第2話
「ふう、危なかったなあ」
あたしは、シャワーを浴びながら独り言ちた。ここは勝手知ったる他人のユニットバス。彩さんの部屋は広くはないけど、バスとトイレはちゃんと独立してて快適だ。ヨウは今、さっきまで二人が抱き合っていたソファベッドで寝ている。ここへは一人できて、彩さんと会っていて、目覚めて一人で家に帰る、という記憶を埋め込んでおいたから、そのうち勝手に起き出して帰っていくだろう。
あたしは鏡の中の自分を見ながらため息をついた。ちょっとタレ目だけど大きな瞳、柔らかさが自慢の唇。胸だって彩さんより大きいし、結構自信はあるんだけどなあ。
彩さんが亡くなった後の、ヨウの落ち込み具合はホントにひどかった。いつもこの部屋に籠もって泣いているのを、あたしは何とか慰めようとしたし、元気づけようとしたけど、全然ダメだった。そんな時に、たまたまこの部屋で催眠術の本を見つけ、催眠療法のマネごとでもとかけてみたんだ。 ヨウは被暗示性が抜群だったらしく、あたしの言葉であっけなく催眠に落ちた。初めは、脱力させてリラックス状態に導いたり、感情操作で楽しい気分にしたり、といった程度だったのが、数回繰り返すうちに認識操作まで可能なくらい、深い催眠状態まで落ちていくようになった。
そこからが、あたしの失敗。
軽い気持ち、彩さんに会わせてあげたい、そんな軽い気持ちであたしはヨウに、自分を彩さんだと思わせる暗示を入れてしまった。
眼の前に彩さんが現れた時の、ヨウの表情は、忘れようにも忘れられない。
いつもつまらなそうで、世界のイヤなことは全部自分に降り掛かって来ているかのような顔、それが、キラキラした、大事な宝物を見つけた子供のような表情に変わる。そして、そんな顔で迫られたら、断れるわけが無い。 「彩ねえ、彩ねえ、会いたかった。」 そう言われて、あたしも会いたかったよ、と言わずにいられるだろうか。 「ねえ、彩ねえ、あの時の続きを…」 とねだられて、唇を重ねてくるのを拒めるだろうか。当然のごとく、その続きを求められて… あたしは受け入れてしまった。逆瀬川彩として。
まだ身体に残っている甘い痺れを確認する様に、あたしは翳りに覆われた部分をそっと撫でる。さっきの快感が、下腹部からじんわりと広がっていく。
「んっ」
鏡の中では、切なそうな表情の女が腰をくねらしている。
「ねえ何で彩さんなのぉ、何であたしじゃないのよぉぅっ…」
消えることの無い、想いが口をついて飛び出す。そもそもあたしは彩さんが好きじゃなかった。ヨウが行くから、いつもついて来ていたこの部屋。たしかに彩さんはさばさばしてて、いろんな事を知っていて、優しくて。好きになっても仕方ない人だったけど、ヨウにも優しいのがイヤだった。
あたしが好きな人にやさしくしないでほしかった。
それに、高3のあの日、急にキスをしようなんて言い出しちゃって、あたしの目の前でヨウの唇を奪った。それだけじゃない、キスをしながらあたしの事をじっと見つめて、きっと、あたしの気持ちを知っていて勝ち誇っていたに違いない。
記憶の中の彩さんに向けて、あたしは叫んだ。
「ヨウを、ヨウをあたしに返してよおっっ、もう死んだんだしっ、いいでしょっっ! ねえぇぇっっ!」
そう、あのキスの日から数日後、彩さんは事故であっけなく、亡くなってしまった。あの時の続きをすることも、気持ちを確かめることも、永遠に出来なくなった。想い人の気持ちを取り返す事も。
「返してよおぉっ…」
叫びすぎだ。頭の中が酸欠状態で白く染まって、足に力が入らなくなったあたしはペタンと床にへたり込んでしまった。
「ひっ、ひっ、ひいいいいいぃぃん…」
情けなくて、涙があふれる。
ねえ、彩さぁん、戻ってきてよぉぉ。いなくなって、ハイサヨナラなんてずるいよ、あの時のキスの、あの視線の意味を教えてよ…
あたしはバスルームで泣き続けた。
〜〜〜
「あー、すごい、ヨウ先輩。たくさんですねー」
映研の新入生、
その様子を眺めながら、僕は右手をそっと握った。少し汗ばんでいる、ここのドアを開けるときに、もし彩ねえ本人がいたらと、少しだけ心配したせいだ。
ばからしい。 あれは、僕の心の中の幻想だ。
彩ねえはもういない。ほら今だってどこにも現れないだろうと、カーテンの陰とか押入れの中を、一応さり気なく確認しつつ、僕は恵が、棚いっぱいに並んだDVDを片っ端からチェックしていくのを見ていた。本当はいろはにも声をかけようと思ったんだけど、バイト中らしく連絡が取れなかったので、しょうがない。
「ああ、こんなのもある。うわっ、これも、レア物ばかりですねえ」
よだれをたらさんばかりの恵に、あんまり散らかさないでくれよと忠告しかけた時、彼女の移り気な好奇心が新たな対象を見つけた。恵は棚に並べられた缶入りタバコを発見し…
