垂涎の鐘
伊藤充季
垂涎の鐘
二〇一八年一〇月二十一日、とあるニュースが世界中を駆け巡った。
一九世紀に行方不明になっていた、アメリカの神話の象徴のひとつともいえる岩、プリマスロックが大西洋の底で見つかったのである。アメリカ政府や愛国者たちはもろ手を挙げて大喜びし、ヒートアップしたすえ、一〇月二十一日はアメリカの新しい国民の祝日になった。引き上げられたプリマスロックは、無事にもともとあったマサチューセッツ州プリマスの海岸へと戻され、今では年間に数えきれないくらいの観光客がプリマスへと押し寄せ、プリマスロックを見て涙を流したり唾を吐こうとしたり触ろうとして警備員に追い返されたり、しまいには破壊しようとする者もあらわれ、プリマスの町はプリマスロックのおかげでたいへんな盛り上がりだった。
しかし、この話の本筋はそこではない。プリマスの海岸にあったはずのプリマスロックがなぜ、大西洋の底で見つかったのか? というのが、この話の本題である。それには、もう歴史からは忘れ去られてしまったパッブロフという人物が大きく関与している。はじめに断っておくと、彼は〈パブロフの犬〉の実験で有名なロシアの科学者であるパブロフとは何の関係もない他人だし、そもそもアメリカ人ですらない。この話は、パッブロフが突如としてアメリカにやってきて、プリマスロックが大西洋に沈没するまでの、短い話である。
* * *
事の始まりは一六二〇年十二月二十一日。イギリスはプリマスから、信仰の自由を求めた清教徒たちが〈メイフラワー号〉という船に乗って、新天地アメリカの土を踏んだ。彼らはのちに〈ピルグリム・ファーザーズ〉と呼ばれるようになり、彼らが降り立った場所は〈プリマス〉と呼ばれるようになる。
彼らが上陸した際、最初に踏んだといわれている岩がある。その岩こそ、のちに〈プリマスロック〉と呼ばれるようになる岩であった。
そして、〈ピルグリム・ファーザーズ〉の上陸から二百何十年もしてから、この話は始まる。
一八八二年の冬のことだった。マサチューセッツ州の海岸から少し離れた場所にあるイールという町に、ひとりの流れ者が現れた。
はじめ、その流れ者の存在に気付いたのは、カーターという四十がらみの町人であった。彼のフルネームは〈カーター・カーター〉といい、なぜ両親は自分にこのような名前を付けたのだろう? と考えながら散歩をするのが彼の日課だった。
ある日、彼が町のはずれを散歩していると、ぼろ布をまとった、見たところ十代後半か二十代前半くらいの髪の長い男が倒れていることに気づき、急いで近寄った。
「おい、あんた、大丈夫か?」
呼びかけても男は目を覚まさず、あせったカーターは、男の体を勢いよくゆすぶりながら、「おい! おい!」と何度も呼び掛けた。すると、しばらくして男の目がパチッと開き、カーターはほっとして、「なあ、あんた、どこから来たんだい?」と訊いた。
しかし、男はどこに目を向けているのかも判然とせず、おまけに返事もしないので、腹を立てたカーターはいったんその場から離れた。だが、しばらくすると男のことが気になってきて、ふたたび村のはずれまで戻ってくると、まだそこにさっきの男が座りこんでいた。カーターは半ばあきれたが、やはり心配でもあったので、とりあえず男を家に連れていくことにした。
「ほら、着いて来い」とカーターは言ったが、それでも男は応じなかったので、この男にはよっぽど大変なことがあって、ショックでこうなっているのに違いない、と思ったカーターは、男の体を抱えて、家まで運んでやった。
「どうしたの? その人!」
汚い男を担いで家に帰ってきたカーターの姿を見て、妻のサリーは仰天した。
「さっき、散歩中に見つけたんだ。どうやら彼は、言葉がしゃべれないらしい」
そう言いながらカーターは男を椅子に座らせてやり、大きく息を吐くと、自分も隣の椅子に座った。
「なにか、よっぽどショックなことがあって、こうなってしまったのかもしれん」
サリーはしばらくあっけにとられたようにカーターと男を交互に見ていたが、しばらくすると「で、どうするの?」と言った。
「そうだな、ここにおいてやったらどうだ?」
「この人を? 駄目よ、そんな――」
