#023 覚悟の話

 せりさんの横顔を見ながら、私は憲司さんの口から語られる四年間の物語を聞いた。それは濃密で、重く、憂鬱にすら感じさせる物語。誰かが紡いだ、悠久への物語。


「――まあ、こんな感じかな」


 憲司さんは一通り話し終えると、一息ついた。私は何も言えなかった。この四年間の〈平和の杜〉で行われていたこと。彼らがしてきたこと。

 自分の四年間とは大違いだ。むしろ、死にたくなるほど恥ずかしい。何もしていない自分に苛立ちよりも、何かの重力に押し潰されそうになる。



 ――戦うには、覚悟が必要だ。お前にはそれがない。そんなヤツに、オレは黒天を渡すつもりはない。たとえ、縁のものであってもだ



 キリュウは、そう言い放った。

 私には、覚悟が無い。これまでも、これからも。私の行動理念には、誰かがいて、何かが起きていた。だから、私は動けた。戦うことができた。

 何もない、資格すら無いと言い切られた私には、そこに踏み込める勇気すらない。希望すらもない。ただ、日常という名のぬるま湯に浸かることが、私にできることと言えた。


「……空音さんは、この四年間で、あまり変わってないね」


 憲司さんもまた、せりさんに見ていた。

 それでも、その言葉に胸が痛んだ。何も変わっていないことを、責められている感覚だった。


「……私は、どうすればいいのでしょう?」


 それは、思わず口から出ていた。


「空音さんは、どうしたいの?」

「……私は、何もしていない自分が、嫌なんです」


 実に醜くて、自分勝手な答えだった。

 けれど、そうとしか表現できない。変化していない自分。資格が無いと指摘された自分。どれも、不甲斐なく、恥ずかしくなる自分。何もしていないことが、これ以上にないくらい、不安だった。


「空音さんの気持ちも、よくわかるよ」


 憲司さんは、どこか穏やかな口調で言った。


「周りの人とか、社会とか、世界とか。それらが一気に変わっていく中で、自分だけが取り残されている感覚は、どうしても不安になるし、怖いものだよ。誰だって、それは感じている」


 憲司は、苦笑していた。その視線はせりさんから離れていない。


「よく、人の目なんか気にするなっていうやつがいるだろう? ああいう人が、実は一番人の目を気にしているものなんだよ。本当に無関心であるなら、そもそも『人の目』なんて言葉が出てこない。人はいつだって誰かに急かされているように感じるし、不安を感じることが義務みたいになってる。安心したい、安らぎたい。幸せになりたい。貪欲で、罪深い。僕たちは、ヒトだから。そういうものなんだと、納得するしかない」


 それでも、納得はできない。納得をしようとすると、どうしても邪魔が入る。主に、自分の思い込みがそれらを阻害する。臆病者で、猜疑心を大きく持った疑心暗鬼の化身。それは私の中にいつも居座っていて、私を弱くする。私自身を落としていく。


「情けない話です」


 私は項垂れていた。


「私には、覚悟が無い。資格を得るための、覚悟を立てたことがない。多分、私は今まで流れに乗っかっていただけなんです。自分の中で決めたことなんて一つもなかった。言われたことをただするだけ。何もできなくて、何も決められない。覚悟なんて、できるはずもない」

「ははは、それは勘違いだよ、空音さん」


 不意に、憲司さんは笑った。どこか、暗い雰囲気を吹き飛ばすかのような軽快な笑い声だった。


「覚悟なんて言葉は、僕たちが易易と使えるほど、軽い言葉じゃないんだよ。仰々しくて、どこか崇高さがある。覚悟っていうのは、すべてを懸ける行為そのものを指すんだと思う」


 すべてを懸ける。それは、文字通りの意味だ。ちっぽけなプライド。意志。信念。ありとあらゆる荷物。――命さえも。


「僕は、戦いに命を懸けられない。矛盾しているようにも聞こえるけど、真理なんだよ。生きるための戦いだから。生きるために勝ちたいから。僕は命は懸けられない。けれど、それは同時に、覚悟とは違うものなんだよ」

