第52話 俺は空気か

 遥夏の楽屋に行くと、この中に入ることを躊躇していた俺のことはお構いなしに、有沙さんはノックをした。はい、と遥夏の返事が聞こえると、有沙さんはすぐにドアを開いた。


「遥夏ちゃーん!」


 有沙さんは靴を脱いで敷居に上がり、遥夏に抱きつきに行った。

 ここは一人部屋用でも、4人くらいは余裕で過ごせそうだ。畳が敷いてあるから靴を脱いであがる必要がある。遥夏はちゃぶ台をつかって読書をしていた。一人でいる時まで正座をしているのは珍しい。俺たちが来る前にも誰か来ていたんだと思う。


「遥夏さんしかいないんですね」


 その言葉にハッとした。いつも遥夏の後ろにいる板橋さんは大智さんと一緒に会場の準備でもしてるんだな。


「有沙。苦しいから」


 遥夏は暑苦しそうだったけど、嫌そうじゃなかった。遥夏は視線を俺たちに向けた。俺がいることに気づくと、すぐに視線をそらした。


「有沙たち、まだ遥夏ちゃんに挨拶してないなぁと思って来たんだ~」

「そうだったのね。明日はよろしく、楽しみにしてるから」

「うん! 見ててね~」


 ずっと遥夏にくっついている有沙さんを見て、静音さんは羨ましそうな顔をしていた。まるで、自分も遥夏にくっつきたいという顔だった。七瀬さんも遥夏み憧れているって聞いたけど、全然いつもと変わらない涼しげな顔だ。


「あ、あの、UnClearのリーダーをしています。伊草静音です。宜しくお願いします」

「パーティの時に挨拶したよね。よろしく、静音さん」

「は、はいいい!」


 名前を呼ばれてすごい嬉しそうだった。

 でも遥夏は、七瀬さんに思いもよらないことを言った。


「あら。パーティの時、彼のスーツを羽織っていた子じゃない」


 彼、とは俺のことだろう。遥夏のその目は敵でも見ているかのようだった。挑発している口調で、それに気づいた七瀬さんは顔をこわばらせた。


「青葉七瀬です。名前は教えたはずですけど、お忘れですか?」

「ううん、よく覚えてる」


 この部屋に雷落ちそう。

 静音さんは不安な顔をしていた。有沙さんは楽しんでいるのかと思ったら、有沙さんまで不安な顔をしていて珍しかった。それを察知した遥夏は話題を切り替えて、俺たちをこの部屋から出させようとした。


「午後のリハーサルも頑張ろうね」

「は、はい! 頑張りましょう! お時間いただきありがとうございました。有沙、はやく靴を履いてください」


 静音さんは遥夏の機嫌が悪いのではないかと考えたのか、すぐにこの部屋から出ようとした。はーい、と素直に言うことを聞いた有沙さんは、だらだらと靴を履き始めた。

 みんな遥夏の機嫌が悪いと思っているけど俺にはそう見えない。ずっと笑顔のない遥夏だけど、機嫌が悪い時はもっと早く顔に出ているはずだ。

 多分、いやきっと、遥夏は……。


「さっきから、スタッフのこの人には挨拶しないんですね」


 七瀬さんは俺の話をしだした。すると遥夏は俺のことを空気のように扱っていた。


「ああ、忘れてた。明日までよろしくね、スタッフ君」


 スタッフ君か。スタッフさんじゃないんだ。


「よろしく、お願いします」


 仕事上でも、年齢でも、どちらにしろ遥夏は俺よりも年上だ。1つ先に生まれただけの遥夏だけど先輩にあたる。だから敬語を使った。

 4人でこの部屋を出て行くと、静音さんは大きなため息をもらした。


「七瀬、さっき怒ってましたね?」

「別に怒ってない」

「怒ってたねー」

「怒ってない。しつこい」


 3人の後ろをとぼとぼと歩いていると、落ち込んでいる俺に気づいた静音さんが隣を歩いてくれた。


「大丈夫ですか?」

「……大丈夫だよ。ありがとう」

「一つ聞きたいことがあります」

「ん?」

「遥夏さんは、リツ君の正体を知っているのでしょうか……。スタッフに対して”忘れてた”なんて言わないと思うんですよね」


 静音さんも、鈍感に見えてこういう時は鋭いな。俺を信じてくれている静音さんになら言ってもいいと思い、知ってるよ、と伝えた。そうですか、と返事がくるとそれ以上遥夏の話はしなかった。

 午後のリハーサルが始まる時間になると、5つのアイドルグループはみんな会場に向かった。その中でも俺以外、アイドルに付き添うスタッフはいなかったから気まずかった。少し下がって後ろを歩くと安心した。大人数によるハーレムは慣れない。


「わざと?」


 隣を見ると、遥夏が歩いていた。俺はいつの間にか遥夏の隣を歩いていたんだ。え、どうしよう、さっきからの今だと気まずい。


「い、いや、わざとじゃ、ない」


 みんなと少しだけ距離をとって、二人で並んだ。


「足のしびれ、とれてよかったね」

「……なんのこと?」

「さっき楽屋で正座してたじゃん。そのせいで足がしびれたけど、俺たちがいたから足を崩せなかった。だからはやく俺たちを外に出そうとした。違う?」


 多分あたっている。七瀬さんに対する敵意を向けた態度に関しては理解できないけど、不機嫌そうな顔をしてたのはきっと別の理由だ。考えられるとすると、遥夏のことだから体調面のことになる。


「さぁ、どうでしょう」


 遥夏は少し早めに歩いて俺の隣から離れた。その背中は輝かしくて、支えてあげたくなった。


「っ」


 大好きな彼女の背中は、2年前よりも大きく見える。

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