「生活が苦しいのはわかっているが、彼もきっとどこにも行き場がないんだろう。どこから来たのかも分からない以上、それ以外にどうすることもできないだろう」
「だからって――あなたはお人よしすぎるわ。いつも」
「そうかね?」
「僕の名前はパッブロフといいます」
いきなり男が名乗ったので、カーターもサリーも驚いた。特にカーターの驚き方はひどいもので、座っていた椅子から飛び上がり、サリーに抱きついて「なんたることだ!」と叫んだ。
度を失っているカーターとは裏腹に、サリーはすぐに落ち着きを取り戻し、抱き着いてくるカーターを体から引きはがすと、「パッブロフさん、あなたどこから来たの?」と優しく訊いた。
「僕は、いったいどこから来たんだろう。わかりません」
「年齢もわからないの?」
「すみません、わからないです」
サリーは首をかしげ、小さい声で「どういうことかしら」とつぶやいたあと、どこからかカーターの服を取り出してきて、「とりあえずこれを着て。そんなぼろ布じゃ、かわいそうだわ」と言いながら渡した。
「ありがとうございます」
パッブロフは、差し出された服をもたもたとした手つきで着た。
「パッブロフという名前は、聞いたことがないわね。どこの名前かしら」
「さあ、おれも聞いたことがないのでわからん」
ようやく我に返ったカーターが言った。
「というか、君はしゃべれたのか? 初めから」
「いや、そういうわけではないです」
「では、どういうわけだね?」
「正直に言うと、あなたたちの会話を聞きながら、この言語をたった今習得したんです」
「ばかな、なんたることだ。そんなことができるというのか?」
「できるもなにも、パッブロフさんが実際にやって見せているじゃない」
「まあ、そうか。しかし、すると君の故郷は少なくともアメリカではないようだね」
それを聞くとパッブロフは首をかしげて、「アメリカ? ここは、アメリカなのですか」と言った。
「もちろん。ここは、アメリカのマサチューセッツ州だ」
「なるほど」
パッブロフは椅子に座ったまま、うつむいて何事かを考えているような姿勢をとった。そしてそのまま何分か黙っていたので、不安になってきたカーターが声をかけようとしたそのとき、突然顔をあげて「すみません。しばらくの間、僕をここに置いてはもらえませんか?」
「まあ、おれはかまわないが――」
カーターは、サリーのほうを見た。すると、サリーも仕方がないというふうに息をつき、「わかったわ」と言った。
こうして、パッブロフはカーター家にしばらくの間泊まらせてもらうことになったのだった。
パッブロフは規則正しく生活をした。早朝、教会の鐘が鳴る前に起き、鐘が鳴ったら二人を起こして朝食をとり、正午の鐘に合わせて昼食をとり、夕方の鐘に合わせて夕食をとり、あたりがすっかり暗くなるころには眠った。
それ以外は、家で寝転んでいたり、黙ってなにか考え事にふけったりして、外出することはほとんどなかった。しかし、サリーが家事を手伝えといえば手伝うし、何か厄介ごとを引き起こすわけでもなかったので、何もない平穏な日々が過ぎていった。
ある日、パッブロフが玄関先に立ち尽くしているのを見て、カーターが「パッブロフ、どうしたんだ?」と訊いた。
「いえ、この生物はいったい?」
そう言うと、パッブロフは自分の足元を指さした。
「なに、生物だと?」
カーターがパッブロフの足元を見ると、そこには一匹の茶色い犬がいた。
「なんだ、犬じゃないか」
「犬? これが犬だって!」
いつも冷静な様子のパッブロフには珍しく、その声はひどく取り乱しているようだった。
「なんだ? そんなに珍しいものでもないだろう。君の故郷には、犬がいなかったのかね?」
パッブロフはカーターの話など聴いていないように、足元の犬を凝視していた。
そのとき、後ろからサリーがやってきて、「何をしてるの?」と二人に向かって言った。
「いや、玄関先に犬がいてな。それを見てパッブロフが固まってしまったんだ」
「あら、犬が怖いのかしら?」
「そういうわけではないのです」
「おや、大丈夫だったか、パッブロフ」
「はい、大丈夫です」
カーターはほっと胸をなでおろし、玄関先を立ち去ろうとした、しかしそのとき張りのある声で「この犬、どこかで見たわね」とサリーが言ったので、また玄関先に戻ってきた。
「なんだ、知っている犬だったかい?」
