序 ~プロローグ


5万人は入っているであろう巨大なスタジアムは、熱狂の渦に包まれていた。


スタジアムの中央に設けられたバトル・フィールドには、二人―いや、二体の“擬体”のみがいた。


ほんの数時間前には、渋谷、池袋、上野など、それぞれの地区を代表する9つの擬体が、スタジアム全体を揺さぶるほどの殺気と鋭気、覇気を放っていた。それらは激闘を経て一つ、また一つと消えていき、今はあちこちが破壊されたスタジアムの中央で、つややかに輝く桜色の擬体が、青い擬体を組み伏せているだけだった。


スタジアムの観客たちは、例外なく絶叫している。両腕を突き上げて涙を流している者、足踏みをしながら叫んでいる者…。狂喜が、空間を支配していた。


起き上がろうともがく青い擬体に馬乗りになった桜色の擬体は、右腕を高くつき上げると、ひと声、獣のように吠えた。


太く頑強な右手が、振り下ろされる。爆発音とともに背中の装甲を拳に突き破られ、青の擬体はついに動かなくなる。

数秒の後、青い擬体は水蒸気のように、キラキラと輝きながら消えていった。


スタジアムの観客席とバトル・フィールドを隔てる透明な防護壁に、巨大な「GAME ACCOMPLISHED(試合完了)」の文字が表示される。


バトル・フィールドの中央に、“コミッショナー”を名乗る黒いスーツの女性が歩いてくる。

ハイヒールのかかとをピタリと揃え、高らかに叫ぶ。

「ゲーム・ウォン・バイ、新宿地区代表・佐京完治!!!!」


観客たちの歓声は交じり合い、ただの怒涛にしか聞こえなくなる。


桜色の擬体はゆっくりと立ち上がり、そして天をあおぐように静止した。

バトル・フィールドを囲むように設置された9つのバルコン(桟敷席)では、各地区の地区長らと、地区代表となったハンドラーたちが、仁王立ちする擬体を見つめている。


SHINJUKUと記載され、唯一明かりが灯っているバルコンから、ゆっくりと朴訥そうな少年が立ち上がった。少年は笑っていた。そして泣いていた。

スクリーンは彼の、まだ残るあどけなさと、涙にぬれたまなざしを映し出している。


コミッショナーが少年にマイクを傾ける。

「佐京完治くん、おめでとう!あなたは54名の選ばれし戦士たちの過酷な戦いを勝ち抜き、見事、本年の『クルセード・ロワイヤル』を制しました。世界でただ一人、神の世界“マグ・メル”への切符を手にしたのよ」


中空を見つめたまま涙を流し続ける少年に、コミッショナーがマイクを向ける。

「佐京くん。世界中のみなさんに、今の気持ちを一言、お願いできないかしら」

少年は肩を震わせながら大きく息を吸い、向けられたマイクに語り始めた。


「…考えて考えて、考え続けました。戦うということは考えることなんだ、と気づいたから…。擬体に入っているときは戦う気持ちがすごく強くなって、相手の動きと弱点が見えて、攻撃をかわして相手を壊すようにしました。でも本当は」

コミッショナーがさえぎるように声をあげた。

「まさに、IQレスリングとでも言いたくなる、すばらしい戦いでしたね!」

佐京くんの肩に手を置き、観客席をあおる。

「さあ会場にいる、いや、世界の皆さん!新クルセーダー、佐京くんの旅立ちを、最高の拍手をもってお祝いください!!」

大人たちは声もつぶれよとばかりに絶叫した。

「彼だけが、神の世界に旅立つんだ」僕の隣で、父さんがつぶやいた。

「そう。今までの、歴代の偉大なクルセーダーたちが待つ、世界へ。なんて素敵なことでしょう」

母さんも涙をぬぐいながら言う。


そうだ。あの素晴らしいチャンピオンは、旅立つのだ。僕らの世界を支える、迷いや退屈のない世界、“マグ・メル”へ。

会場のすべての画面が、スポットライトを浴びる佐京くんを映しだす。


笑顔を浮かべながらも、頬を伝う涙は止まらない。

過酷な戦いから解放された、彼にしかわからない感情が渦巻いているのか。

えふ、えふ、と嗚咽がいっそう激しくなる。

僕は胸がしめつけられる。


そして衆目の眼前でそれは起きる。

佐京君が一瞬、大きく膨らんだように見えた。そして次の瞬間、ずうん、という低い音と共に、まるで自分自身の中に吸い込まれるように、消えた。

神の世界への旅立ちの瞬間。神の奇跡に居合わせた―その歓喜と恍惚に、その場にいた大人たちは全員が滂沱の涙を流していた。


おつかれさまでした、と僕は心の中でつぶやいた。偉大なチャンピオンと、目の前で敗れていった残り8名の地区代表。そして、今日までに負けていった、総勢53名の選手ハンドラーたちに。

僕たちのこの平和な世界を支えるために全てを賭けて戦ってくれた、天才少年、少女たち。


「クルセード・ロワイヤル」――。その過酷な戦いの神事に僕が巻き込まれるのは、それからちょうど1年後のことになる。




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