ね合ってからだろうか、こういうふれあいがより自然になった気がする。
一緒にいることが当たり前になっているようで、そのことがまた嬉しかった。
いつもならここで、どちらからともなく学院であったことや輝光術のことなど、取止めもない話をするところだけれど……今日は僕がアイネさんに聞きたいことがあった。
「アイネさん、ちょっとお聞きしたいのですが……こういう印章に見覚えはありませんか?」
僕は『こういう』と言いながら、輝光術で僕らの前……宙に、とある印章を映し出した。
「わっ……またすごい術ね? 【顕在化】で作ったの?」
「ええ、【立体映像(ホログラム)】と言います」
『ほろぐらむ……?』と首を傾げながらも、僕が新しく見せた輝光術に目を輝かせるアイネさん。
「実体がないのね……不思議だわ」
指先で触れようとして触れられず、驚いている様が可愛い。
と、今はアイネさんを愛でるためにこれを見せたのではなく……。
「実はこれを見たのは今朝なのですが……今朝、マリアナさんの様子がおかしかったことには気が付きましたか?」
「いいえ……そういえば今朝は、エルさんに抱きつかれて大変だったのよね……」
「あはは、そうでしたね」
「それで? この印章とマリアナさんにどんな関係があるのかしら? 様子がおかしかったってことは、あまりいい話ではなさそうね……」
僕が記憶から作り出した、『積まれたコインを抱く女神』ような絵が彫られた印章を見たアイネさんの表情が曇ったのを見て、僕はなんとなく不安を覚えるが……ともかく、アイネさんに今朝に見たマリアナさんの表情や、そのときに手にしていた手紙、そこにあった印章のことを話した。
印章とは……つまりは貴族の家にとっての家紋のようなものだ。
家を表す旗に印されていたり、それこそ手紙の蝋封として押されたりする。
この国において印章は王に認められた者しか利用を認めておらず、逆にこの印章がある物品はその所有者が国によって身元を保証された者であることを示している。
なぜ家紋と言われないかというと、家でない有力な商会や学校施設でも使われるからで、今朝受け取った手紙にあった月猫商会も王に印章の使用を認められている。
「僕は、この国の貴族社会についてある程度は知っているつもりでしたが……この印章には見覚えがありませんでした。大戦後半は国にいないことも多かったですし、この2年間は旅に出てもいましたので特に……ではありますが。こういうことはアイネさんのほうが詳しいかな……と」
「そうだったのね……ふふっ」
「どうかしましたか……?」
僕が話を締めくくると、アイネさんはフッと表情を緩めて微笑んだ。
僕の説明に何かおかしなところでもあっただろうか?
「あ、いえ……ユエさん、なんでも自分でやってしまうところがあるし、実際できてしまうから……素直に頼ってもらえて嬉しかったのよ」
僕の表情に疑問があることに気づいたのか、アイネさんはそう言ってカップの取手を撫でながら僅かに頬を染めた。
「そうでしたか……でも、僕はそんななんでもできる人ではないですよ。少なくとも今の僕は……つい先日だって、アイネさんがいないとダメダメでした」
「つい先日って……ぁぅ……ユエさんったら……」
僕が頬を掻きながら言ったことの意味に気づいたのか、アイネさんはより頬を染めて恥ずかしがりながらも、より身を寄せてきた。
いや、自分で言ってて最低かもしれないけれど……あの日、アイネさんがいなかったら、アイネさんが受け入れてくれて相手をしてくれていなかったら……ホントに僕はどうにかなっていたと思う。
「あ、あはは……すみません」
僕としては感謝を伝えようとしただけだったのに……僕もアイネさんもその時を思い出して、なんとも言えない甘い空気が漂いだしてしまっていた。
このままでは話どころではない……というか愛し合う2人の物理的な『対話』が始まってしまう。
「そ、それで……どうでしょうか? この印章に見覚えがありますか?」
「え、ええ。そうね……」
僕がそういって話を戻すと、アイネさんは改めて宙に映し出された印章に目を向けてから、肯いた。
「この印章は、カネスキー伯爵家のものね。年始に開かれた王城のパーティーで見た覚えがあるわ」
「カネスキー、伯爵家……?」
アイネさんが口にした家名は、伯爵家という高位貴族に分類される家にも関わらず、僕の頭の中にはさっぱり覚えがなかった。
