第2話 大学祭にて
七月下旬、大学祭が始まった。ほとんど活動している人がいない美術サークルも一応は作品を展示するらしく、私は展示品を提出した。そして今は展示会の受付をしている。展示会といっても、サークル棟の小さな一室を借りて、壁に少数の作品がかけられているだけだ。おまけに人も来ないから暇だ。
「なにもこんな暑い時期にやらなくても」
私はだれもいないと思い、受付係用の椅子に座り天井を睨みながらぼやいた。
「確かに。秋でいいのにね」
私は入り口に現れた人に突然声をかけられて驚いて変な声を上げてしまった。
「い、い、岩熊さん!」
「私がここに来たくらいでそんなに驚く?」
「いや、人がいると思わなくて、つい。岩熊さんがどうとかじゃなくて」
私はしどろもどろに答えた。
「今日はどうしたの、もしかしてサークルに興味が出た?」
「サークルは興味ないけど、川田さんの絵に興味があって」
「へ?」
私はあまりに意外な言葉にまたしても変な声を上げてしまった。岩熊さんから私が描く絵のことに関して聞かれたことなんてないから、てっきり興味がないのだと思っていた。
「どこにあるの?」
「えっと、あれ」
私は天橋立の風景画を指さした。もしかしたら岩熊さんがいるかもしれないと思い足繁く通って描いていたのだ。まあ、そんな目論見は外れてあれ以降一度も見ていないのだが。
「天橋立かあ、初めて会話したとこだよね。ちょっと前のことだけど、懐かしさを感じるなあ」
「そ、そんなじっくり見ないで。岩熊さんほど上手じゃないから」
私は岩熊さんの画力を思い出していた。自分の絵と比べられているような気がして少し恥ずかしくなってしまう。
岩熊さんは私に向き合って、首をかしげる。
「上手い下手とかじゃなくて、好きで描いてるんでしょ。それでいいじゃん」
岩熊さんは絵を描く技術とか、世間一般の上手い下手とか興味がなくて、純粋に絵を描くことが好きなんだと、感心してしまう。
「川田さん、お疲れ。交代だよ」
そこへサークルの先輩が入ってきた。私の受付当番はこれで終了だ。
「はい、お疲れ様です。今日は上がります」
私は岩熊さんと一緒に展示室を出た。
「ねえ、川田さん。この後暇?」
「うん」
「興味がある模擬店があってさ。一緒に来てくれないかなあって」
「珍しいね、いいよ行こ」
私は岩熊さんから初めてなにかに誘われて、舞い上がりそうになってしまったが、必死に抑えながら了承した。
「いなごの佃煮が売っててね。挑戦したくなって」
「へ!?」
あまりに似つかわしくない単語が口から発せられたものだから、三度目の変な声を上げてしまった。今日は岩熊さんに驚かされてばかりだ。
いなごの佃煮を売っている模擬店は空いていてすぐに目的のものは買えた。私と岩熊さんは大学構内の食堂に移動し、いなごの佃煮とにらめっこをする。
「これ食べても大丈夫なんだよね」
一つくらいなら食べてみようかな、とか思っていたが実物を見て怖気づいてしまった。
「さすがにその辺で捕まえてきたやつを出したりはしないでしょ」
「ほ、本当に食べるの?」
「そのために買ったんだよ」
岩熊さんは顔色一つ変えず、手で一つ掴み口の中に放り込んだ。
「うんうん、なるほど。おいしいね」
そう言いながら岩熊さんは食べ進めていく。私は食指が動かず、黙って食べている様子を見ていた。
私の絵に興味がないから話題にしないだけかと思っていたが、その実興味があったり、いなごの佃煮に挑んだりと、今日だけで岩熊さんの全く知らなかった一面が垣間見えた。今日はなんていい日なんだろうか。きっとこのことは私しか知らないのだから。
「うわ、なんじゃこりゃ」
突如男の人の声がした。驚いて声の主を見ると、岩熊さんに熱心に声をかけていた滝川君だった。
「いなごの佃煮」
岩熊さんはさらりと返す。
「こんなのも売ってるんだ。ていうか食うの?」
滝川君の顔が少し引きつっている。そこへさらに別の人が現れ、滝川君の腕に自分の腕を絡ませた。
「ごめん、お待たせ」
その様子を見て、岩熊さんが冷ややかな視線を向けた。どうやら彼女がいるにも関わらず熱心に岩熊さんに声をかけていたらしい。
滝川君の彼女の顔を見て、唖然としてしまった。そしてすぐに足元がぐらつくような感覚に襲われた。