「ならば、……私たちには、覚悟は、できないということですか……?」

「そう、そこだよ」


 良い指摘だ、とでも言いたげな顔で憲司さんは言った。その雰囲気が、どこか前〈平和の杜〉のリーダー・土浦さんを連想させた。


「僕たちは命を懸けない。生きるために、生き抜くために戦う。覚悟なんて、並大抵のことじゃないよ。僕たちは僕たちらしく、僕たち流のやり方で、向き合うことそのものが重要なんだよ」

「……向き合う、」

「別に、深く考えることでもない。時折、目を逸らしたくなることだってあるし、後ろを振り向きたくなることもある。僕なんか目を逸らし続けているし、後ろなんてよく振り返っている。それでいいんだよ。深く考えるなんてことを、追求する必要はない。ただ、考え続けるんだ。思考放棄をせずに、ただ、ひたむきに、真摯に向き合う。これはきっと、覚悟なんかじゃない」


 そんな言葉を、私は初めて聞いた。

 目を逸らすことも、後ろを振り向くことも、全てが悪いことのように思えていた。そうすることでしか、四年間を過ごせなかった私を糾弾しても、私は甘んじて受け入れるしかなかった。

 憲司さんは、肯定も否定もしない。

 ただ、本来あるべき道をそっと見せてくれただけ。


「覚悟じゃないとしたら、それは――?」

「心がけだよ。簡単だろう?」


 ぱっと、視界が広がった気がした。

 足元に落ちていたはずの視線が上がっている。その時、ようやく憲司さんと目があった。憲司さんはもう、せりさんから視線を逸らしていた。


「覚悟なんていい。空音さんがハッキリさせるのは、ただ一つだけだよ」


 もし仮に。そう、前置きする。


「椚君に逢えるなら、君は逢いたい?」


 考えるまでもない。


「……逢いたい」


 心がけも、すぐにできることではない。

 私は、命を懸けることはできない。

 生きたいから。生き抜きたいから。

 けど、私がしなくてはならないのは、それではない。目の前にある単純な問いかけに答えることが、私の始まりであり、私の行動理念そのものだった。



「クヌギくんに、逢いたいです」


 

 憲司さんは、私の答えに、微笑んだ。


「それだけでいいんだよ、たぶんね」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 冬美は、アジトへ帰っていた。

 表情は暗く、悲壮に満ちている。ただ、その瞳には異様な光が煌めいていた。アジト内は妙に騒がしい。連日、自称する椚夕夜の件が影響しているのだろう。暫定的なリーダーである冬美の立場もグラついている。

 ――何故、こうなってしまうのか。

 冬美は頭を抱えずにはいられない。どうしてこうなった。話がややこしくなる。複雑で、不都合な方へ転がるというのだ。あまりにも、不平等ではないか。


「――冬美ちゃん」


 センジュが、冬美の名を呼んでいた。

 だが、冬美は答えない。アジトのエレベーターに入り込んでしまう。すぐに扉を閉じようとするので、センジュは慌ててエレベーターに乗り込んだ。


「今、戦争を仕掛けるのは不味いわよ」


 センジュは無視する冬美も厭わず、言い続けた。


「わかるでしょう? キリュウは、強い。なんたって、夕夜クンと三日三晩も戦い続けて生き残ってるんだよ? 当時の夕夜クンは冬美ちゃんも知ってるでしょ? あの鳴神蓮夜にも勝つぐらいに、負け無しだったんだよ? ワタシが勝てる要素がない」

「……」


 冬美は答えない。これだけでは冬美を揺れ動かすことはできない。センジュはさらに、踏み込んでいく。もう、戦いを止めるのに必死だった。


「それに、自称夕夜クンが現れて、クランも不安定よ。今戦って隙を突かれたら、全部総崩れよ。冬美ちゃん、全部、なのよ?」

「……うるさい」

「お願いよ。一度だけ、聞いて――」

「うるさいっ!」


 エレベーターは到着してしまう。冬美は一足先に進んでしまう。階段を登り、部屋に到着してしまった。センジュの焦燥感を増すばかり。なにせ、あの部屋には自称・椚夕夜がいる。


