第2話 そのノートは大切なもののようだった

 脳内で『何も違わない。私は何も間違えない。全ての決定権は私にあり、私の言うことは絶対である。私が正しいと言ったことが正しいのだ。』という言葉が出てきたが、顔をぶんぶん振って雑念を払うと健一もバッグから本を取り出すと黙々と読み始めた。普段は夏目漱石なつめそうせき江戸川乱歩えどがわらんぽが健一の愛読書ではあるが、今日は妹がお気に入りで読んでいたやつを貸してもらった。いや、貸してもらったというには少々語弊がある。正確には『』といってもいい。テンプレートをなぞったままのしがない日常を送りたい健一とは違い、現在高校一年生、花の女子高生となった妹は青春を謳歌することを決めたそうだ。さしあたっては兄にもロマンティックコメディを教えることにしたらしい。「春から高校二年生になるのに何を言っているんだか……」と半ば呆れている兄である。

 本の作者は『音無音音おとなしねね』という音があるのかないのかハッキリしてほしいペンネームである。タイトルは『控えめに言って、君には失望した』とまあ、タイトルからバットエンド感を醸し出しているのは間違いない。本が発売されたのは作者が高校生の時だとあとがきで綴っていたので、もう十年以上も前の作品である。全五巻というライトノベルとしては少々物足りなさとは裏腹に必要以上に人気が出てブームにまでなった作品であることは小学生の時にテレビのワイドショーか何かで見た記憶があった。妹はメルヘンチックな作風がお気に召したのか、その日のうちに全巻買うことに決めたらしい。ちょうどよく、ほこりもそんなについていない本を手に取ると栞を中指と薬指の間に挟むと読み進めた。

 今、停車している場所から学校のターミナルまでの時間はすでに把握している。

 だが、ふと『それ』は偶然の産物といえるだろう。隣の女子高生のバッグから『日刊ノート』というものが健一の膝に落ちてくるのが目に入った。


「…………」


 健一が『それ』に気づいて、ノートを拾い上げようとしたが、横から手が出てきてノートをふんだくると思いっきりバッグの中に押し込んだ。

 そのあまりにも早業ともいえる行動にあっけにとられ、瞬きを数回する。まるで死神のノートを取られた時の世界一の探偵さんのような気分になりながら、健一は隣の女子高生を見る。


「み……見ました?」

「………表紙だけちらっと、中身までは見てないから安心してほしい。」

「そうですか……」


 女子高生はそれだけ言うと安堵したように再び白い景色を見つめる。その行動に健一は「何だったんだろう……」と心の中で思ったが、高校近くのバスターミナルまではあと五分と満たない時間だったため特に気にすることはなかった。


「次は~信濃しなの高校前~信濃しなの高校前~。」


 バスの運転手がそう目的地を告げると健一は降りるための準備を始めた。とは言っても、本を閉じてバッグの中に入れるだけの簡単なことだったが、健一には別の思いがあった。その女子高生とはそこから先に言葉はなく、目的地の高校まで静まり返った空気が続いた。


「信濃高校前です。なお、生徒の降車のためこのまま五分ほど停車いたします。ご了承ください。」


 淡々とアナウンスをする運転手を後目に健一は約一年ぶりに使うバスの回数券を利用し降車した。ギリギリ期限が切れていなくて良かったと安堵した。その後ろでさっきの女子高生も降りたので健一は改めてお礼を言おうとした。


「あの……さっきはどうもありがとう。君がいなかったらずっと立っていることになっていたよ。」

「ヒッ…………どう……いたしまして……」


 さっきと同様によそよそしい態度をとりながらも女子高生は聞こえるか聞こえないかの声で続けて答えた。


「あの………さっきのノートのことですけど……」

「ああ、あれのこと?何度も言うけど、中までは見てないよ。」

「ええ……ぜひ、あのノートのことについては忘れてください。それがあなたの身のためでもあります。では、私はこれで失礼します……」


 女子高生はそれだけ言うと、健一を追い抜くかのように横切ると学校までの一本道を歩き始めた。

 黒歴史のノートとはいいがたい、ただの日刊ノートなのにそこまで執着するということはよほどのことだろうと思った。


「忘れろって言われたところでなぁ……」


 健一自身、特にそこに関して追及する気はなかった。ただ、席を譲ってくれたお礼を言いたかっただけそれ以外はどうでもよかった。

 健一は白い息とともにぽつりと独り言を交わし、先ほどの言葉を思い出す。



「そんな風に刺激的に言われちゃったら忘れることも出来ないだろ。」


 健一の脳裏には今でもそれが懸命に映像として残ることとなりつつもすっかり凍結してしまった地面に足を取られないように気を付けて校舎へと向かった。

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