瑞葉が風呂から上がったのは、達郎が居間に戻ってから三十分ほど後のことであった。

 よほど気持ちよかったらしく、尻尾をぱたつかせながら入って来る。

「実体を持って風呂に入ったなぞ、いつぶりやら……ほんとに気持ちいいもんじゃ」

「確かに姿がなければ、風呂に入る必要はありませんからね」

「そういうことじゃの。でものう、それはそれでつまらぬものじゃよ」

 そう言いつつタオルでぱんぱんと尻尾をはたくと、たちまちのうちに毛並みが元に戻り始めた。

 本来ならそう簡単に乾くものではないはずなので、これもやはり神の力のなせるわざか、さもなくば仮の姿ゆえのことか。

 瑞葉はちゃぶ台に件の酒瓶が置かれているのを見て、

「おや、それを呑むのか?」

 座りながら興味深そうな声で問うて来た。

「ええ。そもそもそのつもりで持って来たので」

「そうであったか、ならなおすぐに返せてよかった。ふうむ、肴を作ってやりたいが……妾が知っているものとなると時間がかかりそうなものばかりじゃ、どうしたものか」

「あ、そこまで気を使ってもらわなくていいですよ。風呂上がりなんですし」

「そうか、おぬしが構わぬならそうしようぞ」

 酒肴の心配までする瑞葉に、達郎は少し笑うと、

「それよりも、一緒に呑みませんか。一回は瑞葉さんに供えたものですから」

 そう言って酒を勧める。

「貴重なものじゃろうに……いいのか?」

「いいんですよ、せっかく人がいるのに一人で呑むってのもつまらないですし。それにこの子と同じ格好してるんですから、これも何かの縁ということで」

 ラベルを見せながら言うと、瑞葉は思い出したというような顔になった。

「そういえば、その娘は誰なのじゃ?この世で狐の耳を持つ者となると、妾のような神かあやかしくらいしかおらぬはずじゃが……御一新から随分経った今では堂々と出歩けるものではなかろ?」

「あー……何と説明したらいいんですかね」

 パソコンすら知らぬだろう相手にVTuberを説明するのは至難の業と思われたが、

「なるほど、今では電信を使って『ぱそこん』なる機械で様々なやり取りが出来ると。さらに専用の場を使えば劇場のごとく人の動くさまをほぼ同時に見られると。そこで絵をおのれの姿の代わりにして見る者を楽しませておるのが『ぶいちゅーばー』、その一人なのじゃな」

