僕には姉がいた

津多 時ロウ

僕には姉がいた

「姉さん。今日泊まるところなんだけど、300年前からやっている古い温泉旅館で、最近は映画のモチーフになったとかで大人気なんだって」


 11月の或る日、僕は姉と二人で電車に乗っていた。上野駅を10時ちょうどに出発する新特急草津1号。高崎線からそのまま吾妻線へと入り、終点の長野原草津口駅まで乗り換えなしで行ける便利な電車だ。僕たちの目指すお宿は終点の一駅手前、中之条駅で下車し、今度は路線バスに乗ることとなる。

 電車とバスの移動だけで約180分と長い道のりだったが、僕は大好きな姉と一緒に旅に出られる喜びに浮かれていたのだ。


「あ、姉さん、見て見て。右手に赤城山が見えてきたよ。それで反対は榛名山だって。あと、ここからは見えないけど、妙義山と合わせて上毛三山って呼ばれてて、地元の学校じゃ運動会の組み分けに使われるらしいよ」


 僕には姉がいた。


 そう、あのときまでは。



* * *



「初めまして。あなたが依頼主さんかな?黒沼くろぬま探偵事務所所長の黒沼くろぬま八幸はつきです。こちら名刺ね。俺のことは、まー、気軽にくろさんとでも呼んで。ところで今回の依頼の内容だけど、急に姿を消したお姉さんの捜索ということで……」


 すっかり夜のとばりが降りた時間、四万しま温泉の伝統ある旅館”積雲館せきうんかん”の一室で、僕はスーツ姿の男性と向き合っていた。


 ――黒沼八幸。ロマンスグレーの横分けの髪を整髪料できっちりと固め、白地に黒のピンストライプの上下、それから黒のワイシャツに臙脂えんじ色のネクタイを締めた、理知的な顔と引き締まった体、いわゆるイケオジと分類されるであろうこの50代半ばの男性は、警視庁を5年前に退職し、わざわざ故郷の群馬県で探偵事務所を営んでいる変わり者だ。

 とは言え、現役中にいくつもの難事件を担当してきた経験から、警察からの協力要請も多く、既に犯人逮捕が絶望的と思われていたいくつかの事件を群馬県警と共に解決しているのだという。


「はい。お願いします。姉さんを探してください。お願いします。お願いします。あの、その、僕が温泉から戻ってきたら姉がいなくなっていて、しばらく旅館の中を探したり、あ、仲居さんとかにも聞いたんですけど、『今の時間に外へ行く人は見ていない』って言われちゃって、それでそれで……」


「まあ、まあ、落ち着いて、落ち着いて」


 慌てている僕を落ち着かせるためか、黒沼は先ほどよりものんびりと話し始める。


「ではー、まず、もう一度あなたのお名前、それから姿を消したお姉さんのお名前と見た目の特徴から教えていただこうかな?」


「え、あ、特徴ですね。えーっと……、身長は僕より低くて155センチくらい。髪の毛の色は黒で背中まで伸びています。少し痩せ型かも知れません。それから名前は――」



 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 僕は8歳のときに突然の交通事故で家族を失った。その後は優しい叔父夫婦に引き取られ、自室まで与えられて育ててくれたが、学校で心無いクラスメイトにいじめられては、悔しくて、情けなくて部屋で泣いたものだった。そのときから姉はよく僕を慰め、勇気づけてくれたのだ。


 中学校を卒業した僕は姉と一緒に叔父夫婦の家から出て、アルバイトをしながら定時制高校に通い始めた。


 知っていたのだ。

 叔父夫婦はどこまでも僕に愛情を注いでくれ、それがたまらなくありがたいことだったのだが、しかし、お金のやりくりに苦労していたことを。早くこの人たちの恩に報いたい、その一心で一生懸命に働き、一生懸命に勉強したし、姉もそれを応援してくれていた。


 その甲斐あって某財団の奨学金を貰いながら、来年の春からは晴れて都内の私立大学に通わせてもらえることになったのだ。

 だが、奨学金の条件がその財団の寮で寝泊まりしながら寮の運営を手伝うことだったので、姉と長く別れることになる前に僕が旅行に誘ったのだ。寮に住むことによる経済的メリットは計り知れないものがあるが、例え一時的でも、姉と別れると考えただけでも胸が張り裂けそうだった。何より、周囲にはとても打ち明けられないが、年の離れた姉に恋心をいだいていたというのもある。

