第5話 既視感に怯える
いつものように事務作業に取り組んでいると、大智さんがやってきた。
「リツ! 悪いんだけど、あいつらにこの練習メニュー渡してほしい。レッスン室にいるはずだ」
「は、はい」
めっちゃ嫌だ。
あいつら、というのはアンクリの子たちのことだろう。七瀬さんに俺が中村律貴だということがバレてしまった。これからどういう顔で会えばいいのか分からない。
あ、そもそもこのカツラのせいで目元が上手く隠れているんだった。でも目が合うと思うと怖いなぁ。
そうこう考えているうちにレッスン室の前についてしまった。ドアを開けるか開けないか迷っていた時に、ドアノブが動いた。
ガチャッ__
「あっ」
一番空いたくなかった七瀬さんと対面した。
俺のことを睨みつけるなり、「どいて」低い声で投げられる。
「あ、はい……」
2個下の女の子に頭へこへこ下げちゃう俺ってダサすぎる。
下を向いていると、横から有沙さんがやってきた。電話をしていたのか、スマホを耳から離してポケットにしまう。
「リツさんだ~。どうしたの?」
「大智さんから、練習メニューを預かりました」
「ありがとう~」
練習メニューを見ながらレッスン室に入っていった。
「あれ? ななちゃんもいないじゃんー。暇だから話そう? リツさん」
「は、はぁ。静音さんはどこへ?」
「しずちゃんはまだ学校にいるよ~。今こっちに向かってるみたい」
「そういえば高校生でしたっけ」
「うん。高校2年生~」
俺が高校2年生の時、一番濃い出来事が起きすぎたな。遥夏と毎日のように学校で話していた記憶がある。みんなにばれないように、隙があれば一緒に帰った。
そして、あのデマ報道が流れた年でもある。
「リツさんって大学1年生だよね。大学って楽しい?」
「あ、ああ、それなりに」
「いいなぁ。有沙もアイドルやめて進学しようかな~」
「アイドル続ければいいのに。似合ってますよ」
有沙さんは俺の一言に黙り込んだ。まずいことを言ってしまったかもしれない。
「そうかなぁ……」
気まずくなっていると、誰かがレッスン室に入ってきた。
「遅れてごめんなさい。あれ、リツ君もいたんですね」
「こんにちは。静音さん」
「こんにちは。二人で何してたんですか?」
「将来の話~!」
「ああ、来年で最後の高校生活ですからね」
静音さんは、有沙さんたちと同い年のはずなのにどうして敬語を使うんだろう。敬語のほうが楽なのかな、それにしても少し距離を感じる。
「有沙はどうするんですか? お父さんから会社の跡取りをしろって言われてたり」
「言われるけどしないよ。だって私アイドルやってるもん」
「では、一生アイドル仕事で生きていくつもりですか」
「モデルのお仕事もきてるもーん」
そうか。
アイドルといっても、ただライブをするだけじゃない。モデルとしても自分を売り出す術はあるんだ。
ていうか、アンクリってラジオ番組もやってたよな。そんなに人気のある芸能人の近くで仕事できてる俺って凄い?
呑気にしていると、冷たい声に背筋が凍った。
「貴方、まだいたの?」
おそるおそる後ろを向くと、腕を組んで、俺を蔑むような顔で俺を見ていた。
俺はこの目を知っている。
一瞬、七瀬さんが俺の母さんに見えて硬直した。あんなに甘えていた相手に蔑まれた時の絶望感を身に染みた。
「……っ、すみ、ません」
急いでレッスン室を出た。
いつもの仕事場に向かおうとしたけど、やめた。
いつもなら絶対に通らない反対の廊下をゆっくり歩いていると、人気のなさそうな非常口を見つけて、扉を開け足を踏み入れた。
上の階や下の階に繋がる階段があったから、下の階に繋がる階段に、地べたに腰かけた。
【あんたなんか産まなければよかったわ】
ゆっくり耳を塞ぐ。
母さんに言われたことを思い出した。
「……はぁ」
落ち着け、落ち着け。
俺は悪いことをしていない、と思う。アイドル相手に恋をしたことは悪いと思っているけど、あんな報道、真実ではない。
俺はただ、遥夏と恋人同士になってから1年が経ったから、その記念日として彼女の家でお泊りしただけだ。
大丈夫。大丈夫。
心を落ち着けていると、扉をノックするように俺の後頭部に触れた人がいた。
「私よ」
また、今一番会いたくない人だった。
どうして七瀬さんがここにいるんだ。
また俺のことを、両親と同じような目で見に来たのかと思っていた。でも今はそんなことなくて、普段の落ち着いた瞳だった。
「私を見るたびに怯えるのやめてくれない? 静音と有沙に、私が貴方に何かしてるって怒られた」
そう言われても。
「はぁ。私は、貴方が中村律貴だってことをあの二人に言うつもりはない」
「え? どうして?」
「貴方と何かあったって勘ぐられるのが面倒だからよ」
「……そ、そうですか」
肩の荷が下りた。
「だからいつも通りにしてて」
「は、はい……」
「……ねぇ、貴方、本当に中村律貴であってる?」
「そ、そうですけど、どうして……」
七瀬さんに視線を向けると、もうレッスン室に戻ろうとしていたのか非常口のドアノブに手をかけていた。
振り返って俺のほうを見ると、口を開けた。
「アイドルに強要した割には、臆病な犬みたいだから」
ガチャッ__バタン
誰もいなくなると、俺はまた一人になった。
臆病な犬、か。
遥夏にも言われたことがある。あれは確か、学校内で昼食をとっている時だ。いつものように屋上のドアの前で約束をして、二人で話していた時に言われた。
「どうして海外派遣に参加しないの? 先生から推薦受けることってそんなにないよ」
「俺には無理だよ。英語の成績がいいだけで話せるわけじゃない。それに、迷子になったり、周りに置いて行かれるの怖いし」
「臆病なわんこ君」
「また変なニックネームつける……」
「あははっ。あってるでしょ」
そうだ。
臆病なわんこ君って、変な名前をつけられたんだ。
「……ははっ」
誰もいない非常階段に、俺の吐き捨てた笑いが響いた。
戻りたいなあ、あの頃に。
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