第76話 2年前の悪事

♢♢♢



 あれは2年前、12月10日の出来事だ。


 私が記者になってから5か月以上が経過した。いつも通り会社に出勤して、デスクで今日の動きを確認している時に、上から呼び出されたんだ。


「川端芸能事務所は知っているな?」

「はい」


 静音がいつも仲良くしてもらっている有沙ちゃんのお父さんの会社から、私直々に依頼がまわってきたんだ。すぐに事務所に赴いて川端さんのいる社長室に行くと、彼はいつもより深刻そうな顔をしていた。元々、静音と有沙ちゃんが仲が良いこともあって、川端さんとは少しだけ会話を交わしたことがあった。優しそうな人で、責任感の強い人だったんだけど、その時会った彼は別人のようだった。


「お久しぶりです、伊草さん」

「お久しぶりです。私に依頼というのは……」

「それについて、彼が説明致します」


 その時、社長室には川端さん以外にもう一人いた。


「初めまして。加藤遥夏のマネージャーをしている、板橋と申します」


 

♢♢♢



「その時にいただいた名刺がこれだ」


 伊草さんはテーブルに一枚の名刺を取り出した。本当に、加藤遥夏の専属マネージャーと書いてあって板橋さんのもので間違いなかった。


「私への依頼は川端さんからではなくて、実質、この板橋さんからだった」



♢♢♢



 板橋さんは別室に移動して話を進めた。


「遥夏が、12月25日は友人と一泊二日をするから休みが欲しいと言ったんです」

「はぁ」

「しかし、私としては本当に友達と過ごすものなのか信じられないんですよ。ここ1年、遥夏は売上が落ちているのにいつも幸せそうです。いつもと違うから学校で何かあったに違いない、と私は踏んでいます。しかし遥夏の友達は一人しかいませんし、その人の話以外、特に聞いたことがありません。そのため、男ができたのではないかと」


 板橋さんは鋭い洞察力で加藤さんの裏をつきとめようとしていた。


「そこで川端社長に相談したところ知り合いが記者をしていると聞き、本日、伊草さんに足を運んでいただいた所存でございます」


 そして12月25日、遥夏さんの家の近くで待機して、中村君が入っていくのを見て写真を撮った。次の日の朝まで密着して、中村君が家を出て行き帰ったところで仕事は終わった。すぐに板橋さんのもとに行ってこの写真を見せると、何やら口元がニヤついていた。


「伊草さん。私と取引をしませんか?」


 そこで持ち掛けられた条件が、あのデマ報道に繋がった。



♢♢♢



「うちの借金を全額返済する代わりに、言われた通りの記事を書いてほしい、という誓約だ」


 この場にいる全員が、馬鹿みたいに口を開けた。他に何も考えられなくなり、ただただその条件に驚きを隠せなかった。

 伊草さんは2年前に喫茶店が潰れてから借金を負っている。それは静音さんから聞いていたけど、まさかこの報道をきっかけに借金を返済できるチャンスが回ってきていたなんて思わなわなかった。静音さんも知らないようだし……。


「川端さんは、中村君のお父さん、中村社長に加藤さんの仕事を奪われてしまったことによって売上が低迷していることに困っていた。板橋さんは、そのことを中村社長に直接罵倒されたことで腹が立っていて、復讐でも企んでいた。だからあんな報道を流したかったんだ」

「じゃ、じゃあ、遥夏は……」

「無実だ。加藤さんは何もしていない」


 板橋さんと川端社長は、会社のためだけに俺と遥夏を利用した、ってことか。やっぱり遥夏は何もしていないんだ。それを聞いただけで安心した。


「私はその誓約書にサインをしてあの記事を書いてしまった。悪いことだとわかっていたのに、金に目がくらんでしまったんだ……!」


 俺の隣にいた有沙さんを見ると、目を大きく開いて、唇を噛んでいた。信じられないという顔だ。


「そしてあの報道が世間に出回った。君の顔はモザイクで消していたにせよ、あの題名を見れば、中村社長の息子が一人しかいないことにみんな気づくだろう。君の人生に大きな傷をつけた」