「うわっ、両切りじゃないですか、シブっ」
そう言うと勝手に蓋を開け、ぎっしり詰まった紙巻たばこの一本を摘まみ出した。
「お、おいっ」
「いいでしょ、一本いただきっ!」
手早くポケットからライターを取り出す。
「大下おまえ、一年生だろっ」
「あ、ダイジョブでーす、自分一浪なんで、もうハタチなので」
恵はタバコの先端に日をつけると、肺いっぱいに煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「うん、きつい」
彩ねえの思い出をないがしろにされた気がして憮然とする僕の前で、恵はニヒッと歯を見せて笑う。しかし、その次の瞬間、彼女の眼に浮かんでいたのは戸惑いの色だった。
「えっ、何なのこれ、煙じゃない、のが、入って、くる…」
「お、大下っ、どうしたんだよ?」
突然、腰から下の力が全て抜けた様に、恵はペタンと床にへたり込んだ。眼は意思の抜けたガラス玉になり、だけど右手のタバコは落とすことなくもう一度唇へと持っていく。フィルターのないそれを咥え、吸い、ゆっくりと吐き出した。そしてもう一回、今度は唇を大きく開いて、紫煙を輪っかの形に吐き出す。
「大下…」
化粧の薄いまだ幼さの残る顔立ちに、今は強い目の光が宿っている。普段の恵とは違うその表情に、僕は見覚えがあった。
「んふ、久しぶりのタバコは美味しいわね」
「彩 、ねえ?」
「久しぶり、ヨウ」
彩ねえ? 彩ねえなのか?
「本当に、いやそんな信じられない…」
でも、この話し方、唇の端だけ上げるような笑い方、ふざけてやってた輪を描く煙の吐き方。どう考えても…
「ふふ、信じられない?」
恵の姿をした彩ねえは、タバコを灰皿に置くと僕の肩を抱き、ソファベッドに座らせた。正面にしゃがみこんで微笑みながら見つめられると、心臓の鼓動が激しくなって苦しい。
「本当に彩ねえなの? あ、でもじゃああの彩ねえは…」
そうだ、じゃあ、この部屋で何度も肌を重ねている彩ねえは誰なんだ。その疑問に、恵=彩ねえは、全て分かっているような顔で、よく分からない返答をした。
「まあ、あれも私だよ。いろんな私が君を想っているの。随分落ち込んでいたから、心配していたんだよ」
言葉の深い意味は分からなかったけど、この表情、喋り方、言葉の選び方、やっぱり間違いない、彩ねえだ。
「彩ねえ… うわっ!」
変な声が出たのは、衝撃的な光景のせいだった。僕の視線は下方にムリヤリに引き寄せられ、固定された。
しゃがみこんでいる恵=彩ねえのミニスカートがめくれ上がって、真っ赤な下着が丸見えになっている。
いつもパンツルックだった彩ねえだからわからないんだろう、ミニでその体勢をしちゃだめだって事が。
「ん、どうしたの?」
うわ、これ、見ちゃまずいだろう、だって彩ねえだけど恵なんだ。とは思えども、視線をそらす事が出来ない。 彩ねえはやっと気付いて、でも隠す素振りも見せずにニヤッと笑う。
「ふふふ、ヨウもエロくなったもんだねぇ。この娘の事、好みだった?」
にじり寄ってくる。
「ち、ちげえよ。大下に悪いし、中身は彩ねえでもあいつの身体だろ」
僕の上に、跨った。なめらかな太腿が押し付けられる。
「まあでもこれくらいいいでしょ、この娘、ヨウの事を気に入ってるみたいだし」
上半身を傾げて、胸を押し付けてくる。
「何でそんなの分かるんだよっ」
耳に息を吹きかけられて、背中がゾワッとする。
「分かるよ。そうじゃなきゃ二人きりでここに来ない」
「適当なこと言うなよ」
「ま、そういうわけだから。胸ぐらいは大丈夫だよ」
そう言いながら僕の手をとって、薄手のニットの下、やや控えめな膨らみに導いた。
「や、や、やめろっ…て」
言葉だけは抵抗するが、手を引っ込める事はできない。
「んふ、ヨウも男になったよねえ、私の部屋をホテル代わりにするなんてねぇ。ま、私をあんなふうに乱れさせちゃうくらいだもんね」
彩ねえ、イジワルな顔になってる。
「やめろよっ。そんな言い方…」
「ねえ、ヨウ」
彩ねえの声色が変わった。優しい声、諭すような喋り方。
「ユーレイの私がこうやってあなたに触れられている、もう二度とできないと思っていた事が出来たんだよ。この娘には悪いけどもう少し一緒に過ごしたいんだけど、だめかな」
そう言って、上目遣いになられると、女ってズルいよなと思う。だめなわけないし。
「ありがと。それじゃさ、お願いがあるんだ」
僕の表情を見て、イエスを確信した彩ねえは微笑む。
「いろはをこの部屋に呼んでくれる?」
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