「綾」
「れ、麗」
松田綾。私の幼馴染で、好きだった人で、人を好きにならないと決めた原因の人がそこにいた。
「ひ、久しぶり」
綾が絞り出すように声を出した。私は綾の顔が見れず、うつむいてしまった。
「二人、知り合いなんだ。ちょっとトイレ行ってくる」
岩熊さんの冷ややかな視線と、私と綾の微妙な空気から逃げ出すように、滝川君が立ち去った。
「どうして、いるの」
私は綾が、知り合いがいない土地に行きたくて京都の大学に来たのに。どうしてこんなところに。綾は東京の実家から近くの大学に通うと小耳にはさんだのに。
「彼のとこに遊びに。高校生の頃塾で知り合って、付き合ってるの。私は東京だから遠距離だけど」
そんな偶然があるのかと、叫びたくなってしまった。これで会話が終わってこの場から立ち去ってくれれば、余計なことを言わないでいてくれれば、別にそれで構わない。そう思ってだんまりを決め込んだ。
綾は私と岩熊さんを交互に見て口を開いた。
「二人ってどういう関係? その、もしかして」
私は綾の無神経な発言に思わず顔を上げてしまった。
それ以上は言わないで――。
「付き合っているの?」
「友達だよ」
綾と岩熊さんの声が重なったが、綾の言葉がはっきりと聞こえた。私はその場で倒れ込まないようにするので精一杯だった。
「そ、そうなんだ。麗はその……」
綾が言い終わらないうちに岩熊さんが綾の前に立ち塞がった。岩熊さんの方が頭一つ分大きく、綾を見下ろす形となっる。
「私の友達を困らせないで。彼も待っているだろうし、そろそろ行ったら」
岩熊さんの表情はこちらからは見えないが、声に怒気が含まれていた。怒ってる岩熊さんを初めて見た。
「そうだね、じゃあ」
綾は岩熊さんから目を逸らし立ち去った。
「私たちも行こうか」
岩熊さんは綾と滝川君が見えなくなるのを確認してから立ち上がった。
岩熊さんが私の様子がおかしいことを察して綾から守ってくれた嬉しさ、今後関わりたくないと思っていた人が突然現れた混乱、女の人が好きであることを暴露され岩熊さんに避けられてしまうかもしれない悲しさから頭の中がごちゃごちゃになってしばらく動けなかった。
我に返ると、岩熊さんと小さな部屋で二人になっていた。私たちも行こうか、と言われてからの記憶が全くなかった。
「私、どうして」
「記憶喪失の人みたいな台詞だね。ずっと上の空だったから状態としては近いのかもね」
岩熊さんが小さく笑った。
「ここは?」
私は顔を前後左右に動かしどこなのか確認した。
「私の部屋。恥ずかしいからあんまり見ないで」
小さなテーブルと座椅子が一つずつ、それにベッドだけの殺風景な部屋だった。私たちはテーブルをはさんで向かい合っていた。普段の私なら岩熊さんの家にいることに舞い上がってしまうのだろうが、今はとてもそんな気分ではない。
「全然記憶にないんだけど、その、なんで私は岩熊さんの部屋に」
「茫然自失って言葉がぴったりだったから、見てられなくて。人がいない場所なら落ち着くかと思ったけど、私の部屋しか思いつかなくて。どう、少しは落ち着いた?」
どうやら情けないところを見せてしまったらしい。
「ありがとう。あのとき、綾の言葉を遮ってくれて。でも」
綾ははっきりと、私が女の人が好きであると断言したわけではない。でも、二人は付き合っているのか、というあまりにもストレートな質問がそうだと言っているようなものだった。
綾が私の目の前に現れても余計なことを言わないでくれれば別に構わない。どうしてあんなことを。
岩熊さんが今まで通りに接してくれなくなるかもしれない、そう思うと恐ろしくて私は黙り込んでしまった。
長い間沈黙が続いた。私は綾のことを話した方がいいのか考え込んでしまった。岩熊さんもなんて声をかけるべきか分からない様子だ。
「綾は、さっきの人は」
私は意を決して口を開いた。
「幼馴染で、好きだった人なの」
自分で自分を制御できなくなっていた。喋りだしたら止まらない。岩熊さんは黙って聞いてくれている。
「気がついたら友達になっていて、いつも一緒に遊んでいた。綾は活発で、引っ込み思案の私をいつも引っ張てくれた。そんな綾を、気がついたら好きになっていたの」
私は一年とちょっと前のことを思い出していた。