「そんな気がするんだけど」
「おれは知らんな」
「僕も知りません」
「――あっ! 思い出したわ。この犬、ブレイトンさんが飼っていた犬じゃない?」
「そういわれると見たことがあるような気がするな」
「たぶん――いや、間違いないわ」
ブレイトンさんというのは、カーター夫妻の家の隣に住んでいた七十を超える老人のことである。彼は早くに妻を亡くし、子どももいなかったので、寂しさを埋めるためか、長い間犬を飼って暮らしていた。しかし、二月ほど前に突然亡くなってしまったのだった。彼には身寄りもなかったので誰も遺体を引き取りに来ず、不憫に思ったカーター夫妻は彼の遺体を埋葬し、墓を建てた。
「そうか、ブレイトンさんの犬か」
「ええ――この子、私たちで飼わない?」
サリーが珍しく強い口調で言ったのでカーターは「えっ?」と言った。
「いや、もちろんかまわないが」
「じゃあ、そうしましょう。そして、この子が死んだときは、ブレイトンさんのお墓に埋めてやれば、ブレイトンさん、きっと喜ぶわ」
「じゃあ、この子の名前はどうする」
「そうね――」
「
突然、パッブロフが言った。
「体が茶色いから?」
「そうです」
「でも、ちょっと乱暴すぎじゃない?」
「かわいい名前じゃないですか」
「そう言われると、そうかもしれんな」
「そうかしら? まあ――ちょっとはかわいいかもしれないけど」
パッブロフは嬉しそうに、「ありがとうございます!」と言って、ブラウンのほうを向き、両手を広げて「おいで、ブラウン!」と呼びかけた。ブラウンは一瞬戸惑うようにその場で足踏みしたが、すぐにパッブロフの手の中に飛び込んでいった。
カーター夫妻は顔を見合わせ、微笑しながらその光景を見守っていた。
それから毎日、パッブロフはブラウンと遊んでいた。ブラウンはパッブロフが目を覚ますと同時に起きて、家の外から「ワン!」と小さく吠える。すると、パッブロフがこっそりと、まだ暗い早朝の野外に出ていって、ブラウンと遊び始める。そして、早朝の教会の鐘が鳴ると、パッブロフはブラウンに朝食を与え、自分は家のなかに入ってカーター夫妻と朝食をとり、素早く食べ終えると、玄関先でブラウンといつまでもじゃれているのだった。
とある日の朝、空気が冷たく、たまらず起きてしまったカーターは、玄関先でパッブロフがブラウンに朝食を与えているところを見た。これからおれたちを起こすつもりだったのかな、と思ったカーターは、パッブロフに朝の挨拶をすることにして、後ろから静かに近寄っていった。
そのとき、パッブロフが「パブロフの犬か……」とつぶやいた。
「なんだって? パッブロフの犬? ブラウンのことがそんなに気に入ったのかい?」
パッブロフは飛び上がって驚き、その驚きようを見てカーターも飛び上がるほど驚いた。
「お、おはようございます、カーターさん」
「なにも、そんなに驚くことはないだろう、パッブロフ」
「すみません。あまりにもびっくりしたもので」
パッブロフは、うつむいて額を手の甲でぬぐいながら、そう言った。
「まあ、いいさ、朝食にしようか」
「そうですね」
「どうした? いやに元気がないな」
「い、いや! そんなことはないですよ」
「そうか? それならいいのだが」
カーターは寝ぼけ眼をこすり、頭をかきながら便所へと向かった。
パッブロフはカーターのうしろ姿をじっと見た。そして、彼が便所に入ったのを確認すると、「危なかった」とつぶやいた。このつぶやきは、ブラウンを除いて誰も聞いている者はいなかった。
さらに少し経ったある日のこと、パッブロフが奇妙な行動をとり始めた。
朝から料理を大量に作り、カーターを起こして、これを早朝の教会の鐘が鳴るころに、近所の人らに配ってきてくれと頼んだのである。
カーターは眠い目をこすりながら、パッブロフが作った料理を一口食べてみた。すると、それが今までに食べたことのないほどうまい料理だったので、鼻水をたらし、涙を流し、「すごいぞ、こいつは!」と絶叫しながら一息に食べてしまった。
「なんたることだ。パッブロフ! もしかして君は、料理人だったのか? というか、こんなたくさんの食料はどこから? どこも食料に困っているというのに!」
「食料は、自前ですよ。自然の中で探せば、意外と見つかるものです――それより、カーターさん。それは近所の人に配るためのものだったのですが」
