第2話
私は、旦那と結婚して今月でちょうど1年になる。
私は、引く手あまたの妹を差し置いて、いち早く26歳で結婚した。
未だに、周りに私が結婚している、と話すと、皆哀れんだ目で私を見て、誰一人、私が結婚していることを信じない。
"旦那"って言うけど、海野さん作品とでも結婚したの?とでも言わんばかりの表情だ。
まあ私の人付き合いが苦手な性格のせいかもしれないが、何より苗字が変わってないのだから、私の結婚の信ぴょう性が下がるのも無理ない。
今の時代には珍しいかもしれないが、結婚後は私の姓を取った。
だから私と旦那は”海野夫妻"である。
結婚のことを話したところで、旦那と私の世界は、誰にも理解ができないと思う。
まあ、理解してもらう必要がない、と言った方が正しいかもしれない。
私と旦那の出会いは、かなり奇抜だ。
そのことも、話したところで誰も信じないだろう。
*
私の旦那は、
美大の在学中に画家としてデビューした私は、人生初の個展の初日、学生時代の私の作品を一目見た時から「ファンだった」、という男性にいきなり話しかけられた。
その日、私を見かけた途端に、その男性が私の目をまっすぐ見て、こう言った。
「僕はね。」
その声には、有り余る情熱がこもっていた。
「感性が同じ人はね、人生観も共通していると信じているんです。僕は、一目見たあの時から、あなたの作品に恋に落ちました。その作者である海野さんって、一体どんな人なんだろうと気になって心が苦しくて…。だから今日は、あなたに、心からお会いしたかった。」
「はあ…」
つまり私は、開口一番、愛を語られたのだ。
初対面で「好きだ」と言われるなど、世の中の大半の女性が「気持ちが悪い」と受け流す場面で、私は、その言葉を聞いて、はっきりと、こう思った。
―面白いわ、この人。
私は、画家の中でも、「
だから私の作品を一目見て恋に落ちた旦那は本当に変わっている。「私」ではない、「私から生まれた」作品 ―
彼の告白、頭脳、奇抜さ―。私には絶対にない要素。彼が持っているものが、私も欲しい。私はそう思った。私の想像できない未知の世界。結婚をすれば、それが手に入る。私の持つ世界の色に、溶け込んで混ざり合う。私は、その事実に興奮した。案の定のその後の告白に、私は二つ返事で交際をスタートし、私たちは1年で結婚した。私は、欲しかったものを手に入れた。満足だった。
そしてあれから、1年が経った。
―人は、欲しいと思っていたものを手に入れたときの幸福度は長くは続かない。時が経てば、また、違うのもが欲しくなる。その繰り返しだ。
私は、どこかでそう聞いた。なぜ、それを今思い出したのだろう。
*
思い切り背伸びをして、時計を見る。もう5時半だ。急いでローテーブルにワイングラスを用意し、セラーから持ってきたワインを注ぐ。
次の瞬間、ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。
「ただいま。
「わっ、おかえりなさい…!」
全く、毎回5時半ぴったりに帰宅する旦那の体内時計の正確さには、いつも感心してしまう。
「
「すごく楽しかった。
当たり障りのない微笑ましい1シーンを語る。
私は、旦那にはこの上なく仲の良い双子姉妹、の設定で通している。
「それはとても
リビングへ上がってきた旦那にワイングラスを手渡す。旦那はにこりと笑ってありがとう、と言い、向かいのソファへ座る。知性からあふれる気品をまとう旦那は、ワインが似合う。旦那の生きる世界や考えていることはほとんど理解ができないが、私にとってそれは重要ではない。私に無い世界からの刺激を与えあって、二つの世界が共存をしていることが重要なのだ。二つの世界の調和を保つのは、私。誰にも、指一本触れさせない私達だけの世界。
そんな私たちの住居は、夫婦で築き上げた籠城だ。この家に決めた時、旦那は、私の希望に沿って、全てを譲ってくれた。住居は、私の個展が良く開かれる代官山にある、新築のタワーマンション。私がモノトーンが好きだと分かって白を基調としたインテリア。2LDKの住居の一室は、私のアトリエだ。ここからすべてを築き上げるんだ、結婚したばかりの時はそう思っていた。だが、今はこの住居はただの箱にしか見えない。所変われば人変わるというが、それは最初の数か月しか続かなかった。お金で手に入る環境など、誰でも買えるモノに過ぎない。理想の、いや、喉から手が出るほど欲しかった住環境を手に入れた私は満足し、最早住居について何も思わなくなった。
それにどうせ、飽きた、引っ越したいと言えば、旦那は快諾するんだろう。
「…
いつの間にか、私は旦那に話しかけられていた。
「さっきからなんか考え事してるみたいだけど、大丈夫?」
「あ、ごめんね。うん、大丈夫。ほら、そろそろ結婚記念日だけど、私、
私は咄嗟に出た言葉で、なんとか笑顔を取り繕う。
「そうか…!なら良かった。僕も幸せだよ。君の作品に出会った時から、僕の君への気持ちは変わっていないよ。」
旦那はどこまでも真っすぐにそう言ってくる。辛気臭い、とさえ思う。
ここまで妻の内面に拘泥する旦那なんて、いるのだろうか。
「ねえ陽明、私こんなに醜いのに、よく結婚なんてしてくれたね。」
惚れ気の旦那に少し意地悪をしたくなって、しれっとそう言ってみる。私が自分の見た目のことを言うと、旦那が必ず気分を害するのを知っているからだ。今日も、今までの惚れ気が一切引いたような仏頂面に変わっていく。旦那が怒るのは、私が外見にコンプレックスを持っているからだけではない。
旦那も、自分の外見に自信がないのだ。外へ出かけても、少しカッコいい男性を見るとしきりに自分の顔を触る。テレビを見ながら私に、自分が似ている俳優は誰か?と頻繫に聞いてくる。確かに、私が見ても、美形だと思ったことは一度もない。
だが、結婚の時は外見など至極どうでもよかった。
私にとっての最上である妹の美貌以外、特に顔を愛でることも気にすることもない。
「僕は、外見なんて気にしないと何度も言っているだろう。僕は君の内面に惹かれたんだ!」
普段は物静かな旦那が必死に声を荒げる。
―また内面の話。もうそれも、聞き飽きた。
旦那は、少し、どうかしている。内面に拘る割に、旦那は私のレッテル集めの話や結婚への見方を一切知らない。2年も一緒にいて、私の性格の醜さを知らないのだ。
私のことは、頭の中で全てポジティブに変換されるのだろうか?