「同じ高校で、やっぱりずっと一緒にいた。綾は結構モテるみたいで何度も告白されたらしい。けど全て断っていて。もしかしたら、と思って告白したんだけど」
あのときの綾の引きつった顔を思い出すと今でも胸が苦しくなる。
「違ったんだね」
岩熊さんがつぶやいた。
私は小さく頷いた。
「これで終わりじゃないの。告白して振られた、苦い思い出だけにはなってくれなかった」
私はうつむき、両手を強く握りしめて続けた。
「どうも綾は私に告白されたことを別の友達に相談したみたい。そしたら噂が広まって」
私は深呼吸をした。
「私の性格と偏見が相まって、少しずつ孤立していった。高校最後の一年間辛くて、だれも知り合いがいないと思って東京からわざわざ京都の大学に来たのに、まさか」
「なんともステレオタイプな人たちだねえ」
岩熊さんが私の言葉を遮って、呆れたように吐き捨てた。
「だれがだれを好きになってもいいし、逆にだれも好きにならなくても自由なのにね」
岩熊さんはどうやら恋愛に関してかなり寛容みたいだった。いや、人と深く関わらない、つまり人を好きにならない人間だからこその考えなのかもしれない。
「あの、岩熊さん、私はこういう人だけど、岩熊さんをそういうふうには見てなくて、その、これからも変わらずに友達でいて欲しい」
私の声はどんどん小さくなり次第に聞こえるか聞こえないかくらいの音量になってしまった。私の苦い経験なんかよりよっぽど伝えたいことなのに、岩熊さんの目を見てはっきりと伝えることができない。
「私は川田さんと友達でいたいから、一緒にいるんだよ。それはこれからも変わらないよ」
私はその言葉に驚き顔を上げた。
そこには岩熊さんの綺麗な笑顔があった。
自分の頬を涙が伝っていくのが分かる。変わらずに友達でいてくれる、そんな人はいなかったのに。岩熊さんははっきりとそう言ってくれた。私を肯定してくれた、それだけで救われた気持ちになり、心が軽くなった。そして、今この瞬間岩熊さんを愛おしいと思う気持ちが溢れ、胸を温かくする。
涙が引くまで時間がかかった。その間岩熊さんは黙ってその場にいてくれた。
「ごめん、ありがとう。もう大丈夫」
私は鼻をすすりながら言った。
「災難だったね。愚痴でもなんでも聞いてあげるよ」
岩熊さんは箱ティッシュを差し出し、私はありがとう、とつぶやいて受け取った。
「愚痴とかはないよ。岩熊さんが友達だって言ってくれるだけで十分」
岩熊さんは目を丸くしていた。
「そうなの? でも川田さんは好きだった人に裏切られて孤立したんでしょ。どうしてそういうふうに思えるの」
「裏切られたって言うのは語弊があるような……。綾は綾なりに信頼している友人に相談したんだと思う。悪いのはその友人と」
私はそこで少し言葉を切った。京都に来てからたまに高校三年のときを思い出しては考えていたことだ。
「誤解を解こうとしなかった私。女の人が好きというより綾が好きだっただけ。好きになったのがたまたま同性だっただけ。そのことをちゃんと伝えられていれば、もしかしたら理解ある人がいて辛い思いが多少はまぎれたんじゃないかなって思うんだ」
岩熊さんはやはり驚いた表情をしていた。そしてなにか考え込んでいるのか沈黙が続いた。
ふと窓の外を見ると真っ暗になっていた。長い時間お邪魔してしまった。
「こんな私でも友達でいたいって言ってくれて嬉しかった。本当にありがとう」
私はゆっくりと立ち上がった。
「長居しちゃったね。そろそろ帰るよ」
「本当に大丈夫? 泊っていったら?」
岩熊さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ありがとう、大丈夫。ちょっと一人で物思いに耽りたいというか、いろいろあったから感情を整理したいというか」
岩熊さんの家に泊まるというのは心惹かれた。でも、今の私はきっと感情を抑えることができずに取り返しのつかないことをしでかす気がしていた。
「そう。じゃあ気をつけてね。また大学でね」
駅くらいまでは送ろうか、という岩熊さんの提案を断り、私は岩熊さんの家を出た。
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