スモーク•リング•メモリーズ

東雪占里

第1話

あの日から、ずっと、同じ夢を見る。


母親の携帯が、呑気な電子音のメロディを繰り返し鳴らしている。いやだよ、出るな。そう僕は強く念じる。電話に出るとすごく悪い事が起こるんだから。


「はい、もしもし。ええ、ええ、え! はい、はい…」


僕の願いは届かず、通話が始まった。ああ、またあの瞬間が来てしまう。


「ヨウ、あやちゃんが、彩ちゃんが…」


顔面を蒼白にした母親が、よろつきながらこちらに来る。床のゴミ箱をひっくり返しても気付かないくらいのうろたえようだ。


「ヨウ、ヨウ、ヨウ…」


震える母親の声が、頭の中に反響する。その姿がグニャリと歪む。ヨウ、ヨウ…


「ヨウ! いつまで寝てんのよ!」


パシッッ。


「うっ、ゲホッ、ゲホッ…」


いきなり頬をはたかれて、目覚めた瞬間、誤嚥して思いっきりむせた。隣に立って、苦しむ僕を見下ろしているのは、はたいた張本人であるポニーテールの美少女。


「ああ、いろは。おはよう」


ようやく咳が治まったので、あいさつを返す。


「おはようじゃないわよ、よくこんな所で眠れるわね」


紅林くればやしいろは、僕と同じ大学の同じ二回生。高校も、中学も小学校も一緒の、いわゆる幼馴染だ。2年前、あの時も、一緒だった。 彩ねえが、この世にいなくなった時も。


彩ねえ、逆瀬川さかせがわ彩は僕のイトコで、4つ上。美大で映像の勉強をしていた。一人暮らしのマンションにはメジャーからマイナーまで、映画のDVDがいっぱいあったので、僕は放課後にはいつもそこに入り浸って、サブスクでは見れないような古い映画を見まくっていた。


一度だけしたキスも、あの部屋でだった。


彩ねえは、まあ控えめに言っても変わった人で、黒いコート姿にタバコをくゆらしたり(香港の古い映画の主人公のマネらしい。さすがに2丁拳銃で暴れはしなかった)、「ねえヨウ、イルカは地球で2番目に頭が良い動物なんだよ、人間は3番目」と、水族館でイルカと会話を試みたり。イタリア映画のキスシーンを見て、どのやり方が一番気持ちいいか、試してみようと言いだしたり。 変わった、僕の大切な女性ひとだった。


映研の古い部室を出て、次の講義へと向かう。ニ回生の講義は多彩で、教室もバラバラだ。古い部室棟から中庭に出て、狭くはないキャンパスの向こうの端まで。早くもやる気満々の紫外線に体力を削り取られながら、ほんの一ヶ月前はピンク一色だった並木道を、だるそうに歩いていく。


後ろからいろはがトコトコとついて来る。


「ねえ、そういえばそろそろよね。彩さんの、その、命日」


ポニテが揺れる、その下のぷっくりとしたピンクの唇から、気遣っているのか、おずおずと言葉が綴られて出て来る。


「ああ」


「ねえ、今日も行くの? 彩さんの部屋」


「ああ」


「そっか…」


彩ねえの部屋は今もそのままになっていて、今も僕はそこに入り浸っている。 壁いっぱいの棚に並んだ本やDVDと大きな液晶モニター、映像の加工に使う機器類。買いだめしていたらしいタバコの缶、必要最低限の食器類に、どこで買ったかわからないような服。それらに囲まれたソファベッド。 ホコリがたまらないよう、定期的に掃除はしているが、それ以外は2年前から何も変わらない部屋。


だけど、少し前から不思議な事が起きるようになった。彩ねえが現れるようになったんだ。


彩ねえは今も、ソファベッドに背中を預けて、微かな笑いを浮かべながらこちらを見つめている。 ちょっと太めの眉、勝気な瞳、タバコがよく似合う薄い唇。両手を上げて頭の後ろに回してポニーテールを解くと、ふわりと髪が広がって、甘い、スパイシーな匂いが部屋中に広がる。ノースリーブの脇からのぞく腋下の翳が、僕をドギマギさせる。


