第1章 太陽をつかむ草原 第1話 外への憧れⅠ

 

「マッチ遅いなぁ」

 若草がそのまましみ込んだような、瑞々みずみずしい色を蓄えた髪を持った少年というにはまだ幼い男の子の口からぽつりと出た。



 まだ登り切っていない朝日を背に高台の上に一軒だけポツンと建っている住み慣れた家の大きな扉の前で、視線を下に向けてうろうろと歩いては立ち止まることを繰り返していた。家と言ってもそれは石造りの城のようで、たった今だけは落ち着かない様子の彼に寄り添ってくれている唯一の存在だった。

 やがて男の子は動くことをやめ、意識を空にし、家の年季の入った大きな木の扉をしばらく見つめていた。

 すると唐突に扉が開いたことに彼の肩は一瞬すくみあがったが、そんな様子を悟られることもなく大きなあくびをしながらこの家の主が出てきた。

「んあ?アーチェ、扉の前に立ってどうしたんだい。もうとっくに鐘を鳴らしに行ったと思ったよ」

 顔に深く刻まれたしわには似つかわしくないほどの美しい青色の髪を持つ老婆ろうばは、その顔に差し込む、まだ頭だけしか出ていない朝日に目を細めながら自分を見上げる男の子へ目を向けた。

「おはようマーサ。あのね、多分マッチが寝坊しているのだと思う」

 状況を察した老婆は表情一つ変えずにぶっきらぼうに言い放つ。

「寝坊してるやつなんか待ってても仕方がないさ。1日の始まりを知らせる仕事なのにお前が遅れたら皆の1日が始まらねぇよ。そもそも、起こしてやりゃよかったじゃねぇか」

「起こそうと思ったよ。だけどマーサが『いつもアーチェはマッチの世話してるねぇ』って言った後、マッチは『頼れるお姉ちゃんになる!』って言ってたから、だから…」

 言葉はそこで途切れ、男の子はうつむいた。

 姉の面子めんつを守るためにあえて厳しくした彼に老婆は身をかがめて頭を一撫でする。

「真に受けすぎたみたいだね。そいつはすまなかった。だが、皆に朝を知らせるのがお前たちに任せられたことだ。お前たちが早く知らせてやらねぇと困る人がいるんだ」

 うつむく男の子の小さな両肩に手を置き、老婆は言葉を続ける。

「お前は賢くて優しい子だ。だがまだ子供だから、そこまで気を遣う必要はない。何が一番大切なのかは、お前たちはこれから学んで行けばいいのさ」

男の子は一度小さく頷き、顔を上げて老婆の顔を見る。

「うん、2人でやらないといけないことだって鐘守りのおじいちゃんは言ってたよ」

「それに、僕たち双子だから息ぴったりって言ってたし」

 えへん、と男の子は得意げに胸を張る。

 その様子を見た老婆は微笑んで、

「お前なら一人でやろうと思えばできることだっただろうに。だったら起こして―」

「きな」と老婆が言葉を発しきる前に「ごめーん」と大きな声が老婆の後ろから聴こえてくる。

 ぺたぺたと裸足で老婆の横をすり抜けて行き、男の子同様の髪色をした女の子は肩を並べ、老婆に向き直る。

「おはようマーサ!アーチェもおはよう!」

その場で駆け足をしている女の子に男の子は慌てたように言う。

「マッチ、早く行かないと怒られちゃうよ」

「走れば間に合う!」

女の子は一言だけ告げると一目散に道のない草原を駆けて行った。

「えっと」と男の子は一瞬たじろいで

「それじゃあ行ってきます!」

走りだしながらそう言うと女の子同様に駆けて行った。

「やれやれ、マッチにも後で言ってやらねぇとな」

 家から遠ざかり、2つの小さな影になって行くのを見守りながら老婆は呆れ交じりに声をもらした。

「気ぃ付けて行ってきな」

 老婆は穏やかな表情になり、しかし力強さを感じさせる芯の通った声音を雲一つない空に吸い込ませた。




 潮風と草木の香りが漂う空気で肺を満たしながら、二つの影は緑生い茂るなだらかな丘を木の葉が風にあおられひるがえるかのように颯爽と駆けていく。右側には朝日がゆっくりと昇り始めており、白壁と青い屋根の家々を照らし始めている。

 海岸へと差し掛かったが、マチルダは構わず白い砂浜を踏みしめて走り出す。追いかけてきたアーチェスはそれにはならわず凹凸おうとつの少ない靴跡を砂浜に残して走っていく。

 砂浜をひたすら走ること半刻ほどで建造物が立ち並ぶ大通りに辿り着く。

 閑散かんさんとはしているものの、少数ながらすでに人は目を覚ましているようで、鐘楼しょうろうまで駆けていく2人の子供たちを、朝支度をしつつ微笑み見守る大人たちもいた。

 小さな体躯たいくながら一息に駆けてきたこともあり、肩で息をしていた二人はゆっくりと歩き、呼吸を整え始めた。

 都の西側にいることを示す白い虎の像を通り過ぎ、都の中央に鎮座する鐘楼に二人は到着する。

 鐘楼の入り口に二人を待ち侘びるように老齢の男性が簡素な木製の椅子に腰かけ、片手で杖をつき、手を振りながら二人に呼びかけた。

「そんなに疲れた様子で珍しいなぁ。走ってきたのかい?マチルダちゃん裸足だし、一体どうしたんだい?」

「マッチが寝坊したんです」

 と、アーチェスが自分の判断の失念も込めて申し訳なさそうに言うとマチルダも落ち込んだ様子で「ごめんなさい」と頭を下げる。

「アーチェもごめんね、結局起きられなかったよ」

「ううん、いいんだよ。『何が一番大切かはこれから学んでいけばいい』ってマーサがさっき言ってた」

「何か大切なお話してそうな雰囲気だったから何かと思ったら私の事だったのね。アーチェが先に大人になっちゃうよぉ」

 謝ったり嘆いたりしている二人の様子を見た老齢の男性はかっかっかとしゃがれた声で笑って

 「いいってことよ、頼んどるのは俺の方だし。双子なら面白れぇかもってことで朝打ちは任せてるからなぁ。ほら、まだ眠りこけてるやつもいるだろうし、突っ立ってないで早く鳴らしに行ってくれ」

 「はい!」「はーい」と各々の個性が出る返事をした後、仕事に取り掛かるように促された二人は螺旋階段らせんかいだんを上がり、頂上にある鐘の間を目指す。




 鐘の間は四方の壁がアーチ状にくりぬかれており、その中央に渦や風紋ふうもんのような装飾が刻まれた大きな青銅の鐘が天井から吊り下げられている。

 鐘のぜつに括り付けられた縄をくことで鐘の内側から鳴らす仕組みだ。

 鐘も舌もやや緑がかっており、長い時を過ごしてきたことを感じさせる。

 鐘の間の東と西には鳴らす時間の目安となる日時計が春夏秋冬の4つが並んでおり、打ち手はその時刻が来た時に12回鐘を鳴らすのが仕事である。

 1度鳴らして音が響き渡り、鳴り終わる前にもう一度鐘を鳴らすことを繰り返し等間隔でやりきることが様式美と言われている。そのため、繊細な打ち手と的確な指揮手が必要ということで双子だから完璧だろうと面白がってサマンサ(愛称はマーサ)が打ち手と交渉して仕事に加えさせた。それがまだ幼いアーチェスとマチルダが早朝の鐘打ちをすることになったきっかけである。

 二人は慣れた様子で持ち場についた。

 アーチェスよりも活発な性格であるマチルダはもっぱら鐘を打ちたがった結果、力加減が上達していった。そんな彼女が鐘打ちを行い、日時計でその時が来たら手を振り下ろし鳴らす時を知らせ、1回目の点鐘以降は音が消えていくのを目安に次の点鐘を知らせる役割をアーチェスがになった。

 二人はそれぞれの持ち場につき、マチルダは鐘の舌から伸びる縄を掴み、アーチェスは手すりに4つ立ててある夏にあたる日時計を見る。

 日時計の中央に立っている鉄針てっしんによってできる影は、すでに点鐘てんしょうを告げる位置まで来ていた。

 それを見たアーチェスは

 「もう少し過ぎてる!1回目打って!」とマチルダに大声で知らせる。

 やや離れた位置にいるマチルダは「いくよー」と返し、縄を力強く引く。

 カーンと細く長く、都の中央、人の目線よりも遥かに高い場所から響き渡る。

 都の端から端へと音響が波のように伝わり、また中央へと音が帰って行く光景をアーチェスは目を閉じて想像し、音が消えていく頃に再び手を下ろし、次の点鐘をマチルダに知らせる。

 マチルダは一度目とほぼ同じ力で縄を牽き、もう一度鐘の音を都中に響き渡らせる。

 これを数度繰り返すこと、アーチェスはずっとマチルダに背を向けて鐘とは反対の方向を向いているが、8回目が終わる頃に目を開き、眼下に広がる都の景色を見てくすりと笑った。

 鐘楼へ来た時よりも人が外に出ており、知人がこちらを見上げて手を振っている姿も見えた。

 満ち満ちた表情で青空を見上げ、朝日を浴びながら上げた手を振り下ろしてマチルダに合図を送り続けた。

 12回目の最後の音が鐘の中に帰って行くように消えゆく音を、アーチェスは再び目を閉じ、遠くで鳴る波音とそよ風の音が戻って来るのを耳を澄まして聴いていた。

すでにマチルダは舌を静かに鐘の中央に戻しており、アーチェスの後ろからひょっこりと出てきて横に並んだ。

「どうだった?」とニコニコと笑って出来栄できばえを訊いてくるマチルダの方を向き、屈託くったくのない笑顔で「とてもよかったよ、おつかれ」と言って2人の朝告げの仕事は終わりを告げた。

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