第3話
「いろはをこの部屋に呼んでくれる?」
え、何でいろは? と聞き返そうとした僕の耳に、ガチャリと、鍵が開けられる音が聞こえた。かすかな金属の軋みとともに、鉄製のグリーンの扉が開いて、眩しい陽光の中に小柄な人影が現れる。
僕の知る限り、この部屋の鍵を持ってるのは彩ねえのお母さんと僕、そして強引に合鍵をねだって来たいろはだけ。ということはつまり…
「あ、やっぱりいたんだヨウ、ごめんバイト中でさぁ…」
ソファベッドの上の僕と、僕に乳を揉まれている(ように見える)恵=彩ねえ、玄関のいろはの三人は、お互いを視認した後、フリーズした。
脳が見たものを認識して把握するまでに僕らは数秒間を必要とした。その数秒の間に、灰皿に忘れられていたタバコの端が灰の塊になって崩れると、それを合図に時は再び動き出した。
「え? ヨウ? 恵ちゃん? え、何、何して…」
「きゃあああああぁぁぁぁぁっっ!」
いろはの戸惑った声を、大音量の悲鳴がかき消した。声の主は、顔面蒼白の恵。
「私っ、そんなつもりで来たんじゃないですっ! 先輩のっ、ケダモノぉっ!」
「いや、あの、ちが… うわっ!」
手近なDVDケースを僕に投げつけ、恵は全力で玄関に向けて駆け出すと、いろはを押しのけて飛び出していった。追いかけようと身を起こし、駆け出そうとした僕だが、いろはの鋭い視線に足を縫い留められた。
「ヨウ、恵ちゃんに手を出したの?」
「いや、違う、違うんだって、あれは大下じゃなくて彩ねえで…」
我ながら、頭がおかしいとしか思えないような言い訳をする僕。それを聞いて、いろはの顔になぜか一瞬だけ驚いたような表情が浮かぶが、すぐにまた、ゴキブリを見るような蔑みの表情に戻る。
「最低ね。」
そのつぶやきと共に、ゆっくりとドアが閉まった。一人部屋に残された僕は、呆然とただ立ち尽くす事しかできなかった。
〜〜〜
「最低ねぇ、まあこっちも最低かもだわ。」
彩さんの部屋を出て、何処にも行くところの無いあたしは、大通りの歩道をトボトボと歩いていた。このまま家に帰る気分でもないし、カフェなんか入った日には周りの楽しげオーラでさらに落ち込むに違いない。
部室はもっと嫌だ、恵と出くわしたらなんと言ったらいいのか。
あーあ。
あたしは夕暮れ空を見上げてため息をついた。
そもそも、あたしはヨウの彼女じゃない、従ってあれは浮気でも何でもなくて単なる自由恋愛。
そもそも、あの部屋でエッチなことをしたのはあたしの方が先なわけで、それも乳を揉むどころじゃないレベル。 だから、あたしには怒る権利が無い。
でも、やっぱりひどくない? あたしとの、もといあたし=彩さんとのエッチの時は、あんなに甘々にしてくれたのに。
あれは二股なんじゃないの? ヨウにとっては彩さんと恵ちゃんの二股だから、あたしには関係ないとはいえ!