「そう、伯爵家よ。私が子供の頃は小さな子爵家だったのだけど、ここ2年ほどで急速に成長して伯爵家になったのだから、ユエさんが聞き覚えがないのも仕方ないわ」
「なるほど……」
王太子としてずっと国にいたことならまだしも、旅に出た後に成長してきた家じゃあ、確かに僕は知りようがないか。
「確か、カネスキー家は国外への商取引が主な家業だったはずよ。この2年で外国との交易も増えてるから、それが成功したのでしょうね。財力ならより上位の貴族に届くほどって言われていて、その一部を国に納めることで復興に貢献大として昇爵したって話だったと思うわ……」
ふむふむ。『前の記憶』で言ってしまえば、平和になった今の世界に注目して貿易で一山当てた商社ってところか。
この世界というかこの場合においては貴族家だけど、その実態は商会に近いのかもしれない。
これだけ聞くと、先見の明がある良い家に思えるけど、アイネさんの表情はそうは言っていなかった。
「私はカネスキー家のひとに会ったことがないから、自分の目で見たわけでもないのにこういう言うのはどうかと思うのだけれど……良い話よりも悪い話のほうが多いのよね……」
「悪い話、ですか……」
「ええ。パーティーで聞いてしまった陰口だけれども……何か違法な商売に手を出しているだの、今の当主は……その、女性に乱暴するだの、手当たり次第に手を出すだの、色々よ……。まぁ、勢いがある家へのやっかみという面があるのだと思うわ」
軽く息を吐いて紅茶で唇を潤し、アイネさんはそう話を締めくくった。
「そうなんですね……ありがとうございます。アイネさんにお聞きして良かったです」
「ふふっ、どういたしまして。でも、そうね……マリアナさんが見ていた手紙にあったのがそのカネスキー家の印章だとして、マリアナさんに……エーデル家に何の用なのかしら? その手紙を家ではなくマリアナさんに届けたのも分からないわね……」
「それは……」
アイネさんが真剣に考えてくれているのを見て……僕は少し悩んだけれど、いつかの夜にマリアナさんから聞いたマリアナさんと家の事情を話した。
もちろん、他言無用と前置きをした上でだ。
「――ということで、マリアナさんは……エーデル家は、今はほとんどマリアナさん1人で繋いでいる状況らしいです」
「そう……だったのね」
僕の話を聞いたアイネさんは一度目を閉じて、聞いた内容を整理しているようだった。
「マリアナさんの嫌な噂は、やっぱりマリアナさんは何も悪くないのが分かって良かったけれど……なるほど、時々忙しそうにしているのは、お家のお仕事でもしていたのかしらね。ということは……言ってしまえばマリアナさんは当主代行というような立場で、エーデル家は当主不在の期間が長くて、貴族の家としては……危うい状況なのね」
「はい、そう聞いています。お家再興のための活動はまだ続けているとのことですが……例の噂のせいか芳しくないようでして……」
婿を迎えて当主に据えて、次代へ繋いでいく……それは貴族としては必要なことなのだろうけれども、そのためにマリアナさんが奇異の目に晒されながら辛い思いをしているかと思うと……少し、胸が痛んだ。
この学院に来て再会したマリアナさんは、孤児院にいたときの天真爛漫な優しいお姉ちゃんといった印象から変わり、どこか陰というかそういうものを感じるようになってしまっていた。
それが大人への成長と言えばそうなのかもしれないけれど……それだけ、苦労をしてきた証拠なのかもしれない。
まぁ、人のことは言えないが……。
「……マリアナさんのこと、気になるの……?」
僕が昔と今のマリアナさんのことで考え込んでいると、アイネさんは僕の顔を覗き込むようにしてそう尋ねてきた。
マリアナさんのことについて考えていたのは事実なので、僕は素直に首を縦に振ってその問いに答えた。
「ふーん……? そうよね、マリアナさん、美人だものね……胸も私よりとっても大きいものね?」
「ア、アイネさん?」
僕の反応を見たアイネさんはどこかジトっとした目で僕を見ながら唇を尖らせてしまった。
いや、そういう意味で答えたわけではないはずだけれど、いやいや美人で強力なお胸をお持ちなのも確かだけれど……!
ここで言い訳を重ねるのも違う気がして、僕はこういうときどう言ったらいいんだとダラダラと冷や汗を流してしまう。
「……ふふっ、冗談よ」
しかし、僕の目を覗き込んでいたアイネさんは、ふと表情を柔らかくしてイタズラが成功した子供のように微笑んだ。
「そ、そうですか……」
からかわれただけ……だったのだろうか?
