第3話


―シャーッ。


耳元で、カーテンを開ける音が聞こえる。眩しい光が差し込む。

旦那が起き上がり、仕事へ向かう支度を始める。

言ってくるよ、旦那は私の側でそうささやき、優しくキスをする。

私は旦那が家を出ていくまでをしっかり聞き届けてから、ベッドを這い出る。


日曜の早朝。今日、私はとある場所へ向かう。

私は、数週間前から、旦那が家を出たのを確認すると、外出をするようになった。


勿論、旦那には内緒だ。急いでパジャマを脱ぎ捨て、コーヒーを沸かす。

というより、旦那は気づくはずもない。元より夜型である私は、早朝に旦那が出発する音を聞いても、目覚めもしないので、私が起きているなどと夢にも思わないだろう。

それに、朝に出て、旦那と同じ時間に帰宅すれば、どこへ行こうと、今日したことを伝えれば怪しまれないので、朝から夕方の外出は都合がいい。



マンションを出ると、6時ぴったりに黒い車が私の目の前に現れる。

かと思うと、茶髪にアロハシャツの男が勢いよく車から出てくる。


「海野サン、朝からご苦労っす!」


男性は、サングラスを上げながら、欠伸をしてそう言った。

肌はこんがりと日焼けをし、にっと笑って開いた口元から、白い歯がのぞく。


「あなたもね。送迎、助かるわ。」


「お安い御用っす。今日、旦那さんは大丈夫なんすか?」


「しっかり、見届けてから出たから大丈夫よ。それに、彼は決して私のことを疑わないから。」


「あー、そうでしたね。旦那さんベタ惚れだって言ってましたもんね。それで、今日はどこまで行きます?九十九里?それとも湘南?」


「カレ、は今日どこにいるのかしら?」


「今日はカレA君なんですね…それじゃあ決まりですね。」

男性はそう言うとアクセルを踏み、車は滑らかに走り出した。


「いやあ、驚きましたよ。海野サン、有名人なんすね。こないだも、午後の情報番組で見ましたよ。"日本から世界へ"って特集されてたじゃないすか。」


気さくな口調のこの男は、私より2,3個下の私が雇ったドライバーだ。毎週日曜、私を約束の場所へ連れていくための。今日は、車を一時間強飛ばし、海へ向かう。10月ということもあって、窓から入り込む風は、少し肌寒くもあったが、今から行く場所を最高のコンディションにしてくれるはずだ。


「そうね…。ありがたいことだわ。」


この数週間で、私は自分の存在価値が急速に上昇していることに気づいていた。「テレビに出た有名人」と「芸能人御用達の画家」というレッテルは最強だ。それを言うだけで、注目され、もてはやされる。私は、自分の価値を活かし、海に、山に、フィールドに、様々な場所でネットワークを広げていった。

だけどそれは特定の性別―そう、男性との。特に男性限定で。


世の中に、希少価値の高い、価値あるものに群がる男性は、山ほどいる。休日に自然豊かな場所で思い切り体を動かしたいという男性は、都内に多く潜んでいる。血気盛んな若者から玄人まで、スポーツが行われる場所は常に活力に溢れている。

ドライバーの彼に希望を伝えれば、あっという間に連れていってくれる。


車は1時間と立たないうちに、藤沢ICを出た。海はもう目と鼻の先だ。


カレA君は、もう来ているかしら。」

私は、助手席から少し前のめりになって、朝日に照らされ輝く海と、既に人が集まり始めている海水浴場を見渡す。


「ああ、もうそこらで波捕まえてますよ。」

私は、「カレA君」を探す。カレA君とは、もう2週間会っていなかった。私のことを覚えているだろうか。

「よし、着きましたよ。そんじゃ、僕適当な時間に迎えに来ますんで。」

「ええ、ありがとう。」

車は砂浜との境界線で停車し、私を降ろすと走り去っていった。


砂浜に足を降ろし、スカートを持ち上げながら、ゆっくりと海に向かって進んでいく。昇ったばかりの朝日がまぶしく、波待ちをしているサーファー達の姿が、ぽつぽつと黒い影となって水面に反射する。と、その中に、高い波をボードに受け、そのてっぺんで踵を返したと思うと素早く立ち上がって波に乗り、何度も鋭いターンを決める男性を見つけた。


間違いない。あれは、カレA君だ。


カレA君は、波が崩れると共に浅瀬まで漕いで、脚がつくところで立つと、浜辺へ向かって歩き始めた。オールバックの茶髪に、耳元のピアス。ボードを軽々と片手で抱きかかえるその筋肉は完璧に均等が取れている。下向き加減で、浜辺を歩いていたカレA君が、ふと顔を上げる。その視線の先に、私を見つけると、笑った。


「海野さん、今日もまた戻ってきてくれたんだ。」


「あら、私のこと、覚えていたのね。嬉しいわ。」


「当たり前だよ。この前、始めてここで出会ったとき、君に衝撃を受けたんだ。あれから、君をまたテレビで見かけたよ。」


「少しテレビに出てるだけよ。悪い気はしないけど。」


「それだけじゃない、遅れたけど君の作品、サイトで見させてもらったんだ。なんというか、今の時代にない独創性があって、とても魅力的だったよ。」


「あら、ありがとう。そこまでしてくれていたのね。」


私は少し苦笑いをしながらカレA君に感謝の意を述べた。カレA君には、芸能人の誰々が直接作品を買いに来た、という種を巻いておいたのだから、無理もない。


―とにかく、この人に私の作品のことを語らせてはだめね。でも正直、そんなことどうでもいいの。私が彼と出会ったのは、たった一つの目的のためだもの。


カレA君の名は、鮫島隆也さめじまりゅうやという。

2週間前にこの場所で出会った、27歳のプロサーファーだ。

アスリートだけでなく、医者やIT企業の社長が集まる湘南のサーフィン場は、ドライバーにその情報をもらってから目をつけていた場所である。いわゆる「朝活」として開催される「朝ヨガ」プログラムに参加した私は、偶然を装って、サーファーの猛者たちが集まるこの場所でひときわ目立つ、この鮫島さめじまに話しかけた。今でこそサーファーだが、学生時代はスケートボード競技で日本代表を務めたことがあるという、筋金入りのアスリートだった。あらゆるスポーツは数か月としないうちに上達してしまうほどの運動神経だと豪語し、今はサーフィンのアジア大会への出場を狙っているらしかった。彼の自分語りを、私は、あらかた感嘆符をたくさん用いて、ニコニコと話を聞いていた。


