ある男の独り言

振り向くと彼女はこちらを見ておりました。緑の黒髪を艶めかせながらこちらを見ておりました。こちらのできることと言いますと素知らぬ振りをして逃げることしかできません。いかんせん異性交遊など一度も手を染めたことがないもんでして、私は船が来た途端に逃げ惑うアジのように人を振り払うばかりで、嗚呼、無論体と体の付き合いなど以てのほかです。寧ろ一人の人間同士として付き合える方がおかしいのではないか、そう考えております。なぜ一対一で面と向き合い生きねばならないのでしょうか。私はひたすら一人で逃げながら生きていきたいと言いますのに何故なのでしょうか。ああ、そうこうしているうちにも彼女はこちらへと歩み寄ってきていました。私は逃げました、ですが彼女は迷いなくこちらを目掛け走ってきており、気づけば我を忘れて走っていました。今思い起こしても恐ろしい。考えずとも体の芯が冷え、足の軸がぶれてしまいます。そしてとうとう私は石に躓き混凝土で固められた道に転がってしまいました。私の顔を覗き込んだ彼女はひどく整った顔を持っておりまして、ええ、まるで淑やかな仏蘭西人形のようでありました。何故か彼女は何も云わないまま容易く折れてしまいそうな手指を咲かせるようにしてこちらから見て右についた手を差し伸べてきました。大丈夫ですか、そう語りかけていたと思います。あまりの怖さに身がすくみ、喉からは絞り出したような悲鳴しか零れませんでした。女は差し伸べなかった手を開き、何も書かれていない紙きれを出してきました。落としましたよ、そう言ったでしょうか。訳がわからず私はその紙きれを払いのけその場から逃げだしました。履物は転んだ拍子にどこかへ消えてしまいまして、ですから素足で走りました。他人の視線がやけに刺さるもんですから涙が止まりませんでした。はたから見ればいかれた男でしかなかったでしょう。どこもかしこも逃げ場がない事を知った私は、何をとち狂ったか、来た道を引き返してしまいました。今考えるとあの時の行動は誤り以外の何でもなかったと思います。待ち受けているのはあの女か痛い視線か、処理しきれず重くなる頭を吊り上げ走りました。待っていたのはどちらかではなく両方でした。視線に刺される中、舗装された道の真ん中に女が立っておりました。女はこちらを見るなり笑顔になりまして、私の目の前に突っ立ちました。貴方は青色ですよね、そう言っていましたか。意味が分からず怯むことしかできずにいると、女は私のでこぼこの肌に手を添えました。やっと見つけました、わたしの元で暮らしませんか、どうも理解が及びませんでした。女は左手を取り、やけに整った顔をこちらに近づけてきました。周囲は笑みを浮かべて拍手をしておりまして、たまらず女を突き飛ばしました。端正な顔が割れました。仮面のように塗り重ねられた化粧の下には何かがありましたがまともに機能しない視界では認識できません。考えるよりも先に走りだしました。女は付きまとって来ました。走るうちに海につきました。たまらず私は飛び込みました。こうすれば化粧をした女から逃れられると思ったからです。私の汚い両の足が一本につながり、翠玉のような色を纏い、うろこが生まれ、瞬く間に私の足は魚のそれになりました。体を煙のようにくゆらせ海の底、ここへ逃げまして、女を撒いてまいりました。今考えますとあの紙きれは我々への誘発剤を浸み込ませた紙であったのではないかと深く考えてしまいます。もうしばらくの間、人の村に出るのはやめにしておきます。全く、人間にはこりごりです。

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