 思ったよりもあっさりと理解してもらえる。電信技術の知識があったことが幸いしたようだ。

「そういうことです。そのは俺の推し、昔で言うところのなんですよ。酒好きが昂じて、とうとう蔵元と一緒に作っちゃったのがそれなんです」

「ほう、面白い娘じゃ。その分じゃと、好きな者も多かろ?」

「そうですね、確か五十万人くらいですか」

「何じゃと……東京市民の三分の一くらいは好きという計算か」

 明治末年の東京市の人口は百六十万人余りだったので、この言葉はさして的外れではない。

「実際には全国に散ってますけどね。ここの総鎮守の宮司さんの息子が俺の友達なんですが、そいつものめり込んじゃって。みやげに一本買って来てくれと頼まれたほどです」

「総鎮守の……そやつ、八次の家の者か?」

「ええ、そうです。やっぱり知ってるんですね」

「……まあの。余り聞きたい名ではなかったが」

「え……?」 

 突然の不穏な発言に瑞葉の顔を見ると、なぜか苦虫を噛み潰したような表情となっていた。

 それを見て達郎は驚いたような素振りを見せたが、しばらくして一つうなずくと、

「それはともかく、冷たいうちにちびちびやりましょうか」

 空気が気まずくならぬうちにと猪口を差し出す。

「お、これはなかなかうまい。……ただ、かなり強いのう」

「作った本人も、強いので無理をしないようにと言ってましたね」

「そう言うのも分かる。妾でもうかつにたくさん呑めぬな……まあ、おぬしの大切なものを余りもらいすぎてはいかぬから、ちょうどよいか」

 一つ笑うと、すっとまた酒を口に運ぶ。

 日も落ちて暗くなった広い庭を背景に、穏やかな夜風を受けながら酒を呑む狐巫女。

 それだけでも婀娜あだなのに、仮のものとはいえ自分の推している相手の姿をしているのだから、達郎には何ともどぎまぎしてしまうものがある。

 尻尾の先がちょこちょこと揺れているのを思わず見ていると、

「そういえばおぬし、東京へ出ておるのじゃったな。月給取りをしながら大望を抱いておるとか」

 瑞葉がさっと髪をかき上げながらそう言った。

「知っていましたか。やっぱり、神の力で?」

「ま、そういうことじゃな。ただ、珍しく『大望』の中身が見えぬ。志というものは心の中にあるものゆえ、本人を眼の前にすればさすがに見えるはずなのじゃが……」

 猪口を置いてううむ、と天井に目をやる。瑞葉としては、本当に意外なことのようだ。

「……それは多分、俺の『大望』がうまく行ってないせいじゃないですかね。考えると心が重くなるので考えないようにしているといいますか」

「神が見えなくなるほど考えないようにしているとは、いささか普通ではないな。……よければ、話してみぬか。こんな古い神ゆえ、ことによっては大したことも言えぬかも知れぬが」

 瑞葉がそう言ってのぞき込むのに、達郎は少しだけためらうような素振りを見せたが、

「……作家になりたいんですよね、俺」

 ぽつりとそう言い出す。

「ほう、作家というと文士か。確かに大望、なかなか思い立って出来ることではないぞ」

 そう瑞葉が言うが、達郎の表情はどこか浮かなかった。

 いや、浮かないというよりもどこかあきらめを感じさせるものすらある。

「確かになかなか出来ることではないでしょうね。……ただし一つでも条件が悪いとすぐに高い壁が立ちふさがり、落伍に追い込まれる世界ですが」

「……運が悪いならまだ分からぬでもないが、条件が悪いとはどういうことじゃ。そもそも文士になるのに条件があるのか?」

 穏やかならざる達郎のもの言いに、瑞葉はわけが分からないという顔をした。

「ええ、あります。何を目指すかによって変わりますが、共通しているのはやはり歳でしょうね」

「……歳じゃと?」

「そうなんです、実はこれでかなり不利になってましてね。瑞葉さんなら既に見抜いてるとは思いますが、俺ってもう四十近いんですよ」

「人の命は百年、四十ならまだ文が書けなくなるほど老いるまで時間があろうに……」

「年齢としてはそうですけども、作家になるにはかなり遅いんですよ。普通は二十代から三十前後までにはなってしまうものなので」

「何と……それは一体全体なぜだというのじゃ?」

「そう相場が決まっているからとしか言えませんね」

「………」

 すっぱりと答えるのに、瑞葉は戸惑ったように眼をしばたたかせる。

 それをよそに、達郎は一つ息をついて続けた。

「俺も本来なら、その条件から外れずに戦えるはずだったんです。ところが社会に出た途端、仕事や人間関係の問題が頻発した上、病気まで患ってまともに動けなくなりましてね。やっと動けるようになったら、既に三十代半ばになっていたという寸法でして」

「……病にかかったのでは、仕方なかろうと思うがの」

「いやあ、文学賞の選者はそこまで考慮してくれません。あの人たちは、同じ出来の作品があったら高齢の方を弾く人たちなので。それにやられたら終わりですよ」

「待った、『文学賞』とは何じゃ?文士になるなら、まずは同人誌を作るのではないのか?さもなくばしょに直接持って行くなどもあろうて」

「どっちも今は廃れてます。ここ四五十年は書肆、すなわち出版社が広く小説を募り、その中で賞をもらうことで作家になるというのが標準なんですよ。これを通らないでは事実上無理ですね」

「唯一の道だのに、年齢で落とされることがあるとな……」

「長く書いてもらえないと、もうかりませんからね。あちらも商売なんです」

「それは分かるが、しかし……」

 瑞葉はそう言って、一つかぶりを振る。

 時代が違えば事情も異なるはずという意識がブレーキをかけたようだが、そんなことはおかしいのではないかと言いたげであった。

「しかもさらに今、もっとややこしいことになっていましてね。今まで高齢者を切っていた出版社が、急に方針転換して少しずつ高齢者を優遇し始めてるんです」

「何じゃ、ならよくなっておるのではないか」

 瑞葉が少しばかり安堵した表情となるが、達郎は、

「ええ、歓迎すべきことです。……動機が不純でなければですが」

 渋面を崩さぬまま答える。

「今、出版業界は苦しいんですよ。そのせいで余裕がなくなり、個々人の面倒を見てやることが出来なくなっています。その結果、『貧すれば鈍する』を地で行くようになりましてね。根本的な策を講じずに、とりあえず目先の金を稼げればいいとばかりに文章を書き慣れてる人間を連れて来ては使い捨ててるんです」