ぬちゅっ。


ふらふらと、吸い寄せられる様に近づいた僕の唇が、柔らかいものに触れた。それは、すぐに迎え入れるように開いて、濡れた粘膜で僕をついばむ。小さな水音が響くと、それだけで腰のあたりにゾクリと電気が走る。興奮が抑えられなくなり、息が荒くなっていくのが分かる。


もっと、深くまで、交わりたい。


僕の心の声に応えるように、彩ねえの唇が大きく開き、舌同士が絡み合う。少しざらついた表面に口中をくすぐられて脳が蕩けそうになりながらも、僕の手は別の生き物になって、ノースリーブのブラウスをまくりあげていく。


布地越しにも分かるマシュマロのような肉丘がフニャリと変形する。 あぁ、直接触れたい。 そう思った時、チュッと小さな音をさせて唇が離れた。どうして、と見つめた先には目元を上気させた微笑が浮かんでいて…


「いいよ」


後ろ手にブラのホックが外されると、白く輝く二つの膨らみが開放されて、たぷんと揺れた。重力など無いかのように、キレイに描かれた弧の中心には少し大きめの淡いピンクがその存在を主張していて、僕はその美しさに視線をそらす事ができない。


「舐めて」


柔らかい、いい匂い、柔らかい、気持ちいい。僕は夢中になった。 だけど、それだけでは、もう我慢ができない。 ズボンの中がパンパンに張って苦しい。


「彩ねえ、もう、我慢がっ…」


「ふふ、いいよ。じゃあ、脱がせて」


許可が出た瞬間、僕は彩ねえのスカートをはぎ取った。甘い匂い、神経を無理矢理興奮させる化学物質フェロモンが僕の脳に殴りつけられたような衝撃を与えてくる。僕はたまらず、その源に鼻を近づけた。


「私の匂い、あなたをおかしくさせる、いやらしい匂い。嗅いでると、興奮が止まらなくなる、あなたは本能だけの存在になっていく。メスを愛したい、オスの本能だけの存在」


暗示をかけるような彩ねえの呟き。


「あなたはもう、我慢できない」


「彩ねぇっ」


行為が始まった。焦ってしまう僕に、 「大丈夫、落ち着いて」と彩ねえが声をかけてくれて、「あと、これ。ちゃんとつけてよね」どこから出したのか、避妊具を手渡される。僕は薄いゴム膜を装着する間に少し落ち着きを取り戻した。


途中からは立場が逆転し、冷静な催眠術師だった彩ねえは追い詰められ、乱れていった。 やがて絶頂を迎えると、彩ねえは僕をギュッと抱きしめ、囁いた。


「ヨウ、好きいっ!」


はあっ、はあっ、はああ、っ… 徐々に呼吸が落ち着いて、二人は同時にお互いの唇を求めた。ぷっくりした柔らかい唇が、ヨウの唇を迎えて、甘々の後戯キスになる。


「ヨウ、だいしゅきいぃぃ…」


熱く甘い吐息とともに、かわいい声が耳をくすぐる。 あれ? さっきまでと声のトーンが違う。思わず顔を上げて見つめた先にあったのは、さっきまでと違う顔。困っているような眉のライン、大きな二重の瞳、少し低いのを気にしている鼻、ぷっくりして誘うような唇。


「いろは? 何で、彩ねえは?」


いろはは、僕の質問には答えなかった。ただ、目を大きく見開いて、しまったという表情を浮かべると、慌てて『キーワード』を口にした。


「ちればいろ、とどまればいろ。あなたは催眠へと落ちていく」


その言葉を聞くと、僕は深い深い所へと落ちていき、意識を失った。

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