第59話 弱虫で余裕のない

♦♢♦♢



「ただいまー」


 家に帰ったら、有沙はまずただいまって言う。靴を脱いで整えると、知らない赤のヒールが置いてあった。いつもなら誰もいないのに今日は人がいる。


「おかえり、有沙」


 リビングから聞こえた声はパパだった。


「あら……、娘さん?」

「ああ、そうだ」


 知らない女の人がパパと一緒にソファに座ってる。ワインを飲んでいた。パパは女の人の肩に手をまわしていた。

 今に始まったことじゃないから気にしないけど、いつも学校帰りの時間は家にいないからびっくりした。こういう時、有沙はいつもみたいに知らない女の人に挨拶をして、2階にある有沙の部屋に閉じこもる。鞄を放って、制服のままベッドに飛び込んだ。ぬいぐるみを抱きしめると、夏なのに暖かい。ベッドに置き去りにしているエアコンのリモコンを手に冷房をつけると、冷たい風が部屋中に広まった。


「……はぁ」


 なんで、いるの。

 ポケットにいれているスマホを手にとって、誰に電話をしようか悩んだ。ななちゃんは家の手伝いで忙しいし、しずちゃんもシングルファザーの家庭で、パパが仕事でいない中家事をこなしている。大ちゃんと社長も仕事中。だとしたら、電話できる相手はリツさんだけ。でも今日バイトだったらどうしよう。邪魔だよね。

 また一人でため息をついて、スマホをポケットにしまった。喉が渇いたからリビングで水を飲もうと思ったけど、あの二人がいるからやめておこ。どうしよう、有沙の居場所、ない。

 すると、誰かからか電話がかかってきた。有沙のスマホからで、画面を見ると遥夏ちゃんからだった。


「もしもーし。遥夏ちゃん?」


 電話をかけてくれるのは2年ぶりだったかな。


『有沙。もう夕飯食べた?』

「ううん。まだだよー」


 今日はコンビニでおにぎりでも買って食べるしかないかな……。ママだって帰ってこないと思うし。


『一緒に食べに行こ?』

「え?」

『もう予約してあるから、1時間後に駅前集合ね』


 強制だった。でも今は家にいたくないから、服を着替えてしっかり変装をしたら、すぐ玄関で靴を履いた。でも、鏡を見て身だしなみを整えていると、有沙の大っ嫌いな声が響いてきた。

 パパに身体を触られて喜ぶ女の人の声。音が鳴るよう、あからさまにキスをするパパの癖。


__気持ち悪い。


 有沙は、身体を押し当てるように扉を開けた。とにかく離れたくて全力で走った。こうしてイヤホンで耳を塞いでも、脳裏に焼きつかれたように忘れられないあの甘ったるい音が聞こえてくる。


 耳がなければ聞かなくていいのに。

 目がなければ、あの人たちが身体を重ねるところを見なくて済んだのに。


__プップー!!


 車が鳴らしたクラクションの音で、現実世界に戻ってこれた。音のする右方向を見ると、有沙はいつの間にか十字路の真ん中に立いた。


 このまま轢かれてしまえば、もう__。


 そんなことを頭の中に巡らせていると、誰かが有沙の腕をひいてくれた。その勢いに身を任せると、その人の胸の中に飛び込んだ。

 2つの意味で、ドキドキした。

 有沙を強く抱きしめてくれたこの人の匂いは、有沙がよく知っている。いつもあの事務室に入ると匂ってくる、落ち着く匂い。


(リツさんだ)


 顔を見なくてもわかった。もう少しこの匂いに包まれていたかったけど、リツさんは有沙の肩をもってゆっくり距離をとった。


「馬鹿!!」


 いつもの優しい顔がなかった。すっごく怒っていて、ちょっとだけ怖かった。


「道路は飛び出すな! イヤホンしながら走るのもやめろ! 何回呼んだって返事もしないから、凄い心配した!」


 有沙が夢中になっている時、リツさんは声をかけてくれてたんだ。それにも気づかなかった。それに、完璧に変装したつもりだったのにどうして有沙だってわかったんだろう。


「もう二度とこんなことするな!」


 今の有沙は、感情がぐちゃぐちゃになっていた。

 あの家にいたくなくて苦しかった。車に轢かれそうになった時、本当は怖かった。怖すぎて、身体全身が硬直した。でもリツさんが有沙のために怒鳴ってくれたことが嬉しい。リツさんが有沙に気づいてくれたことも嬉しい。リツさんを見ると安心できる。

 あれ、感情が整理できない。有沙は今どんな気持ちなの? 嬉しいのか、怖いのか、苦しいのか……。


「っ」


 涙を流した。もう何も考えられなくて、ただリツさんの胸に思いっきり飛び込んで泣いた。近所迷惑にならないように、頑張って声を出さないように泣いた。その間、リツさんは有沙を抱きしめてくれた。優しく背中をさすってくれて、その優しさが染みてもっと涙が止まらなかった。


 パパは毎回違う女の人をつれてくる。ママは月に1回帰ってくればいいくらい、男の人とホテルで夜を過ごす。

 身体の関係ってそんなにいいものなのかなぁ。

 有沙を放ってまで夢中になれるものなのかなぁ。

 有沙もそういう相手をつくれば、この寂しい気持ちを消せたのかなぁ。


 こんなこと考える自分が大っ嫌いなのに、弱音ばっかり出てくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る