まあ、もっとどうかしているのは私かもしれないが。
旦那に、私の性格が良い、と思わせ続けているのだから。
旦那は急にしゅんとして、罰が悪そうな顔をする。
「…ごめん。君に大きな声を出しちゃった。だけど、もう外見のことを言うのはやめて。頼むよ。」
「わかってる。気を付けるわ。」
時たま声を荒げることはあっても、私達は、決して仲が悪いというわけではない。
だが、25歳まで、恋愛経験が一切なかった私は、恋愛という要素を人生の中でどう捉えたら良いかを知らなかった。「現代美学の新星」、「注目の新人」。「陰りのある魅惑」…。私がこの手で集めてきたレッテルに、「結婚」状態と「
人生で初めての性交には、言い逃れのできない快感を覚えた。
性交は愛する相手と行った時が一番幸福度が高まるというが、
初めて、から何度も体を重ね、絶頂の幸福を、確かに私は感じていた。
かつて、30歳まで貞節を守り抜き、初めて愛する女性に体を許した理由を、「君が僕の全てを捧げたいと思える初めての人だったから」と表現した男性がいた。それは陽明と同じ、朴訥な天才数学者が主人公の海外ドラマだったため、私が
そして、今になって、私が陽明と性交をする理由―
それは、いつしか快感や幸福のためではなくなっていた。
陽明の言葉を借りれば、「二人の愛の形を残すため」。
―陽明は、私たちの子供が欲しかった。
いつもは、陽明が私の手を引き、寝室へ連れていく。私は流れに身を任せて性交をする。別に嫌なわけじゃない。だが、子供のことで毎回のように陽明が私の様子を伺うのは不自然で、気分が乗らない。
だが今日も、その時がやってくる。
私は、ソファに再び目をやり、罰が悪そうな顔をしていた旦那を大丈夫よ、と一度ぎゅっと抱きしめると、"妻の手料理を楽しむために"、17時30分にぴったりと帰宅した旦那に"張り切って"ビーフストロガノフとグリーンサラダをこしらえ、夕飯を済ませてからは、いつものように1本の映画を見る。土曜のルーティンを終え、就寝準備をする。いつもなら自室のアトリエで作業をする私だが、日曜は朝が早いため、今日は旦那と同じタイミングでベッドに入った。
いつもの流れで服を脱ぎ、抱き合う。
終わると、私は今日の買い物の疲れもあってか急に眠くなって、枕に深く顔を埋めた。
「ねえ、
私の側で、
「もう、その質問、意地悪ね。幸せに決まってるじゃない!」
「ごめんごめん!でも円が幸せなら良かった。それで…。
すっかり忘れていた。
「あ、ああそれね…。全力で祝福するっていっていたわ。」
「良かった。晴ちゃんも賛成なんだね。そろそろ、初めてみてもいいんじゃないかな?」
「そうね…。」
初めて、旦那が子供、という言葉を出した時、私は賛成だった。
とてつもなく優秀な子が産まれそうだ。誰もがそう言った。
当然だが、子供は遺伝子の掛け合わせだ。
精子と卵子の一回きりの組み合わせ。
そうして生まれた子供は、自分たちを親と慕う。
親が子の誕生の全ての決定権を握る一回きりの機会。
だが、
特に、私にはずっと欲しかった、あれがある。
高校を卒業してから、私がずっと自分に言い聞かせてきたこと。
"自分は、自分以外の人や物で、いくらでもレッテルなど貼りなおせる。
私は、自分に無い要素を、貰ってきて、作る。
作って、自分の物にする。"
私たちの、いいえ、私の、子供を。
「もう少しだけ、考えさせて。明日は朝が早いからもう寝るわ。」
陽明にそう伝えて、電気を消す。
疲れ切った体を横たえていると、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
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