第78話 私の名前と俺の声
有沙さんが大智さんに頼んでくれたおかげで、俺も明日現場に行けることになった。でも俺は、家の中で、どうすれば遥夏と二人きりになれるのか頭を悩ませていた。
有沙さんのメールを使って呼び出したとしても、板橋さんがスマホを監視してしまえば怪しいことにすぐ気づかれてしまう。板橋さんを誰かに呼び出してもらってその間に遥夏と二人きりになったとしても、俺と遥夏がいないことにすぐ勘づくだろう。
「はぁ」
どうしよ。
一人で考えていると、インターホンが鳴った。誰だ、と思って画面を見るとサングラスに黒い帽子を被った人がいた。俺の家を知っている人は、立花か七瀬さんくらいだ。この黒い帽子と華奢な体型、髪の長さを見るからに七瀬さんだろう。
「入っていいよ。鍵開けとくから」
『ん』
部屋の中を急いで片付けてお茶を出しておいた。すると良いタイミングで七瀬さんが家の中に入って来た。
「お邪魔します」
「急にどうしたの?」
「これ、返しに来た」
渡された袋の中身を見ると、前に貸した服が入っていた。
「わざわざありがとう。事務所でも受け取ったのに」
「有沙たちにバレたら面倒」
七瀬さんは鞄を床に置いて、ベッドに座り込んだ。
「今日、学校は?」
「あった。……家に帰って、着替えてからこっちに来たの」
なるほど。だから私服なんだ。七瀬さんってスカート履かないのかな。いつもパンツかワイドパンツしか履いていないような気がする。スタイルが良いから似合っているけど。
「さっき有沙から謝られた」
「え?」
七瀬さんは俺のことを少しだけ睨んだ。
「2年前の報道を有沙から聞く代わりに、私の保護者として体育祭と文化祭に参加する条件を呑んだ」
それを聞いて心臓の鼓動が、少し早まった。
「どうして貴方が私に気を遣ってくれたのか、やっとわかったわ」
「ごめん。それは事実だよ。でも条件のためだけじゃない。本当に、七瀬さんのことが心配だったから……」
どうしよう。怒ってるよな。そりゃ怒るよな。これまでずっと七瀬さんは、自分が俺に使われていると知らなかったんだから。
「私は別に怒ってない。謝ってほしかったのと、本当に条件のためだけに私に近づいたのか、それだけが聞きたかった。でも謝ってくれたし、私のことを気にかけてくれていたことも聞けた。だからもういい」
気まずい空気が流れると、七瀬さんは話を切りかえた。
「報道の話、有沙から全部聞いた。よかったじゃない。貴方の大好きな人が無実で」
言葉に棘があるのは、絶対に気のせいじゃない。
「明日、有沙の現場に付き添って遥夏さんに会いに行くんでしょ」
「うん」
「私の現場にも来るって聞いたけど」
「あ、ああ。そのつもり」
「変な下心もって来られてもこっちが困るんだからね」
「肝に銘じます……。迷惑はかけないから」
「遥夏さんのために来られるのが迷惑なんだけど」
七瀬さんを見ると、ちょっと寂しそうだった。
「俺、七瀬さんの着物姿も楽しみに、してる、よ……」
急に恥ずかしくなって、語尾を小さくしてしまった。
「どうだか」
「本当だよ。七瀬さんって、ほら、足長くて、顔も綺麗だし、ストーカーされるくらい魅力的じゃん」
「それ褒めてる?」
「ほ、褒めてる」
「……もっと褒めて。あと10個」
10個って意外ときついんだぞ。
七瀬さんは「嘘」と言って、座っていたベッドに倒れるように背中をつけた。
「10回、私の名前呼んで」
いつもと違って少し甘えん坊なところにドキッとした。
七瀬さんはベッドの上に軽く手を広げて、まっすぐ上を見ている。俺もその隣に座って、ベッドに背中をつけた。真っ白い天井には、何も無い。
「七瀬」
驚いたようにこっちを見る素振りはなかった。呼び捨てで呼んだんだから、少しくらい動揺するかなって思ったのにな。でも俺は、七瀬さんを呼び捨てで呼んだ自分にも驚いた。
「七瀬。七瀬。七瀬。七瀬」
あと5回。
「七瀬。七瀬。七瀬。七瀬」
あと1回。
その時、七瀬さんは俺の手に触れた。間違って触ってしまったかのようにかすったから、間違いかと思ってたけど、右にいる七瀬さんに顔を傾けると、こっちを向いていた。
恥ずかしそうに少しだけ頬を赤くしている。何か物欲しそうな瞳、リップで艶のある唇。焼けていない綺麗な肌。すべて俺の視界に映っている。
そんな七瀬さんに緊張している自分がいる。
「……七瀬、さん」
俺も恥ずかしくて、多分、彼女と同じように顔が少し赤いかもしれない。名前だっていつもの呼び方に変えていた。
「臆病者。呼び捨てのほうが嬉しいのに」
くすっ、と小さく笑った七瀬さんは、いつもの意地悪をしてきたのかと思ったけどそんな様子はなかった。素で、俺に名前を呼んでほしかっただけ。
「遥夏さんと和解したら、また付き合うの?」
急に話を変えてくる。それに関しては、わからない。付き合わない方がいいとは思っている。遥夏を傷つけないためにはそれが1番だ。でも、またあの頃に戻れるのなら……。
「……わからない」
戻れるなら戻りたい。
でもそれは今じゃない、って思う自分がいた。
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