鮫島さめじまの話をたっぷり聞いた後で、私は二つの爆弾を落とした。

(いや、正確には三つだが、それは後日にまで取ってある。)

一つ目、私が有名な画家であること。


今まで、私にあからさまに興味がなさそうな顔をしていた鮫島さめじまは、その話を聞いた瞬間に、目の色が変わった。詳しく話を聞きたい、と私を湘南にある彼の別荘に連れてゆき、コーヒーを入れながら、私に語らせた。私は、彼に興味を持ってもらえそうな「レッテル」を慎重に選び、彼に「有名人の知り合いができた」と気分良くさせた。すっかり気分が高揚した鮫島さめじまは、しばらくすると「自分の作品に興味がある」と言い出した。今まで見たことはなかったが、購入を検討したい、というのだ。


そこで私は、二つ目の爆弾を落とした。

「私のカレ愛人になってくれるなら、私の作品を安く譲ってあげる」、と。

その条件を聞いて、鮫島さめじまは即座に首を縦に振った。普段はあまり人をいれない、という割には綺麗すぎる寝室に私を招き、私たちは何度も体を重ねた。


予想通り、鮫島さめじまは最高の「カレ愛人」だった。旦那とは到底比べ物にならない手慣れたテクニックに、勝気な性格からくるS気と責め。こんなこと、毎日のように、いやもしかしたら一日と立たないうちに、あまたの女性と繰り返しているのだろうが、それでも鮫島さめじまとのそれは、完璧といっても良いくらいだった。


いわゆる沢山のカレB君、C君、D君…、と出会った中で、ダントツで彼が一番だった。もちろん戻ってくるつもりで、好きな作品を選んでおくように言っておいた。そして、今日私は約束通りこの場所を訪れた。


「それで、欲しい作品は見つかったかしら?」

「ああ、だいたいね。海野さんだって、今日もそのつもりできたんでしょ?」

「当たり前だわ。本当のことを言えば、あなたほど理想のカレはいないわ。あなたに作品を譲ると言って、大正解ね。」

鮫島さめじまはその言葉を聞くと、さも嬉しそうにくいっと顔を上げると、さっと私の手を引いた。


今日も几帳面に整えられたベッドのシーツを、私たちはもみくちゃにした。

私の方が早く絶頂に達してしまうが、鮫島さめじまも全くもって嫌々ではない。

このことがまた、私の慢心を満足させる。黄金の肉体と運動神経を持ったアスリートとの愛人関係。それを全部、私が引き寄せたのだ。


だが一つ、恋愛下手な私があちこちでレッテルを振りかざして分かったことがある。

大体、成り行きの男との性交には、一切熱がこもらない。それが済んだ後は、たいていさっさと眠ってしまうか、服を着てどこかへ行ってしまう。

今日も、すでにシャツのボタンを留め始めようとしていた鮫島さめじまを、私は止めた。


「ねえ。私、今日あなたに聞きたいことがあるの。」

「ん、絵のこと?」

「その話は、また後で。もう一つちょっとした相談があるの。」

「ん、何?」

行きずりの女に、面倒くさいことを頼まれるのではないかと、明らかに鮫島さめじまの表情は乗り気ではない。

「あなた、結婚自体に興味はない?」

「結婚…。考えたことないな。僕、誰かに縛られるのとか苦手だしさ。突拍子もない質問をしてくるな、海野さんは。」

「だってあなた、体調管理もかなり気を付けているみたいだし、これから忙しくなるでしょう。支えてくれる女性が必要そうだと思ったのよ。」

「…。君は、何が言いたいの?」

鮫島さめじまは怒ったような、呆れたような声で私を見てくる。

「もし、奥さんが絶世の美女で、仕事も忙しくて、ほとんど家にいないとしたら?一夜限りの関係ではもったいない、と思うほどの女性だとしたら?あなたは結婚を考える?」

「うーん、そうだな…。まあいいんじゃない。だけど、絶対そんな女性いないよ。」

「あら、そんなことはないわよ。私、今婚活中の女性を一人知っているの。とりあえず一度会ってみない?」

「んー、まあ、いいけど…。」


鮫島さめじまは、ついに嫌だとは言わなかった。

これで、私の彼へのミッションはいったん終了した。鮫島さめじまは唐突な私の質問にも、絵画の貸しがあるのか、断りはしなかった。しばらく面倒くさそうに頭を掻いてベッドの縁に腰かけていた鮫島はいきなり立ち上がると、欠伸をしてキッチンへ向かおうとした。だがそこで鮫島は一度私の方を振り返って、こう言った。


「どんな女性のこと言ってるのか知らないけど、ちなみに、僕、海野さんも結構気に入ってたよ。いい女だよ。海野、まどかさんさ。」


間違いない。鮫島は、完璧だ。

だがそれは、ではない。



さあ、これで準備は整った。

私は自分のスマホに手を伸ばし、とある人物に連絡をした。










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