六(前)
それからいかばかりの時が過ぎたのか、どちらからともなく二人は離れた。
時刻が時刻のため、余りこうし続けているわけにも行かぬ。
「ありがとうございました。おかげで、このところたまりにたまっていた心の疲れが取れましたよ」
そう言って頭を下げる達郎に、瑞葉は静かにうなずいて答えとした。
そこで仕切り直しての酒盛りとなり、二人は穏やかに話を始める。
(ああ、こんないい酒は初めてだ……)
この上なく静かで充足した心持ちの中、達郎はちびりちびりと酒を呑み続けていた。
それも瓶の三分の一ほど呑んだところで、互いにこれ以上はという話になって終わることになる。
あとは、思うままに過ごすばかりだ。縁側で夜空を眺め、部屋で寝転がり、瑞葉に現代文明の話を訊ねられて講釈を垂れる。
本家の配信がたまたまやっていたため見せてやると、技術自体に驚いたのはもちろんのこと、内容も面白いと子供のようにはしゃいだ。さすがにコメントを打たせるととんちんかんなことを書きそうだったので、そこだけはやらせなかったが。
帰省のたびにこの家でいつも一人過ごしているだけだった達郎にとって、一緒に過ごす相手がいるというのは心地よく、実に心温まるものであった。
さて……。
時計が十一時を指した頃から、達郎は蒲団の準備をし始めた。
ここで困ったのが、瑞葉のことである。流れ上彼女もここに泊まることになるのだが、蒲団はいいが場所の工面をせねばならぬ。
部屋はあるのだが、自分と両親の私室として埋まっている。こちらでの自分の部屋は物置状態になっているため、寝るのは居間だ。
その居間の隣は仏間である。神棚も釣ってあるので「神」ならこちらではと思いもしたが、人を寝かせるためにある部屋ではないため快適とは言いづらく、到底勧められなかった。
このように消去法でああでもないこうでもないとやって行くと、もはや残るは居間だけである。
さすがに一緒の部屋に寝るのだけはどうなのかと思い、瑞葉に話をしてみると、
「別に構わぬぞ。そこまで部屋が使えぬでは仕方もあるまいし、そもそも気にせぬ」
あっさりと承諾されてしまった。
自分も使っている客用の蒲団を二つ取り出し、一旦置いてみる。
置いてみて、間が余り開けられないのに困り果てた。
瑞葉はこれも恐らく全く気にしないのだろうが、達郎としては女性と同室で寝るというだけでも緊張するのに、こうなればさらに緊張せざるを得ない。
(いろいろな意味で人に見せられないことばかりだな、今日のことは。瑞葉さんのこともそうだが、それ以上に自分がみっともなくてなあ……)
女性経験の一つもなかったがために、四十近くになりながら外見二十歳やそこらの女性におたついている姿なぞいい世間の嘲笑の的だ。そう思うと、少々心に影が差す。
もっともそんなことを言ったところで、部屋が増えるわけでも広くなるわけでもないのだ。ここはもう肚をくくるしかない。
そうしているうちに、とうとう時計がてっぺんを回ってしまった。
普段なら起きていても何の問題もないが、一緒の部屋に寝る客人を無理矢理自分の夜ふかしに巻き込むような真似をするのはまずい。
「瑞葉さん、明日はどうするんですか?」
「そうじゃのう……なりゆきだったゆえ、実は何も考えておらなんだ。ただ恩は返せたと思うておるし、無駄におってもおぬしの負担になるだけじゃしの……」
ううむ、と腕組みをして悩む瑞葉に、
「……俺としては、普通にいてくれても構いませんよ」
達郎は思い切ってそう答えた。
押しかけられたとはいえ、一人でだらだら過ごすより有益な時間をもらえたのである。自分勝手ではあるが、出来るのなら今しばらくこの時間を楽しみたかった。
「そうか。……おとと、おぬしどうした?少し眼がしばたいておるぞ?」
「え?ああ、こいつはいけません。多分暑気にあたった疲れが来たのかも」
「最近はいやに暑いからのう。明日のことはまた決めるとして、とりあえず寝た方がよかろ」
まだ話し足りない気もするが、暑気で消耗した体力を恢復するにはよく寝るのが一番である。幸いというべきか、今夜は昼とは打って変わって涼しいのでよく眠れるはずだ。
「……そうします」
黙ってうなずくと、そのまま寝間着に着替える。
瑞葉はどうするのかと思ったが、
「もっと余力があれば着替えも出来るんじゃが……仕方ない、このままじゃ」
そのようなことを言って、着替えずにいた。
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみじゃ」
電燈を消し、互いにタオルケットをかけて寝る。
だが、達郎はいくらがんばっても眠れない。
やはり女性、それも推しに瓜二つの女性と部屋を同じうしているのを意識してしまうのだ。
とにかく何とかしようと瑞葉に背中を向け、
(……何をしとるか市岡達郎、うぶなねんねじゃないんだぞ!)
自らを頭の中で叱り飛ばし、ぐっと眼を閉じた瞬間である。
静かな嗚咽が、後ろから聞こえて来た。
ぎょっとして振り返ると、瑞葉が自分に背を向けて肩を小さく震わせている。
一体どうしたのかとぽかんとしていると、
「……なぜじゃ、なぜ泪が出る……泣いても詮なきことだのに……」
小さな声とともに、鼻を鳴らす音まで響いて来た。
さすがにこれは普通ではないと、達郎は大急ぎで声をかける。
「瑞葉さん、瑞葉さん……!大丈夫ですか!?」
瑞葉の躰が大きく動き、明らかにあわて始めた。
「いや、その……何でもない……」
「何でもないことはないでしょう。普通じゃありませんよ……」
言葉に反して潤みきっている声に、達郎はさらに異変を感じて声をかける。
それに観念したのか、瑞葉はようやくこちらを向いた。
思った通りあどけなさを残した眸は潤み、頬には泪が流れている。
「すまぬ……おぬしのことを思うたら、ぼろぼろ泪が出て来たのじゃ」
「そんな、俺のことなんかで泣かなくても……」
「違うのじゃ、違うのじゃ……!おぬしの境遇と妾の境遇、重ならぬでもないと……そう思うたら、急に泣けて来たのじゃ……!」
歯を噛みしめながら泪を流して奇妙なことを言うのに、達郎が驚いたのは言うまでもなかった。
文学界と出版業界の歪みに振り回されたうだつの上がらぬ作家志望の男と、小さな祠に
「重なっておるのじゃよ……長き努力が無駄にされ、他人の理不尽な思惑に振り回された挙句に、いつ尽きるとも知れぬ闇の中で先の見えぬ思いをしていることが……」
「それは……」
「……ああ、何を言うておるのじゃ妾は!今の境涯を嘆いたとてしょせん名も姿も持たぬ身、まるで何も変わらぬというに……」
瑞葉は切歯しながら言うや、ばっとこちらに背を向けた。
そこで達郎は何か確信したような顔をするや、
「……それはもしかすると、祭祀に関わることですか?それもここ百二十年ほどのことでは?」
呼びかけるような声でゆっくりと問う。
再び瑞葉の肩が震え、大あわてで身を起こしながらこちらを向いた。
「そ、そうじゃ、そうなのじゃ……」
瑞葉がそう言い、泣くのも忘れて眼をしばたたきながらうなずいた時である。
達郎がゆっくりと身を起こしたかと思うと、
「瑞葉さん、あなたの祠……明治の神社整理の被害に遭ってますよね?」
重々しい声で言ったものだ。
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