こういう場合は、男のほうが弱いのだから……心臓に悪いです。はい。
「くすっ、ごめんなさい。そうよね、マリアナさんとユエさんは同じ孤児院の出身ということは……幼なじみみたいなものなのよね?」
「はい、そうですね。マリアナさんは……孤児院時代の、小さな自分の心の灯りでした。あの頃確かに、僕は彼女がいたことで精神的に助かっていた部分が大きいのだと思います。僕だけ先に王城に引き取られて別れてしまい、それが学院で再会して驚いたのですが……」
「そう……それは、私もマリアナさんに感謝しないといけないわね。私の大好きなユエさんがひねくれ者にならずに済んだのは貴女のおかげよって。ふふっ、言えないけれどね」
「は、はは……。そ、そういうえば驚いたと言えば、レイナさんもなんですよ」
アイネさんはそう言って真っ直ぐな目で言い切るものだから、僕は少し恥ずかしくなってしまい、つい別の話を振ってしまった。
「レイナさん……? うちのクラスを担当してるシスターのことかしら?」
「はい。実はレイナさんは、僕がいた孤児院でもシスターをしていたんですよ」
「ええっ!? そうだったのっ?」
僕が明かしたちょっとした事実に、アイネさんは大いに驚いて興味を示してくれた。
「更にいいますと、マリアナさんの抱きつき癖の大本は……」
僕は『それでそれで?』と先を促すようなアイネさんの様子を見て、マリアナさんの抱きつき癖の大元凶……僕のお世話係をしていたレイナさんのこと、それを僕が泣いていたマリアナさんにしてあげた結果、今のようになってしまったことを話した。
「へぇ……! そう聞いてみると、人の縁というのはすごいわね……特に、ユエさんの縁は……」
『そうでしょうか?』と口にしそうになったけれども、よく考えると目の前のアイネさんとだって、中々無い出会いと再会をしていることに思い当たり、僕は口をつぐんだ。
「そう……そうよね。ユエさんにとって、それくらいの縁がある人なのね、マリアナさんは……だから、そんなに気にかけているのかしら……?」
「そう、ですね……」
マリアナさんとの『やくそく』を忘れていた贖罪……というわけではないけれど、僕は彼女の力に、助けになるとマリアナさん本人に宣言している。
そう言った以上は、僕ができる範囲のことはやるつもりだけれど……。
「ユエさんは、マリアナさんの事情を知って、なんとかしてあげたいと思っているのね……?」
また考え込んでしまった僕に、今度はからかう色はなく、アイネさんは真剣な表情で聞いてきた。
「……マリアナさんの問題は、難しい問題です。誰かが悪いわけではないですし……。貴族の家、亡くなったエーデル夫妻の想い、それを受け継いだマリアナさん本人の意思など、色んな要素が絡み合っています」
改めて自分の考えをまとめながら、それを口にしていく。
アイネさんは口を挟まずに、肯いて先を促してくれた。
「だから、僕の力が……星導者の力や隠している立場が役に立つとは限りません。ですが……もし、マリアナさんが助けを必要としているなら……助けを求めるというのであれば、僕は応えたいと思っています」
「そう……」
ハッキリと口にした僕の考えを聞いたアイネさんは、そっと目を閉じて何かを考えているようだった。
……婚約者の前で、2人だけのときに、他の女性についてのことを真剣に話しすぎただろうか……?
「ダメ……でしょうか?」
でも、僕はマリアナさんが本当に困っているなら、きっとそれを放っておくなんてできないだろう。
ただそれは、アイネさんの意思を蔑ろにしてまで……とは思っていない。
だからこそ尋ねた僕に、アイネさんは……。
「ふふっ……もちろん良いわよ。そんな優しいところも、ユエさんだもの」
そう、笑って許してくれたのだった。
「ありがとうございます」
「で、でも……その……」
「……?」
しかし、その微笑みは長くは続かず、話の区切りがついて僅かに無言の時間ができたところで、アイネさんはサイドテーブルにカップを置き、どこかソワソワとし始めた。
「マリアナさんのことは良いけれど……今は、私とユエさんだけよ……?」
おずおずとそう口にしたアイネさんの顔は……それを口にすることが恥ずかしそうな、何かを期待しているかのような、そんな表情をしていた。
「今この時間は……私だけを見て……?」
……なるほど、なるほど。
「それはすみませんでした」
僕はサッと自分のカップをサイドテーブルに置くと、2人の時間を他の女性の話で使ってしまったことを謝る。
そして可愛いおねだりに応えるべく……そのおねだりを受けて高鳴った胸の鼓動に導かれるまま、素早くアイネさんを抱えてベッドに寝かせた。
「きゃっ……!? ユエさん、いきなりそんな……♡」
「そんな、なんですか……?」
急に抱きかかえられて寝かされたことに驚きの声を上げるアイネさんを、僕は至近距離で見つめる。
アイネさんは頬を染めて恥ずかしそうにしながらも、その瞳を潤ませていった。
「私は、その……今は私を見てほしいって……ちょっと、キスくらいできたらって……」
「……わかりました」
そんな、というのはキスのことでしたか。
でも、そんな可愛らしいことを言われて――
「んっ……んんぅっ!? ぁんっ♡ ユ、ユエさんっ……?」
……キスだけで終わるわけがないですよ?
「んんぅっ、あっ……! ユエさん、それっ……ぁぁんっ……! わかってな――――んぅぅっ……!」
中身が男でアイネさんのことが好きでたまらない僕にそんなことを言えばどうなるか、わからされるアイネさんだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
お読みいただき、ありがとうございます。
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次回、「3つの手紙と彼女の選択~未来の手紙~」
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