そのとき、ようやくカーターは自分が何をしたのかに気付いた。
「すまん、パッブロフ、寝起きだったもので――いや、おまえが何を企んでいるかは知らんが、こんなおいしい料理をもらってうれしくないやつはいないだろう。お詫びと言ってなんだが、あしたからおれがこの料理を配って回るよ」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
パッブロフの顔が明るく輝いた。
それを見て、カーターは微笑んだ。
翌日の朝、パッブロフに起こされたカーターは、自分の身に起こっている異変に気付いた。朝の教会の鐘が鳴ったと、口から涎(よだれ)がえんえんと出てきたのである。カーターは、もしかするとおれは死ぬんじゃないだろうか? という不安に駆られた。朝から鼻血が出続けることはたまにあるが、朝からよだれが出続ける人なんか、聞いたことも見たこともなかったからである。
しかし、しばらくすると涎は止まり、近所にパッブロフの料理を配達している間に、そのことはきれいさっぱり忘れてしまった。
パッブロフの料理は大評判だった。食料に困り、ろくな料理をあまり食べていなかった町人にとって、それは神からの捧げものだといってもよかった。
パッブロフの料理のことを考えると、口から勝手に涎が出てきてしまう、という町人が続出した。いくらおいしい料理だとは言っても、考えただけで口からよだれがでてくるというのは並大抵ではない。つまり、パッブロフの料理は文字通り垂涎もののおいしさだったのである。
ある町人が、料理にいたく感動して、カーターに訊いた。
「おい、この料理は誰が作ったんだ? サリーさんか? それとも、もしかしてあんたか?」
カーターは何と言っていいものか迷ったが、面倒なことになるのを避けるため、「サリーが作ったんだ」と言っておいた。
パッブロフは朝からたくさんの料理を作った。といってもそれは一度に町民全員にいきわたるほどの量ではなかったので、朝からカーターがそこらをうろついていると、「おい、また持ってきてくれ!」とか、「わたしも早く食べたいわ!」などとたくさんの人から声をかけられた。
料理は評判だったという報告を聞いたパッブロフは、目を輝かせて喜んだ。そして、カーターに追加で頼みごとをした。
「カーターさん。明日から料理を配るときは、こう言い添えてください『教会の朝の鐘が鳴ったら食べること。遅くても早くてもいけない』と」
「そうしたら、何かが起こるのかね?」
「料理が、もっとおいしくなるんです」
カーターは興奮した。
「そういうことならしょうがない!」
「ほんとうに、おいしいわ!」
後ろでは、サリーが夢中になって料理を食べていた。さらにその後ろでは、ブラウンも夢中になって料理を食べていた。
数日後、町民に料理がいきわたると、パッブロフはさらに不可解な行動をとり始めた。早朝からこっそり家を抜け出すと、地面に料理をばらまいたり、井戸に料理をいれたり、料理をいれた鍋を森の中に放置したりし始めたのである。しかし、人目をしのび、最大限の注意を払って行ったため、カーター夫妻にすら気付かれず、この一連の行動の目撃者はブラウンを除けば誰もいなかった。
そのころ、町民のほとんどに、共通したある一つの悩み事が発生しつつあった。
朝起きて、教会の鐘が鳴ると、涎が止まらなくなるのである。しかし、朝食を食べたり、時間が経つうちに涎は収まるので、そこまで深刻なパニックは起こらずにすんでいた。
そしてさらに数日後、ついに決定的な事件が起こった。
ある天気のいい日の、午後のことだった。カーター夫妻は二人とも家にいて、少し遅い昼食を食べているときに、パッブロフの姿がないことに気がついた。
「おや、パッブロフのやつどこに行ったんだろう? あまり外出もしないのに」
「おかしいわね。確かにさっきまでいたはずよ――」
そのときだった。
ゴォォーーン……ゴォォーーン……ゴォォーーン
サリーの言葉をさえぎって、突然教会の鐘が鳴りだした。
「なんだ、こんな時間に。いったい、誰が鳴らしてやがるんだ?」
「おかしいわね」
ゴォォォーーン……ゴォォォォォーーン……
「なんだか、へたくそな奴が鳴らしてるらしいな。音もリズムもめちゃくちゃだ。なあ、サリー」