「……もしや、それで歳長けた者たちを?」

「そういうことですね。『人生経験豊富な即戦力を求める』という美名を掲げ、その実は自分たちの無為無策の尻ぬぐいをさせようという……」

「被害に遭うた者は多いのか?」

「まだ最近始まったことなので、実態は余りよく分かりません。ですが随分前から若者に対して似たようなことをやっていまして、こちらでは甚大な被害が出ています。明日は我が身でしょう」

「………」

「確実にもうけたいという気持ちは分かりますが、さすがに人をなめていますよ。いかな素人でも、自尊心というものがあるってのに」

「……性根が腐っておるわ」

 瑞葉は、再び強くかぶりを振って吐き棄てるように言った。

「年々条件が悪くなる中で苦労して来たのに、そんな風に食い物にする気満々で出迎えられてはかないません。それが嫌なら、射程となる年齢になる前に道筋をつけるしかないんです。とにかく急ぎました。ですが賞が限られる上、今応募してるとこは開催が年一回です。……結果は四回落選。つまりはぐだぐだと四年過ぎてしまったんですよ」

「………」

「どうも新しいことに挑戦しているのが、先方のお気に召さないようです。もはやあれは審査員が変わらないと通らない状態でしょう、その見込みもありませんが」

「………」

「それだけならまだしも、巷には俺みたいなのを『半端者』と冷笑するのもたくさんいます。四十代ともなるともっとですよ。大体今の世の中、三十代以降は年齢だけをたねにして嗤われ人格否定されるのを覚悟していないといけませんから。もう外野までそのありさまじゃやってられませんよ」

 とうとう瑞葉は、がくりとこうべを垂れてしまった。

 想像以上の話に声も出ないのか表情はこわばり、猪口を持つ手までも震えている。

「俺は別に、大きな栄誉がほしいわけじゃないんです。ただただ、自分を表現してそれを読んでもらいたいだけなんです。言い方を変えれば、文章を通して表出された『俺』という人間を見てもらいたいんですよ。それだのにこんな横槍ばかり入れられて、馬鹿にされて……」

「………」

「それで放り込まれた場所はお先真っ暗の隧道です。そこを途中で寿命尽きてたおれてしまうかも知れないと、おびえながら血を流し走り続けるんです。どうすりゃいいってんですか」

 そう言うや、やけになったように達郎はぬるくなった酒をぐいとあおった。

「……すみません、酒がまずくなるような話を押しつけてしまって」

「いや、よい。元々は、妾が話せと申したことじゃ。責は妾にある……」

 瑞葉はそう消え入るように言ったきり黙ってしまう。

 本当は神として何か言うべきところだろうが、適切な言葉が見つからぬ。

 いや実際には一つだけ見つかりはしたが、姑息の慰めと取られる可能性がある。そう取られたが最後、何の役にも立たない上に相手を傷つけるだけだ。

 瑞葉はやむなくその言葉を飲み込み、慎重に口を開く。

「すまぬが、妾には何も言うてやることが出来ぬ。おぬしの傷心を慮ると余計にな。……代わりといっては何じゃが、せめて妾で心を休めてもらいたい」

「……え?ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする達郎に、瑞葉は大急ぎで手を振り、

「あッ……言い方が悪かったの。変な意味ではない、妾に少々甘えてみぬかということじゃよ。そうじゃの……おのは膝枕が好きと聞く、それでよければ」

 半ばおたつくような、半ば恥ずかしがるような表情で言った。

「ですが、四十近い男がそんなことをしては気持ち悪いんじゃ……」

「少なくとも妾は気にせぬ。見てくれが気になるのかも知れぬが、二人きりじゃろ。見る者ももの申す者もおらぬのに、そこまで気にする必要があるか」

「……それは、そうですが」

「ともかく今は何もかも忘れよ、忘れて休むがよい」

「では……」

 達郎は一つ大きく息を吸うと、正座する瑞葉の膝の上へゆっくりと頭を乗せる。

 瑞葉の華奢な足が痛くならぬかと気になったが、当の本人はどういうわけか何ともないようだ。

 夏の夜特有の湿った空気と、それを運ぶ風を急に感じる。

 別人とはいえ推しの姿をした人物に膝枕を受けているというのに、ときめきを感じることなく、むしろ逆にただただ凪のごとき穏やかな気持ちに包まれた。

 静かな、余りにも静かな時が流れる。

 急に感傷を覚えた達郎は、ぽろりと一つ泪を流した。

(……これもまた、何かの縁なのかのう)

 瑞葉は尻尾をゆったりと揺らしながら、自分もまたどこか泣きそうな顔となっていた。

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