うう、モヤモヤしすぎて吐きそう。
街は急速に照度を落としていき、行き交う車はポツポツとヘッドライトを点灯しはじめている。街路灯が瞬きながら今日の仕事を始めるのをボヤッと眺めながら、あたしはどこか逃げる場所を求めていた。
眼の前をバスが通り過ぎる。車体の側面、コミカルなイラストのイルカが能天気にとび跳ねていて、あたしは、瞬間、そのイルカと目が合った。
「イルカがみたい…」
そう、唐突に思った。
〜〜〜
夜の水族館は、昼間の快活さを失い、そのまるごとが水に沈んでいるかのように青く鈍く光っている。それはつまりあたしみたいな、海底に沈んだままのメンタルポジションの人間、にぴったりの場所だ。
ちょうど夜間開園の期間中で、遅い時間でも入園できた。平日だからか人影はまばらで、暗いところでイチャイチャしようと目論んでいるバカップルどもが視界に入らないような場所を選べば、そこはあたしだけの世界。
あー、消えてなくなりたい、てかこの水槽に沈みたい。
あたしはイルカショーの階段状の客席の端っこで、やっぱりモヤモヤウジウジしていた。
次、ヨウにどんな顔で会ったらいいんだろ、かわいい後輩が慰めてくれてるのに、めんどくさい幼馴染が殴り込んで来たなんて。ヨウ的には、あたしイヤなヤツすぎるでしょ。
うー、嫌われたくないのに。
昼間は観客の歓声で騒がしいであろう、コンクリートの客席は、今は物理的にも熱を失って、少しひやりとする。誰もいない薄暗くて静かな空間で、固い座席に尻をあずけてへこんでいると、あたしの耳に甲高い音が響いた。
キューイ。
顔を上げると、一匹のイルカが水面から顔を出して、じっとこちらを見つめている。
キューイ。
じっと見つめ合う、あたしとイルカ。もう一度、同じ音が聞こえた。あのイルカの鳴き声で間違いないらしい。
「もしかして、あたしに用、かな。」
ザブン、イルカは小さな水音を残して水中に消えた。違ったか、と照れ隠しに頬を膨らませていると、今度は水槽の側面ガラスの向こうに現れた。やっぱりこちら見つめている。
何なのよ。
そしたら、そいつは細い口を少し開いて、押し出すような仕草で泡を吐き出した。泡は輪っかの形を描いて、しばらく水中を漂って、たくさんの小さな泡へと崩れて消えた。
「はは、何よ、慰めてくれてるのかな。」
ふわあぁっっ。
また、バブルリングを吐き出す。息継ぎなのか、一旦奥の方に消えたあと、また同じ場所に戻ってきて、またバブルリング。
違和感、というより明らかな意思をそこに感じて、あたしは椅子を立って水槽に近づいていった。
「ねえあんた、なんかあたしに言いたいことあるの?」
キューイ。
イルカが水面に顔を出す。一声泣いた後でまた潜って輪っかをひとつ。 イエスなのか? それで、このリングに何か言いたいことが込められてる?
「その輪っか、タバコの煙みたいだね。」
何気なく、口から出た言葉。その言葉にあたし自身がハッとした。
あの部屋、タバコの煙が漂っていた
そうだ、たしかに灰皿から煙が立ち上っていた。
ヨウはタバコを吸わない。
じゃあ恵が吸ったということになる。
彩さんが亡くなって以来、あそこでタバコを吸った人間は、あの娘が初めてだ。
もうひとつ、自分も同意の上で、エッチな行為に臨んでいたら、何であんなに取り乱して逃げる必要があるのか。
イルカはまた、バブルリングを、今度は連続して吐き出した。彩さんみたい、あの人も「みてー、いろは。煙で輪っかが出来たよ、それも2連発だよ。」とかくだらないことを…
バンッ!
「彩さん、彩さんなのっ!?」
あたしはアクリルの壁に両手を叩きつけ、叫んだ。手のひらがジーンと痛むけど、気にならない。
キュキューイ。
イルカ=彩さんが鳴き声を出す。信じられないけど、信じるしかない。
「彩さんが、恵に憑依した?」
キュキューイ。
「タバコを吸うのがスイッチってこと?」
キュキューイ。
あたしは、弾かれたように走り出した。観客席の出口へ、水族館の外へ、彩さんの部屋へ! あの部屋に彩さんのタマシイ、ユーレイ、ゴースト、何だか知らないけどそういうものがいる!
夜の街を、あたしは走って行く。
「待ってろぉ、あやさぁんっ!」
あのクソ女に、言いたいこと言ってやるんだ!!
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