第71話 文化祭_好きな人の名前

♦♢♦♢



「俺、これ捨ててくるね」

「了解です。では体育館で待ってます」


 彼は、私が飲み干した彼のイチゴオレを手にゴミ箱のある1階へ向かった。その間に、私は静音と体育館に向かおうとしたのだけど、静音は人気のない階段に私を誘導した。足を止めた静音にあわせて、私も足をとめた。その背中には、文化祭の気分が感じられなかった。こっちを振り向いて何の話をしだすのかと思ったら、本当に、変なこと。


「七瀬は、リツ君のことが好きなんですか?」


 笑っていない目を向けられて、少しだけ肩がビクッと跳ねた。


「なに、急に」

「七瀬が自分から異性に間接キスをするなんて考えられません」


 確かに、今までならしなかった。寄ってくる男には興味がない。学校に行く時も、下駄箱に着いて教室に向かう時も、教室で一人で過ごしている時も、いつでも男に視線を向けられた。気持ち悪いから見ないでほしかった。いっそのこと消えたくなった。でも、一人だけ例外。


「私は好きですよ」


 落とした視線をあげると、静音は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして思いを口にしていた。勇敢だな……。


「でも私はアイドルだから、ちゃんと諦める努力をします。いえ、もうしています」


 知っている。静音が彼のことを好きなのは、体育祭の時からわかっていた。私の親戚と嘘をついてまで体育祭に参加して、別人のような容姿を取り繕ったけど静音のタイプに的中していた。もし、体育祭の彼が中村律貴だということを伝えなかったら、静音が彼を好きになることはなかったかもしれない。なんて、そんなこともないか。

 思えば、私はいつからこんな気持ちに囚われたのかしら。もう覚えていない。でもあの人はいつも私の機嫌を伺っていた。正直、うざかったのに。


「私は、私たちのために私たちがつくった居場所UnClearを捨てられません。ずっと大切にしていきたいからこその選択をとったんです」


 私だって同じ。今まで築きあげたものを崩すことはしたくない。きっと、静音は私もそう考えていることをわかっていて言っているんだ。私が彼のことを好きだと考えて、遠まわしに”一緒にこの気持ちを捨てよう”と言いたいんだ。


「私は、あの人の存在に呑まれてる。けど、それが恋とは思ってない」

「それ本気で言ってますか?」

「本気」


 だから、と続けた。


「先の話を、今はしたくない」


 ここでこの話は終わった。体育館に行き4人分の席をとって、あの人と有沙が来るのを待った。その時、ずっとあの人のことを考えていた。


 私の隣に座らず、一つ開けて静音の隣に座ったあの人のことを考えていた。

 後ろに座っていた日菜のお姉さんと仲良くしているあの人のことを考えていた。

 私の名前を呼んでくれたこの人のことをずっと考えていた。


 舞台発表は、申し訳ないけど全く頭に入ってこない。体育館を出た時、私はこの人の背中をずっと見つめていた。


(……痛い)


 この場にいることが辛くなってきて、私はこっそり逃げた。階段を駆け上がって、屋上のドアの前で止まる。


(そういえば、あの人はここで遥夏さんと……)


 やめよう、考えたくない。

 胸が無性に痛かった。何かの病気かと思った。日菜のお姉さんからパンケーキの半額券をもらったけど、食べれないかもしれない。そのくらい喉の奥が熱くて、苦しくて、壁に背中をつけて崩れ落ちるようにその場に座った。

 考えたくないのに、なぜかあの人が頭に浮かぶ。高校時代のあの人ではない、今のあの人が、今、私の隣に座ってくれている気がするんだ。


 離れてほしいのに、離れたくない。

 近づいてほしくないのに、近づきたい。

 嫌いなんて、言えない。


 こんな気持ち、知らない。

 知らなくていい。

 知りたくもない。

 それなのにこみ上げてくる。私の心が気づこうとしている。



「見つけた」



 その声を聞いて心臓が止まった気がした。ゆっくり顔をあげて横を見ると、安心した顔で私のことを見下ろしているあの人がいた。


「どうした? 大丈夫? 体調悪いの?」


 私を見るなり心配してくれた。しつこい、って言ってしまいそう。いつもなら気にしないのに、今の私はこの人を傷つけることが怖くなっている。


 なんでだろう、嫌われたくない。


「来ないで」

「え?」

「一人にして。一人がいい」


 体育座りで、膝の上に両腕を交差するように置いて頭をうずめた。すると、私の隣に座るような音が聞こえた。少し顔をあげてみたら本当に隣に座っていた。


「一人にしてよ」

「しないよ」


 ははっ、と軽く笑われた。


「あっち行って。顔見たくない。一人がいい」


 彼は私の手を握った。


「俺は知ってる。七瀬さんは一人が嫌いだ」


 その言葉に、忘れられない過去をぶり返した。両親の葬式で、私は泣かなかった。泣いてはいけない気がして、泣けなかった。よく状況を掴めていない空は、大好きな親の死を目の前に泣き叫んで、おばあちゃんに抱きしめられていた。ただ茫然と立っている私を、私は可哀想だと思った。それからだ。私はそれから、一人でいることが怖くなった。ううん、嫌いだ。大嫌い。

 彼の言うことは、正しい。


「本当はそばにいてほしいんだろ?」


 彼は優しく微笑んでいた。気を遣っている様子もなくて、ただ、私のためにここにいてくれている気がした。思い違いかもしれないけど、そんな気がした。


 恋をすると、自意識過剰になるのかな。


 私は彼の手を握り返した。指先っちょを軽く握って、暖かいな、と思った時には、もう少し手を大きくして彼の手を握った。


「気づきたくなかった。でも、今は悪くないかも」


 腕につけていた額をずらして、彼を見た。

 きっと、なんの話をしているかわかっていないと思う。だって、ずっと不思議そうな顔をしてるんだもん。私が何に悩んでいるのかすら知らないこの人にとっては、厄介者かしら。



「ありがとう。律貴」



 今の私は、笑えてるかな。笑えてるよね。


 私は、初めて貴方の名前を呼んだ。

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