心をみせて
四国ユキ
第1話 岩熊さん
大学進学を機に東京から京都に引っ越してきて二週間が経った。大学生活や一人暮らしにも少しずつ慣れてきた。絵を描くのが好きなのと、友達ができるだろうと期待して美術サークルに入ったが、それほど活動的ではなかったため大幅に計画が狂ってしまい、いまだ友達と呼べる人がいない。
友達がおらず、サークルもなく、ましてやバイトなどしていないから土日は暇を持て余してしまう。
規則正しい生活を意識して朝八時には起きるものの、ベッドの上でどうしたものかと逡巡する。
「よし、せっかく京都にいるんだし観光してみよう」
私は意思を固めるために部屋の中でつぶやいた。スマホを取り出し、近くの観光地を検索する。
「天橋立か、ここにしよう」
私はまたも独りごち、部屋を出た。
「おお、すごい」
感嘆の声が自然と漏れ出す。桜の花びらが舞い、青い海と緑の松が鮮やかでネットで見た写真より綺麗だ。
スケッチブックを持ってくればよかった。今度から観光地へ行くときはスケッチブックを持っていっていろいろな風景を描いてみよう、楽しみが増えた。
私は綺麗な景色と、絵を描く題材に困らなそうなことで心が弾んだ。
そんなことを考えていたら、地面に直接座り込み、スケッチブックに絵を描いている人を見つけた。私は同じようなことを考えている人を見つけて嬉しくなり、後ろから覗き込んでしまった。
「うわ、上手」
私は絵の綺麗さに思わず驚きの声を上げてしまった。
絵を描いていた人がはじかれたたように振り向いた。
「す、すみません。勝手に見てしまって。その、あまりにも上手だったので」
私はうつむいて、慌てて言い訳を並べた。一人で自由に絵を描いていたところに急に話しかけられたら不快に思う人もいるかもしれない。無遠慮な自分に少し嫌気が差す。
「あ、いえ、大丈夫です。……川田さん?」
自分の名前を呼ばれて顔を勢いよく上げた。彼女の絵に見惚れていたのと、急なことで顔を見る余裕がなかったが、顔を見て同じ学科の岩熊さんだと気がついた。
「私のこと知ってるんだ」
岩熊さんは艶やかな長い髪が特徴の美人で、明るい性格なのかいつも周りに人が絶えない。一方で私は内気な性格が災いして、大学で友達と呼べる人はまだいないし、岩熊さんとは一言も話したことがない。そんな岩熊さんが私のことを知っていることにうろたえてしまう。
「うん、同じ学科じゃん。覚えてるよ。川田麗さんでしょ」
岩熊さんが笑顔で答える。美人の笑顔はまぶしくて、私は少しドキリとした。それに下の名前まで覚えているなんて。
なんとか会話をつなげたいと思い、私は気になっていることを聞いた。
「岩熊さん、絵描くんだ」
「うん。頭を空にして、目の前の風景に集中できて好きなんだ」
「もしかして、美術サークルに入ってる?」
私はこっちに来て初めて友達ができるかもしれないと、期待に胸を膨らませた。
「特にそういうのは入ってないよ」
「サークルで一緒に絵描かない? 一緒に絵を描ける友達が欲しかったんだけど、サークルの人たち全然活動してなくて」
岩熊さんは困った表情を浮かべていた。
「ええと、一人で描くのが好きなんだ。だからあんまり、サークルとか興味なくて入る予定はないんだ」
「そうなんだ。一緒に絵を描けたら楽しいかと思ったけど、残念」
「悪いね、せっかく誘ってもらったけど」
「気にしないで」
私は愛想笑いを浮かべながら、右手を顔の前で左右に振って答えた。
しばし沈黙が続いた。私は少し気まずく思ったのと、一人で絵を描くのが好きだということを思い出した。
「ごめん、邪魔しちゃった。またね」
「大丈夫、またね」
岩熊さんは笑顔で、手を振ってからスケッチブックに顔を戻した。
私は足早にその場を後にした。
大学に入学して早々、同じ学科にすごい美人がいるな、とは思っていた。いつもだれかといるし、話しかけ方が分からなかったから一度も話したことはなかった。