 かくして姉は僕の提案を快諾し、特急、バスと乗り継ぎ、積雲館の風情を愛でつつ日頃の疲れを癒していたところで、姉もとても楽しそうにしていたのだ。

 それなのにどうして……


「はい。では、今回の事件について俺の考えを話すよ」


「あ、はい。もう何か分かったことがあるんですね」


「そうだね。まず、これからとてもショッキングな事実を君に伝えなければならない。心の準備は良いかな?」


 僕はその言葉を聞いて途端に目の前が暗くなり、次いで息苦しくなってきた。駄目だ、落ち着け、落ち着け、落ち着け。そう思いながら何度か深く呼吸をする。

 その様子をみた黒沼が心配そうに僕を覗き込みながら話を続けた。


「うん、その様子だと大丈夫そうだ。その前にいくつかお姉さんについて簡単な質問に答えてもらうよ」


 簡単な、という単語に安心したのかは分からないが、落ち着いてきた。これなら問題ないだろう。


「あ、はい」


「良い返事だ」


 不思議なことに黒沼と話していると少し冷静になれる。そのような話術の訓練でも受けているのだろうか。


「どんどん聞くからどんどん答えてね。お姉さんは何歳?」


「……8つ離れているから26歳です」


「お姉さんは仕事してる?」


「いいえ」


「君が子供の頃、お姉さんはどこか学校に通ってた?」


「いいえ」


「お姉さんは自分の部屋を持ってた?」


「いいえ」


 あれ?


「お姉さんが誰かと話していたのを見聞きしたことはある?」

「いいえ」

「お姉さんから自分の話をしてきたことは?」

「いいえ」

「一人で部屋を出入りしているのを見たことは?」

「いいえ」

「飲み食いしているところを見たことは?」

「……いいえ」


 なんだこれ、なんだよこれ!これじゃまるで……。


「ばったり外で会ったことは?」

「ない……です」

「では、最後の質問だ。君はこの旅館にチェックインするとき、宿泊者名簿にお姉さんの名前を書いたかい?」


「……書いた……と思います」


「そうか。ありがとう。でも最後の返事は間違っているな」


「ど、どうして知ってるんですか?」


「なに、電話で聞いた君の名前に覚えがあってね、依頼のことを話して、チェックインの時にフロントにいたフロントマネージャーに聞いてみたのさ。そしたら一人分の名前しか書いていなかったと覚えていた、というわけなのさ」


「つまり、どういうことですか?」



「……君のお姉さんは既に亡くなっている」



「嘘だ!嘘だ!だって、ここまで一緒に来たんだ!姉さん、とても楽しみにしてたんだぞ!さっきまで一緒にいたんだ!それなのにどうして亡くなってるって……。さてはお前が殺したんだな!お前が姉さんを!」


「……まぁ、落ち着きなさいって」


 激昂して黒沼に掴みかかったはずの僕は、音もなく投げられ、いつの間にかその男の顔を逆さまに見ていた。男は、そのままの姿勢で少し遠くを見るような目つきで話し始めた。


「何から説明したものかねえ……。俺は昔、警視庁にいてな、10年前の一度だけ、たまたま近くに居合わせた交通事故の捜査に協力したことがあった。……あれはひどい事故だったよ。信号で停車中のトラックの後ろにいた普通乗用車が、さらに後ろから来たトラックに追突されて中にいた家族4人諸共もろともぐしゃぐしゃに潰されてしまった。奇跡的に男の子が一人、無傷で救出されたが、……いや、詳細はもういいか。ともかく、交通事故の捜査に駆り出されたのはあの一度きりだったから、よく覚えていたよ。電話では確信が持てなかったが、フロントでの聞き込みと、こうして君とじかに話してみて確信が持てた。……君はあのときの唯一助かった男の子で、君のお姉さんは不幸にも10年前の事故で命を落としている。そして君は、お姉さんの死をどうしても認めたくなかったが、心のどこかでは認めている。違うかい?」


「……うぅ……、ぅぁぁぁぁ」


 そんなこと、僕にも分かっていたはずだった。でもこうして誰かに指摘されるまで、ずっと、ずっと、ずーっと自分の心を騙してきた。そうしないと壊れてしまいそうだったから。


「……そんなこと、そんなこと僕だって分かってますよ。でも、しょうがないんです。ぅぅ……。僕から家族を、姉を、取らないで下さい。取らないで下さいよ……。ぅぅぅぅぅ……」


 黒沼は泣き方も分からずに呻く僕をそっと起こして座椅子に座らせ、しゃがみこんで視線の高さを合わせてこう言った。


「でもな、俺は思うんだよ。本当はお姉さんは生きていて、君が独り立ち出来るようになるまで見守ってくれていたんじゃないか、って。そして、宿泊者名簿に自分の名前だけ書いた君を見て安心したんじゃないか、もう一人で生きていけるって思ったんじゃないか、ってな」


「うあああああ、姉さん、姉さん。ありがとう、ありがとう、ありがとう……」


 泣いた。久しぶりに声を出して泣いた。



「じゃ、俺はそろそろ帰るわ。この素敵な積雲館を堪能するんだぜ?」


「……グスン。あ?え?ちょっと待って下さいね。今、依頼料をお支払いしますから。おいくらになりますか?」


「いらねーよ。おじちゃん、君が立派な青年に育ってくれて感動したからな。サービスだ」


「あ、でも……」


「デモは結構。その代わり、なんか変なことに巻き込まれたらおじちゃんに相談しろよ?待ってるぜ!」


 この日、僕は人生で2度目の恋をした。1度目とは違う、誰憚だれはばかることのない人生のしるべに。



 ありがとう。大好きだったよ、姉さん。

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