『あ、ただいま。冬美ちゃん』


 平然と、仮面の男は言った。他に人はいない。哲郎や圭人たち、一人としていなかった。やはり、この男と同じ空間にいるのは、難しいのだろう。

 冬美は、男の前で、足を止めた。男は首を傾げる。どこか、いつもと違う様子に気づいたのだろう。


「――わたしは、〈百獣ビースト〉と戦うよ」

「冬美ちゃん!」


 センジュの声は、届かない。冬美の宣言とも取れる言葉に、男は言った。


『どうして?』

「どうしてって……、ゆうくんの黒天があるからじゃないっ!」

『あれは預けたんだよ』

「そんなはずない。キリュウは言っていたよ。わたしたちには資格が無いんだって。それって、信じてないってことでしょ?」

『それならそれでもいいんじゃない? 結果的に、彼は護っているんだし』

「全然、全然違うんだよッ!」


 まるで悲鳴のようだった。

 冬美はキッと男を睨みつけていた。


「あなたは誰なのッ――!?」


 センジュは、息を呑んだ。あの冬美が、自ら隠していた感情を暴露した。男は黙り込んでいる。答えないつもりか。センジュは、そう思っていた。だが。



『――は、まだ気づかないのか?』



 空気が、凍った。


『何故、このタイミングになって。椚夕夜が現れたのか。それを理解していないのか?』

「……な、なにを、」

『牧野冬美。現状を俯瞰しろ。もう〈鴉〉は終わる寸前だ。勿論、お前自身も』


 冬美は言葉を紡ぐ権利すら与えられていなかった。そう、男は言った。答えたのだ。それなのに、冬美は言葉を失っていた。センジュもまた、衝撃を受けていた。


(どういうことなの……?)


 それは純粋な疑問だった。不可解なまでの疑問でしかなかった。男は言う。このタイミングで現れたワケがあることを。

 現状の俯瞰。クランが既に瓦解寸前であること。冬美が限界を迎えようとしていること。統合すると、今センジュたちはピンチに立たされていること。

 ――否。そうではない。センジュは自分の考えが深くに潜ろうとするのを止めた。

 おそらく、論点はではない。この男が危惧しているのは、そこではないのだ。

 ならば、まさか――。


『この戦い、〈鴉〉は負ける』


 男はそう言い捨てると共に、部屋から出て行ってしまった。残された冬美は足元に視線を落とし、体を震わせていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ノック音が響く。それに応えると、部屋に入ってきたのはナクアだった。灰色に染まったかのような美女。ホムラの側付き。

 ホムラは、ソファに座り込みながら、小説を読んでいた。だが、ページは一向に進む気配を見せない。元々、ホムラは活字が得意な方ではなかった。


「どうしたの?」

「報告したい案件があります」

「どうぞ」


 ホムラは小説から目を離さない。


「〈百獣〉と〈鴉〉が全面戦争をするとのことです」

「…………へえ」


 ホムラはここで、ようやく小説から視線を外した。


「面白いことになってきたな。それ、どこ情報?」

「例のところからです」

「そう」


 ホムラは小説を乱雑に置くと、僅かに思考を働かせた。わざわざ情報を伝えてくるということは、何らかの意図があってのことか。


「黒天かぁ……」


 黒天。三大勢力のパワーバランスを崩しかねない代物。確かに、〈アグニス〉はそれを所有していない。


「あんまり、必要ない気もするけどねぇ……」


 本音が言葉として漏れていた。ナクアがそっと告げた。


「黒天は、十分な代物だと思いますが」

「そうなんだけどね。使い勝手が悪いよ」

「それもそうですが……」

「……まあいいや。僕が出よう」

「…………………………は?」


 ナクアは、一瞬だけ何を言われたのか、理解できない顔をした。ホムラは面白おかしく、もう一度はっきりと言った。


「僕が出るよ」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 その情報が私たちの元に入ったのは、〈平和の杜〉との再会から三日後のことだった。慌てて〈灯の集い〉に入ってきた秤さんに、ニナは目を丸くした。


「どうしたの、文也さん?」

「緊急性の高い情報あり。〈鴉〉が〈百獣〉に戦争を仕掛けようとしているらしいっ」


 私は息を呑んだ。

 冬美は一体、何を考えて――



「――それについて、ワタシから少し話をさせてもらえないかしら?」



 突然の来訪。

 私たちの視線は、扉に向かっていた。秤さんもまた、ぎょっとしたように後ろを振り向く。


「センジュ……」


 私は、その名を呟いていた。


「やっほー、空音ちゃん」


 センジュは少しだけ疲れたような笑みを返した。

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