第58話 無知な私
♦♢♦♢
家に帰ると、空がおばあちゃんと一緒にリビングでテレビを見ていた。今日、うちに来るなんて聞いていなかったからびっくりした。
「おかえりなさーい。ななちゃん」
「お姉ちゃん! おかえり! フェスどうだった?」
おばあちゃんのそばにいてくれていた空はフェスに行けなかった。でも楽しかったことを伝えると嬉しそうに笑ってくれた。
「言ってくれたらもっと早く帰ったのに……」
「驚かせたかったのよ」
おばあちゃんは弱弱しい声だった。また、大切な人がいなくなりそうだった。
お風呂からでた後、リビングに行った。するとおばあちゃんがドライヤーの準備をしてくれていて、私の頭を乾かしてくれた。優しい手つきで、ほっこりした。
私は自分の部屋に閉じこもった。ベッドに飛び込んで、枕を抱きしめた。
【からかった相手が俺でよかったね。
もし俺じゃなかったら、このまま押し倒されてたかもよ】
私の左頬に触れたあの人の手は、震えていなかった。嘘でも冗談でもなくて、本気で忠告してきた証拠。
顔を近づけられた時、本当に襲われるかと思った。心の中では突き放さないといけないと思っていたのに、身体は抵抗しなかった。私は、あの人に呑まれたんだ。
「……っ、馬鹿じゃないの」
枕を強く抱きしめると、誰かが部屋をノックした。おばあちゃんだった。中に入っていいと言うと、電気をつけて、私のベッドに腰をかけた。
「悩み事があるなら、おばあちゃんに言うんだよ?」
「急にどうしたの?」
「ななちゃんの弱音だけでも聞いてあげたいの」
優しい声が胸に突き刺さる。自分は何もできないからせめて話を聞いてあげたい、と遠まわしに言われているようだった。両親のいない私には、弱音を履ける相手がいないと思ってるんだ。
……今までの日々を振り返ると、おばあちゃんに聞きたいことがあった。
「おばあちゃんって、どうしておじいちゃんと結婚したの?」
私が両親に聞けなかったことを、おばあちゃんに聞いた。今までこういう話に興味がなかったから聞かなかったけど、今はどうしても聞きたかった。これもあの人が原因だ__中村律貴。あの人がいつまでも未練たらたらだから、気になってしまった。
おばあちゃんはドライヤーを止めると、口を開けた。
「家族になりたいと思ったからよ」
「それって、恋愛感情はない?」
「あった。でも、いつからかもう恋愛感情はなかったわ」
じゃあどうして離れないの。
「でも結婚は恋愛がすべてじゃない。結婚と恋愛は別物よ」
おばあちゃんは寝転がっている私の頭を撫でた。
その後のことは覚えていないから、寝てしまったんだと思う。朝起きたらおばあちゃんはもういなかった。リビングにある机を見ると、私と空の朝ごはんが置いてあった。その近くには手紙が置いてあって、中身を開くと私宛だった。
”ななちゃんにも、この人となら限られた一生を共にしてもいいと思える時がくるわ。おばあちゃんは応援してるからね!”
私みたいな生意気に、そんな人が現れてくれるかどうか。でもおばあちゃんが言うなら信じたい。
空に帰りの時間を伝えてから外に出ると、日差しで眩しかった。事務所に行くと、有沙と静音は既にレッスン着に着替えていた。
「おはよ~う!」
「おはようございます」
「おはよう。やけに早いのね」
いつもなら私が一番なのに。
「遥夏ちゃんとのコラボ撮影を成功させるために、有沙は今日からダイエットをしま~す!」
「私も同じ考えで、今日早く来たんです!」
そんなことしなくたって、出てるところはしっかり出てるし、ひっこめるところはひっこんでいる。ダイエットしたって身体に毒じゃないかしら。
「有沙、昨日の焼き肉でお腹出ちゃったんだよね~」
「私もです。今日からランニングしまくりましょう」
「体調に気をつけてよ?」
二人は元気よく返事をして、早速走りに向かった。私はダイエットをする気はないから、大ちゃんから今日の練習メニューを渡されるまで待っていた。しばらくするとドアをノックする音が聞こえたから大ちゃんが来たんだと思った。でも違う人だった。
「秋?」
秋は何も言わず、ただ私の隣席に座った。
「フェス、お疲れ様」
「……ありがとう」
秋はそれを言うためだけに来たわけじゃない。この真剣な顔はまた告白の話でもしそうだった。その話じゃないといいなと思っていたけど、私の予想はあたってしまった。あのさ、と秋は話を切り出す。
「俺、七瀬のこと諦められない。今はアイドルやってるから俺とのことなんて考えられないと思うけど、アイドルを卒業した時には俺とのこと考えてくれないか?」
そんなに、私の何がいいの。限られた一生を私と歩んだら後悔するかもよ。って、言いたい。
「先のことはわからないから、考えさせて」
秋は期待を募らせて嬉しそうな顔をし、ありがとう、と言った。すると、またドアをノックする音が聞こえた。今度こそ大ちゃんだと思ったら、また別の人。
今、一番顔を合わせるのが気まずい人が来た。秋と話している姿を見ると気まずそうにドアをしめて部屋から出て行った。
「もう戻る」
秋が出て行くと、代わってあの人が入って来た。静かにドアを閉めて、首を触りながらこっちに近づいた。
「来ないで」
近づかないでほしかった。もし昨日みたいに触られたら、冗談でも私はまた抵抗しない気がする。それが怖いから近づいてほしくない。彼が私に何もしないってわかっていても嫌だった。
「昨日はごめん」
私と距離をとって深く頭を下げた。
「からかわれるのが嫌だったんだと、思う……」
自分の気持ちなのに曖昧なことを言う。
「とにかくごめん。もうあんなこと絶対しない」
この場合、私はどうするべきだろう。なんて言えば正解なの。わからなかった。そんな私を見て怒っていると思ったのか、「気にしてる?」とおそるおそる聞いてきた。
男性とあの距離で話したのは初めてだったから、気にしないわけない。この人は好きでも無い女の肌に触れることができるんだと知った瞬間だったのに、忘れるわけもなかった。ただ私も悪い。自分があんなことを言うと思っていなかったけど、からかって怒らせたのは事実。
「私も悪かったから、ごめんなさい」
素直に謝ったことに驚いたのか、この人は口をポカンとあけていた。とても間抜け面だった。
「忠告のためとはいえ、どうして私の肌に触れたの?」
何も考えていなかった、とでも言いたいような顔をする。誰にでもああいうことができるのかしら。もしあの時、あの場にいたのが有沙だったら、有沙から襲われに行っていたかもしれない。あの子だったらやりかねない。私だったらその危険がないから?
「ごめん。俺もわからない。でも誰にでもするわけじゃないよ」
ああ、本当に何も考えていなかったんだ。
あの行動は私だからできること、なんだ。この人は私のことをどう思っているんだろう。
「わからない人。もうこの話はやめましょ」
「……うん。レッスン頑張って」
部屋を出て行くと、私はまた一人になった。
♦♢♦♢
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