第86話 さようなら、愛する人
「板橋には言われてない。私がそう望んだんだよ」
その言葉を聞いて、俺は車から降りて後部座席に移動し、遥夏の隣に座った。
「もう君とは関わらないって、私が決めたの」
「なんで関わりたくないの? 俺の性格が気に食わないなら治すから……」
「君はわかってない」
遥夏の言葉には重みが感じられた。
「私はアイドルだよ」
アイドル。その言葉は、俺の理想をかき消した。遥夏がアイドルである以上、恋愛は禁止。遥夏はこれからの将来のためにアイドル業を選んだ。だから俺とは関わらない。
「……っ」
何も言えなかった。これじゃあ前回と同じだ。何も言えずに終わってしまう。
「遥夏がアイドルじゃなかったら、俺と付き合ってくれてた?」
「……そうだね。付き合ってたと思う」
でも、と続けた。
「それはもしもの話。理想と現実を同じように捉えないで。
私たちは違う世界を生きているの。もうあの頃には戻れない。お願いだからわかって」
アイドルなんて職業をつくったやつは誰だろう。どうして恋愛禁止なんかにしたんだろう。
「っ」
どうして両思いなのに結ばれてはいけないんだ。
「遥夏!」
現実が許せなくて、そんな現実ぶち壊してやりたくて、俺は遥夏に迫った。両手を無理矢理掴んで背中のシートに押さえつけ、その勢いでキスでもしてしまおうかと思った。今ここでめちゃくちゃにして、俺以外のことなんて視界に入れさせないようにしようかと。でも遥夏は冷静だった。
「やめて、りつ」
……ああ、俺たちは同じ気持ちなんだ。
この世の中に呆れているのは俺だけじゃない。遥夏も同じで、本当はアイドルなんてやりたくないんじゃないかな。
「……ごめん。俺がこんなだから、辛い思いさせるんだよな」
俺はガキだな。
「腕痛いよね。ごめん」
背中のシートに押し付けていた遥夏の両腕を降ろした。その腕から手を離した時、もう触れないんじゃないかって、すごく怖くなった。
「この二年、遥夏のことを考えなかった日は1度もなかった。
本当に、大好きで……」
これはただの恋じゃない。
「一生を遥夏と過ごしたいくらい愛してた」
でも、それも終わらせないといけない。遥夏が自分からアイドル業をとったのなら、俺は邪魔できないし応援したい。
それが、俺が君のためにできることだ。
◆◆◆
りつは、私の両手を背中のシートに押さえつけた。私のことを襲って、自分のことだけを考えさせようとでもしたのね。そうすれば私がアイドル業を辞めると思った。
「やめて、りつ」
叶うなら、このまま君に抱かれてもいい。
無理矢理にでも手を出してほしかった。でも君は優しいからそんなことしない。
「……ごめん。俺がこんなだから、辛い思いさせるんだよな」
りつは悪くない。なのに自分のせいにする。優しくて、お人好しで、臆病だから、絶対に私を傷つけることはできない。
「腕痛いよね。ごめん」
私の手からゆっくり離れた。もうこの手には触れられない気がした。
これが君に触れる最後だと、確信した。
「この二年、遥夏のことを考えなかった日は1度もなかった。
本当に、大好きで……、一生を遥夏と過ごしたいくらい愛してた」
本当は、私がアイドル業を続ける代わりにりつを守るという板橋との約束だったけど、そんなことりつには言いたくなかった。言ってしまえば、絶対に諦めてくれなくなるから。
私だってりつと一緒にいたかったよ。
でもそれは言えなかった。
「ありがとう」
伝えたかったな。もっと、君に愛を伝えたかった。一生分謝りたかった。でも今の私はその言葉しか言えない。
「もうこれで最後だよ。
……さようなら。中村、律貴君」
車から出て、家に帰った。
自分の部屋に着いたら、倒れるように床に座り込んで、両の拳を床につけて強く握った。
「私だって、好きだよぉ……!」
私が人生で一番愛した人。
君が私の名前を呼ぶだけで嬉しかった。でももう呼んでくれないんだ。呼ばれないんだ。会っても、もういつもみたいに話せないんだ。
やだな。もっと一緒にいたかった。
失ってから悔いても、もう遅いんだ。
「うわあああん……!!」
私は情けなく泣き叫んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます