第3話 旅行

 七月最終日の午前でテストが全て終わった。長い夏休みに入るのだが、魅力的ななにかが待っているわけではないと分かっているからあまりテンションは上がらない。

「川田さん」

 一人で駅に向かっていると後ろから声をかけられたので振り向いた。声だけでだれか分かっていた。岩熊さんだ。

「川田さん、この後暇? ご飯食べない?」

「いいね、どこ行く」

「私の家」

「ん?」

 私は一瞬なにを言っているのか理解できなくて聞き返してしまった。

「私の家でご飯食べようよ。適当に作るからさ」

「え、あ、うん」

 私はいまだに事態を飲み込めずになんとも曖昧な返事しかできなかった。

 あれよあれよという間に、岩熊さんの家に着いて、目の前のテーブルに冷やし中華が二皿置かれていた。

「自分から誘っておいてあれだけど、こんなものしかできなくて」

 岩熊さんが人差し指で右頬を掻いた。

「そんなことないよ。いただきます」

 私たちは黙々と食べ進めた。岩熊さんの意図がよく分からず困惑しているのと、好きな人と一緒にいる緊張でつい押し黙ってしまう。

 二人とも食べ終わってから岩熊さんが口を開いた。

「今日誘ったのは、話したいことがあってね」

「なにか相談事?」

「いや、そういうのじゃなくてね。お盆終わったら旅行しない?」

「旅行? うん、行きたい」

 岩熊さんから遊びに誘われる日が来るとは思わなかった。しかも、旅行なんて。

「ほんと? 行きたいところがあるけど、あんまり楽しくないかもしれないよ」

 岩熊さんが不安そうに聞いた。

「岩熊さんが行きたいとこなら、どこでも。それに私観光地とか詳しくないから、お任せするよ」

 岩熊さんと一緒に、岩熊さんが行きたい場所ならどこでも楽しいだろう、私は完全に舞い上がっていた。

「ところで、旅行は私たちだけ? あと日程は」

「二人だけだよ。日程は二泊三日かな、今のところ」

 二人だけで、泊りがけの旅行とは、私は果たして平静を保てるだろうか。いや、大丈夫。友達でい続けると決めたのだ。変な気は起こしても、行動には移さない。

「それと、交通費は浮かせたいから青春20きっぷ買っておいて」

「青春20きっぷ?」

「うん。五日間普通電車が乗り放題の切符だよ。一万円くらいだから交通費がすごい浮くんだ」

 全部普通電車で移動ということ? しかも泊りがけだからそれなりに遠くへ行く気なのだろう。どんな行程を想定しているのだろうか。急に不安になってきてしまった。

「いろいろ考えて計画立てるね。後で送るから改善案があれば言ってね。楽しみだなあ」

 岩熊さんは私の不安をよそに楽しそうに笑った。


 八月の最終週、遂に岩熊さんと旅行の日がやってきた。私たちは昼過ぎに岡山の布原駅に降り立った。

「いやあ、さすが秘境駅。のどかだねえ」

 朝早くに京都を出発し、電車を乗り継ぎ六時間ほど。ようやく降りた駅が山の中にひっそりと佇む秘境駅だった。朝早かったこともあって電車の中ではほとんど寝てたから退屈だとは思わなかった。

 駅の目の前を川が流れ、ぽつぽつと家が見えるくらいであたりはなにもない。写真を一通り撮った後はやることがなくなってしまった。

「岩熊さんって不思議な人だよね」

「え、そう?」

 岩熊さんが首をかしげた。

「うん。旅行で最初の目的地が秘境駅だなんて」

「もしかして嫌だった?」

 私は首を横に振った。

「嫌じゃないよ。嫌だったら計画段階で言ってる」

「そっか、よかった」

 岩熊さんは少し安心したような表情を見せた。

「秘境駅もそうだけど、いなごの佃煮も食べるしさ。なんか世間一般の女子大生のイメージからはかけ離れてるよね」

「自分が知らないことに挑戦してみたくなっちゃうんだよね。世界が広がる気がするんだ。まあそんなに大したことをしてるとは思ってないけど」

 岩熊さんはスマホを取り出し、なにやら操作し始めた。

「さて、次の電車まで二時間以上あります。どうしようか」

 岩熊さんもここまで暇を持て余すとは思っていなかったみたいだった。

「隣駅まで歩いてみる? 疲労で宿の温泉に気持ちよく入れるかも」

「気が合うね。じゃあ行こうか」

 岩熊さんがスマホの画面を見せてくれた。画面には隣駅までのルートが地図上に記されていた。

 人どころか車すら通らない道を黙々と歩く。あまりにも静かだから今この世界には私と岩熊さんしかいないのではと勘違いしてしまいそうになる。

「岩熊さん、どうして旅行に誘ってくれたの?」

 私は少し先を歩く岩熊さんにずっと気になっていたことを聞いた。私が知る限りだれから誘われても断っていた人が旅行に誘ってくれたのが不思議だった。

 岩熊が少し歩くスピードを緩め、隣に並んだ。

「川田さんと仲良くなりたいと思って」

「わ、私は結構仲が良いと思ってたけど」

 自分はそう思っていたが、岩熊さんはそうは思っていなかったのかと思うと急に悲しくなってきた。

「うん、私も大学で一番仲が良いと思っているよ。ただ、もっと仲良くなりたい、もっと川田さんのことを知りたいと思ってさ」

 ここにきてやはり岩熊さんという人間が掴みきれないと思ってしまった。人と深く関わりたがらないと思っていたが、その真逆で私のことを知りたい、なんて言われるとは夢にも思っていなかった。確かに流れから深く関わらざるを得なかったかもしれないが、それならなおのこと旅行に誘うだろうか。

 もっと深く聞いていいものか悩んでいるうちに再び岩熊さんが少し先を歩いていた。

「どうして、とか聞かれるかと思った。川田さんってあまり踏み込んでこないよね」

 岩熊さんはこちらを振り返ることなく、前を見たまま言い放った。

 聞きたかったがどこまでなら踏み込んでいいのか悩んでいただけ。それに岩熊さんこそ人と深く関わらないのに、私は少し苛立ちを覚えた。

「それはお互い様でしょ」

 振り返った岩熊さんは、驚いた表情を浮かべていた。

「そうだったね。今まで踏み込んだことなかったや」

 それきり私たちの会話は途切れた。

 やってしまった。旅行初日に気まずい雰囲気になってしまった。なにもあんな言い方をしなくてもよかったのに。私は落ち込み下を向きながら黙々と歩き続けた。

 目的の駅に到着してすぐ電車が来た。私たちはさらに電車を乗り継いで宍道湖近くの温泉宿まで移動し、宿に到着する頃にはすっかり日も落ちて暗くなっていた。電車に乗っている間岩熊さんはずっと寝ていたから気を使うことなく正直ほっとしていた。

「温泉行こっか。露天風呂もあるみたいだし、楽しみだなあ」

 部屋に荷物置くなり岩熊さんが、着替えを取り出し、備え付けのタオルを携える。

「うん」

 私は平静を装いながら答えた。好きな人と温泉に入る。私だけがどきどきして心臓が破れそうなのに、岩熊さんはなんとも思っていないのだろうから不公平だ。

 部屋を出て、そそくさと温泉へ向かう。脱衣所で私がもたもた服を脱いでいる間に、岩熊さんはなんでもないように裸になる。

 なるべく岩熊さんの方を見ないようにして体を洗い、お湯に浸かった。少し後に岩熊さんも隣に入ってきた。私たち以外にはだれもいない。

「家のお風呂と違って足も伸ばせるしいいねえ」

 岩熊さんがリラックスした表情でつぶやく。

「昼間はごめん」

 私はうつむきながら謝った。

「昼? なんだっけ」

 私は驚いて横にいる岩熊さんの顔を凝視した。

「ほら、踏み込まないのはお互い様でしょって言ったじゃん。もっと別の言い方があったんじゃないかって思ってて」

「あのときか。私は全然気にしてなかったんだけど」

 私は全身の力が抜ける感覚に陥った。気にしてたのは私だけで、ずっと一人で気まずいとか思っていたのか。

「川田さんのことをもっと知りたいのは本当だし、どうしてって聞かれなかったのは、興味がないのかと思って少し寂しかったけど」

 岩熊さんが好きで、岩熊さんをもっと知りたいがどこまで踏み込んでいいか怖くて聞けないだけ。臆病な自分に嫌気が差した。勇気を出して聞いてみた。

「私も岩熊さんのこといろいろ知りたいよ。だって」

 好きだから、と言いかけて慌てて押し黙った。岩熊さんも続きを待っているのか黙ったままだ。

「ど、どうして私のこともっと知りたいと思ったの?」

 話題が逸れそうになったので、戻すことにした。

「川田さんは良い人なんだろうなって思って。そしたら、川田さんが」

 今度は岩熊さんが黙ってしまった。横目で岩熊さんの顔を確認すると真っ赤になっていた。のぼせそうになっているのか、それとも――。

 それに、私が良い人? 岩熊さんはなんでそう思ったんだろうか。程よい距離感を保ってくれるところだろうか。でもそれは岩熊さん自身が壊そうとしている。

「いろいろ言いたいことがあるけど、まとまらないや。明日でもいい?」

「いいけど、必ず話して。岩熊さんのこと知りたいから」

 私はこのまま有耶無耶になってしまうのが嫌でつい強い口調で言ってしまった。

「うん、絶対。先出るね、のぼせそう」

 岩熊さんが出てからもしばらくお湯に浸かりながら考え込んでしまった。岩熊さんはどうして私のことを知りたいと思ったのか。なにを知りたいのだろうか。それに、さっきの岩熊さんはまるで告白でもするかのような……。

 私は思いっきり頭を左右に振った。私の願望がそう思わせているのだ。勘違いしそうになるが、冷静にならなければならない。


 次の日は朝早くから出雲大社に行き、その後鳥取砂丘を訪れた。そこからさらに移動し香住の温泉宿までやってきた。昨日の岩熊さんとの会話のせいでほとんど上の空で、今日の記憶があまりない。宿の料理と温泉を堪能し、私たちは広縁で向かい合って座っている。

「川田さん、楽しかった?」

「うん、楽しかったよ。また行こうよ」

 しばらく沈黙があって、ようやく岩熊さんが口を開いた。

「昨日の、続きなんだけど」

 岩熊さんは再び黙ってしまった。言いたいことに悩んでいるというよりは、なにかを怖がっているようにも見えた。

「時間はいっぱいあるから、ゆっくりで大丈夫だよ。岩熊さんが言いたいこと、思っていること教えて」

 私は岩熊さんの右手を両手で包み込んだ。岩熊さんの手は少し震えている。

「川田さんのことを知りたい。それと私のことも知って欲しいの」

 岩熊さんの手に力が入り私の手を握る形になった。

「川田さんのことというより、川田さんの気持ちが知りたい。私のことをどう思っているのか」

 岩熊さんは頬を赤らめ、私から目を逸らさず言った。私はあまりのことに言葉が出てこなかった。これではまるで岩熊さんが私のことを……。

「私は」

 意を決して喋ろうとしたが、岩熊さんの手から力が抜けて手の間からすり抜けてしまった。

「ごめん、今のはずるいね。これは私の話だから、私から話さないと」

 好きだよと、言う寸前で岩熊さんが遮ってくれて助かった。この気持ちを本人に打ち明けることは絶対にしないと決めた。この関係を壊したくないから。岩熊さんに避けられるようになったら今度こそ耐えられないから。

「小さい頃から両親は不仲で、喧嘩が絶えなかった。そんな両親を見たくなくて絵を描くことに没頭して現実逃避をしていた」

 唐突に始まった岩熊さんの身の上話に困惑しつつ今は黙って聞くことにした。

「小学校三年生くらいだったかな、両親が離婚して母親と二人で暮らすことになった。これで平穏な日々が送れると当時は安心してたんだけど」

 岩熊さんが長いため息をついた。

「母親の父親への口撃はずっと続いた。私が高校生になったくらいでようやく落ち着いたけど、私は思ったの。昔は好きだったはずなのに、どうしてそんなに口汚く罵れるのか、なんで結婚なんかしたんだって。そんな親を見ていたからか恋愛なんかしない、私は一人で生きていくって決めていた」

 最も長い時間を過ごさざるを得ない人を信頼できないという背景があれば、人と深く関わらないという今までの岩熊さんを理解できた。それと同時に強く抱きしめたくなってしまった。

「それと母親は機嫌が悪い日が多くてね。いつも顔色を伺っていた。そのせいか、相手の機嫌を損ねない方法、無難にやり過ごせる話し方が身についた」

 岩熊さんの話を聞いているだけで私が泣き出しそうになってしまった。岩熊さんが人と深く関わらないようにしつつ、人からの誘いを受け流す術を身につけたのにはそんな背景があったのか。辛い思いを一人で抱え込んでいたのか。

「それが大学祭までの私。その日以降少しだけ考えが変わったの」

「大学祭?」

「そう。川田さんの前に昔好きだった人が現れたあの日」

 私はなぜあの日のことが岩熊さんの転機になったのか分からないが口ははさまなかった。

「川田さんは程よい距離感を保って接してくれて楽だったから一緒にいたいと思ってた。でも、川田さんの過去の辛い経験を聞いたあの日、ついぞ悪口を聞くことはなかった。私は驚いたよ。あれだけのことをされたのに」

「岩熊さんは勘違いしてるよ。私だって少しは恨んだりもしたし、悪口を言うこともある」

「あれだけのことがあったんだもの、それは当然だと思う。でもそれをいつまでも引きずらず無関係な人に当たり散らかしたりしない。川田さんにとっては当たり前かもしれないけど、私の周りにはそんな人いなかったから。気がついたら川田さんはどういう人なんだろう、もう少し仲良くなれないか、川田さんのことで頭がいっぱいになった」

 それで今回の旅行に誘ってくれたのか。ようやく理由を知ることができた。

「いつの間にか、川田さんを好きになったの。友達としてじゃなくて」

 岩熊さんは私の顔を真正面から見つめ告白した。私も岩熊さんの顔を見つめなおした。

「私も岩熊さんが好きだよ。友達じゃなくて特別な関係になりたいと思ってる」

 私は身を乗り出し、岩熊さんを抱きしめた。

「よろしくね、岩熊さん」

「私こそ」

 岩熊さんも私のことを抱きしめ、二人で長い間泣きあった。


 次の日は朝早くから二人で宿の近くの砂浜で海を眺めていた。

「もう最終日かあ。まだ帰りたくないなあ」

 私は好きな人と共有する時間が愛おしく思いながらつぶやいた。

 岩熊さんが私の耳に顔を近づけた。

「切符さ、二回分余ってるから、またどこか行こうよ、今度は恋人として。ね、麗」

 恋人という単語と名前で呼ばれたことで自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。

「照れちゃった?」

 岩熊さんがいたずらっぽく笑う。

「顔赤いよ、美波」

 私も負けじと下の名前で呼んだ。

 私たちは笑いあって、帰路についた。

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