そう言いながらサリーの顔を見て、カーターはぎょっとした。
「あら、何か顔についてるかしら、失礼ね――」
そう言いながらカーターの顔を見たサリーもぎょっとした。
お互い、口から滝のように涎が出ていたのである。
「なんだこれは!」
「どうなってるの!」
二人は急いでドアを開け、外に出てみた。
すると、そこで信じられない光景を見た。
町中の家という家から、涎があふれ出てきているのである。
その光景を夫妻はぽかんとした顔で見ていた。近くの家に住む夫婦が、こちらに走り寄ってきて、「おい! どうなってるんだ! ごぼっ――だ、よ、涎が――ごぼっ、と、止まらん!」と言った。
口からあまりにも涎が出るので、まともにしゃべれないのだ。
「ごぼ――おれも、止まらん!」
カーターが必死に答えた。
そうしている間にも、町の中は涎まみれになっていった。
気付けば、井戸からも涎があふれていて、地面からもじわじわと涎がにじみ出てきていた。人間に限らず、そこら中の生き物はみんな口からよだれを垂れ流していた。
(ばかな! なんたることだ! 井戸や地面が涎を出すなんてそんなことは、聞いたこともない!)
まともにしゃべることができないので、カーターは頭の中で考え事をしていた。
(どうしてこんなことに? もしかして、あの鐘の音のせいか? いや、ばかな。信じられん)
(というか、パッブロフは何をしているんだ? やつは無事なのか?)
「ごぼ――パッブロ、フは――ぶ、無事かしら」
サリーがそう言ったので、カーターは返答しようとしたが、涎の出方が一層激しくなってきて、かろうじて「わからん!」と言うことしかできなかった。
ゴォォォォォォーーン……ゴォォォォォオーーーン!
町の中が涎にあふれて、まるで涎の海のようになっていった。町民は涎に飲まれて、流されたり、また戻ってきたりした。カーターは流れていくブラウンを見つけて、涎の中を泳いでいってブラウンを両手でつかんで抱き上げた。すると、ブラウンの口からも信じられない量の涎が出ているのであった。
その光景を、教会の鐘を鳴らしながらパッブロフは見ていた。
「これでよし」
そうつぶやいて、パッブロフはなおも鐘を鳴らし続けた。
涎の海は町の中で渦を巻いたり、強い流れになったりして、そして町の外へと流れていった。東西南北へと流れていった涎の海は、たくさんの町を飲み込み、人も動物も虫もなんでも構わずに押し流していった。だが、死者が出たという記録はどこにも残されていない。
流れていくうちに、涎の海は様々なものを飲み込んでいって、黒くなったり白くなったり茶色くなったり青くなったり黄色くなったりした。涎の海が流れてくるのを見た人々は「世界の終わりだ!」と叫び、犬は「ワン!」と吠えて、そして一散に逃げ出していった。
涎はあらゆるものを飲み込んだ。
人も、動物も、建物も、岩も、食料も、森も、畑も、家畜も、家具も、玩具も、酒も、本も、絵画も、お金も、空気も、聖書も。そして、プリマスロックも。
結局のところ、大した被害は出なかった。人的被害はほとんどなかったし、丈夫な建物の中で眠っていた人は、このような事件があったということにすら気がつかなかったほどだった。
しかし、ひとつだけ例外があった。
プリマスロックである。
プリマスロックがなくなったことに、プリマスの住民たちはすぐに気がついた。そしてこれまたすぐに捜索を始めたが、どれだけ探してもとうとう見つからなかった。
誰かが捜索をしながら、「もしかしてあの涎に飲み込まれて、海に流されたんじゃないか?」と言った。だが、隣で捜索をしていた人が、「そんなはずあるか! あれは勢いも弱くて、結局何も流されなかったじゃないか。きっと誰かが盗んでいったんだ」と言ったので、「そうか」と納得した。
しかし、結論から言うと、この時すでにプリマスロックは涎の海に押し流され、大西洋に沈没していたのだ。
これが事の真相である。
アメリカ西海岸の広い地域に涎の海は到達し、海が完全にひいてしまうには長い時間がかかるだろうと思われたが、どういうわけか、涎の海は数日するときれいにどこかへ消えてしまった。そして、その後一週間もするとイールの町は落ち着きを取り戻した。だが、パッブロフは依然として行方がわからず、カーター夫妻は一生懸命に彼のことを探したが、とうとう見つからなかった。その様子を見ながら、ブラウンが「クーン」と悲しそうに鳴いた。