 そうだ。俺の顔はしっかりモザイクで隠されていた。未成年だから、かな……。でも題名に「中村社長の息子」という言葉が入っていたから、俺の同級生はみんなすぐに気がついていた。

 伊草さんは立ち上がって、俺のそばまで歩いてきて綺麗な土下座をした。


「本当に申し訳ないことをしました。謝るだけで許されるなんて思っていません。本当に、申し訳ありません」


 伊草さんは泣いていた。それを見て、俺まで苦しくなった。「頭を挙げてください」そう言っても伊草さんは首を横にふって、泣きながら頭を下げ続けた。だから俺は怒っていないことを伝えた。


「伊草さんは悪くありません。金銭を使って脅迫されただけの被害者です。だから頭を挙げてください。俺は、怒ってません。正直、遥夏が何もしていないことがわかればそれでよかったですし……」


 それでも伊草さんはまだ頭を下げていた。


「ううっ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 この様子だと、俺の話は聞こえていなかったかもしれない。謝ることに必死になっている。


「律貴君。私からも、謝らせてください」


 静音さんまで伊草さんに並んで土下座をし始め、俺に謝った。正直、やめてほしかった。謝られるためにここに来ていないし、俺はこの人たちが悪いなんて1ミリも思っていない。

 借金で困っていれば、その条件を呑みたくなるのも理解できる。俺だって両親が家の中で面倒を見てくれなくなった時、金がないから冷蔵庫にあるものをあさっていたし、冷蔵庫に何もなければ何も食べなかった。多分、それと同じだ。静音さんと生活する中で一人で働き、その中で毎月借金が引き落とされれば、働き始めの従業員には痛い出費だ。俺が伊草さんだったら、同じ道を選んでいたんじゃないかな。


「本当に怒ってませんし、悪い人だと思っていないので頭を挙げてください。脅迫されただけじゃないですか」

「君は優しすぎる。もっと、もっと私を痛めつけていいんだよ。大変だっただろう。苦しかっただろう。私は先のことを考えずに過ちを犯した……」


 伊草さんも優しい人だ。ここまで俺の人生を考えて泣いてくれているんだ。本当に心が綺麗な人ではないとできないことだ。


「……俺、少しだけ、感謝してるんですよ。この報道が流れたことに対して」


 こんなことを言うと、有沙さんは「え?」と驚いた声を小さく出した。


「あの報道がなければ俺は今ここにいませんし、UnClearにだって出会っていない。こんなに新しくて、楽しい日々を送っていなかったと思います」


 俺は自然に笑顔がこぼれた。


「ちょっと苦いけど、新しい青春を送ることができるのは今があるからなんです」


 静音さんと伊草さんはゆっくり顔をあげて、泣き顔を俺に見せた。


「だから感謝してます。彼女たちに出会わせてくれてありがとうございました」


 俺は少しだけお辞儀をし、お礼をした。今は俺が感謝するべき場面ではないかもしれないけど、どうしてもこれだけは言いたかった。このデマ報道をつくったのは板橋さんだけど、こんなに心の綺麗な伊草さんの弱みを握って脅した人に感謝なんて絶対にしない。


 伊草さんだから感謝できる。


 伊草さんはまた涙を流して泣き始めた。静音さんもずっと泣いていた。有沙さんは黙っていたけど、ちょっとだけ嬉しそうだった。しばらくしてみんなの情緒が落ち着くと、今度は俺が聞きたかったことを聞いた。


「遥夏が板橋さんに脅されていた、とか小耳にはさみませんでしたか? 実は遥夏、あの報道以来笑顔を見せないし、俺に対して凄く冷たいんです。あの報道は自分がやったものだって言い張っていて……」


 伊草さんは何か知っているかのように、「あっ」と声をだした。


「そういえば、スマホを解約するとかなんとか」

「あっ!! そういえば、遥夏ちゃんがスマホを解約しちゃったから連絡とれなくなったんだよね」

「誰か、加藤さんがスマホを解約した年月日、わかるかな?」

「俺に最後にメールが来た日は2年前の1月20日、時刻はちょうど17時です。解約したのは、俺とメールをしてからすぐだったと思います」



 伊草さんは日記を開いて調べ始めた。



「……怪しいなと思って書いておいたのが吉だ」

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