その後、犬のブラウンは一八九〇年に夫妻に見守られながら息を引き取り、ブレイトンさんの墓に埋葬された。ブラウンの死後、夫妻は何年かボストンで暮らしたこともあったが、数年後にはイールに戻ってきて家を建て、最期までそこで過ごした。そして、カーターとサリーは一九二〇年に相次いで息を引き取り、イールの土の下に入った。夫妻は子どもをもたず、パッブロフのことを誰にも話すことはなかった。
そして一九八九年には、涎の海が発生したときイールに住んでいて、当時まだ三歳だったエイミー・ストウが一一〇歳で息を引き取り、当時イールに住んでいた人はみんなこの世から去ってしまった。
現在ではパッブロフに関する資料はもちろん、口承もなにも残っていない。
* * *
一八八二年の冬、マサチューセッツ州イールの町を起点にして発生した涎の海は、道路や川を介して、広い範囲に到達した。信じられない話だが、北はニューハンプシャー州ロチェスター、西はコネチカット州ポムフレット、南はロードアイランド州リトルコンプトン、そして東はマサチューセッツ州プリマスにまで到達したという記録が残っている。
涎の海の記録は、到達点にあたるそれぞれの町に石碑が建てられ保存されたが、その後アメリカが発達し、二回の世界大戦を経るうちに風化し、現在では覚えているものはほとんどいない。そして何よりも、この話が忘れ去られた理由は、非科学的であるということと、あまりにもばからしいというこの二つの理由に尽きるだろう。
現在でも、この四つの町や市に行くと、涎の海が到達した地点に建てられた石碑の跡を見ることができる。しかし、地元の住民にこれが何か知っているかと尋ねたところで、答えられるものはひとりもいないだろう。
さて、それからプリマスロックはどうなったのかというと、それはご存じのとおり。一八八二年に忽然と姿を消したプリマスロックは、二〇一八年に大西洋の底で発見され、無事にもともとあったマサチューセッツ州プリマスの海岸へ戻ってきたのである。
* * *
今日も、プリマスの町には観光客が大量に押し寄せていた。彼らは押し合いへし合いしてプリマスロックを見て、やはり涙を流したり、唾を吐こうとしたり、触ろうとして警備員に追い返されたりしていた。
そうした大騒ぎのなか、突然「ゴン!」という、けたたましい音が鳴り響いた。人々はぴたりと動くのをやめ、音の出所を確認した。すると、警備をかいくぐって、鉄パイプでプリマスロックを叩いた人がいるのを、その場の誰もが目撃した。
そこからはもう収拾がつかなかった。
警備員も最初は頑張っていたが、次第に人波に押されて抵抗するのをあきらめ、その場から逃げ出した。
そのあと警察も動員されてやってきたが、警察の中にもプリマスロックに危害を加えようとする者が複数いたので、仲間内で争い始めて、状況はそんなに変わらなかった。
人々はプリマスロックに近寄って、触ったり唾を吐いたりした。そしてしまいには暴徒と化した人々が銃器やら鈍器やら爆発物などを用いて、プリマスロックを破壊してしまった。
あたりに人々の怒号と歓声とがわっと広がった。
プリマスロックのかけらを持って記念撮影をしたり、泣きわめいて破壊に直接関与した人を追いかけたり、もうめちゃくちゃだった。
そんななか、誰かが言った。
「なあ、この岩、涎みたいなにおいがしないか?」
いやいや、そんなはずはない。
あれはもう、百四十年も昔のことだ。
誰かが発したその言葉は、空気に溶け込んでいって、そのまま消えてしまった。
〈アメリカの神話〉のひとつは、こうして終わりを迎えたのである。
神話でさえ終わってしまうのだとしたら、私たちの住んでいる世界はなんと不確かなのだろう?
粉々になったプリマスロックの周りで、人々は大騒ぎをしていた。そして、明日も明後日も大騒ぎをするのかもしれない。
人々はまだ気力にみちあふれていて、物語はとうぶん終わりそうになかった。
垂涎の鐘 伊藤充季 @itoh_mitsuki
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