でも共通の趣味があるなら仲良くなれるかもしれない、私は内心ウキウキしていたが、気持ちを落ち着かせるために一度深呼吸をした。大学で友達ができなくて不安だったところに、話が合いそうな美人がいただけ。友達になりたいだけ、美人で私好みの顔だからって好きにはならない。笑顔を向けられたときは危なかったけど、二度とあんな思いをしたくないから、友達ではない特別な関係になろうとしてはいけない、私は自分に言い聞かせた。
「川田さん、ここいい?」
大学の食堂で一人寂しく昼食を食べていたら、名前を呼ばれた。目の前には岩熊さんがいた。
「い、岩熊さん」
岩熊さんから話しかけられ驚いてしまい、お米を喉に詰まらせそうになってしまう。
「大丈夫だよ」
「じゃ遠慮なく」
岩熊さんが目の前の席に座った。まさか、昨日の今日で一緒にご飯を食べることになるとは。
「昨日言いそびれちゃったんだけどね」
岩熊さんは人差し指で右頬を掻きながら口を開いた。
「私が絵を描いていることは内緒にして欲しいんだ」
意外なことを言われ少しの間返答に困ってしまう。
「え、うん、それはいいけど。でもすごく上手だったし、隠さなくても」
私は岩熊さんの絵に対する素直な感想を述べた。それに、悲しいかな岩熊さんが絵を描いていて、しかもそれがすごく上手であることを言う友達がいない。
「上手い、下手とかそういうのじゃないんだけど、その」
言いづらい事情でもあるのか、歯切れが悪い。岩熊さんが一人で絵を描くのが好きだって言っていたことを思い出した。
「あ、もしかして、サークルとかに勧誘されるから? 一人で絵を描くのが好きだって言ってたもんね」
「ああ、うん、まあそんな感じ」
中らずと雖も遠からず、本心は別のところにある、そんな印象を受けてしまう。
「内緒にして欲しいことは言わないよ、大丈夫」
だれにでも、知られたくない自分の一面というものは少なからずあるものだ。自分の苦い経験を思えば、隠し事を簡単に他人に教えたりすることなんて絶対にありえない。
「ありがと」
岩熊さんが笑顔で答える。私はまたしてもドキリとしてしまった。美人のこの笑顔を向けられたらだれでもときめいてしまう。
しばらくの間二人で黙々とご飯を食べた。
「岩熊さんは、一人暮らし?」
岩熊さんと仲良くなりたいのと沈黙が少し気まずく、聞いてみた。
「うん、そうだよ」
「一人暮らしだとさ、結構暇な時間ができるよね。家でだれとも話さないからさ」
しまった。友達が多そうな岩熊さんが暇を持て余すなんて考えられない。友達のいない寂しい人間だと思われてしまうのではないか。
「分かる分かる。講義が少ない日なんて特に」
意外な答えが返ってきた。遊びに誘われることが多く、暇を感じることなんてない人だと思っていたから。
「結構暇だから、バイトでもしようかなとか考えてるんだよね」
なにやるのと、聞こうとしたとき、甘えるような声を出しながら会話に割って入ってきた人が現れた。
「美波い」
「ん?」
岩熊さんが声のした方に顔を向ける。私もつられて顔を向けた。名前は知らないが、同じ学科の女子だ。
「ねえねえ、合コンするんだけどさ、来てくれない? お願い、いい人一緒につかまえよ」
突如現れた彼女は、両手を岩熊さんの肩に置き、顎を岩熊さんの頭にのせた。
「今日、バイトなんだ、また今度誘って」
え、と思わず声を出しそうになった。さっきの会話だとバイトはしていないようだけど。
「じゃあしょうがないか、また今度ね」
その人が立ち去ったのを確認してから気になったことを聞いた。
「バイトはしてないんじゃないの?」
「合コンとかそういうの興味ないからさ。ついね」
岩熊さんはまた人差し指で右頬を掻いた。困ったときに出る癖のようだ。
「内緒にしてね」
「内緒が増えていくね」
私たちは笑いあった。
それから岩熊さんと行動をすることが増えた。私から声をかけるのではなく、なんと岩熊さんから声をかけてくれるのだ。岩熊さんは相変わらず人気者で、いつも私と一緒にいるわけではないが、少しずつ仲良くなっている気がしていた。
岩熊さんについて分かったことがある。とにかくモテる。やはり、美人で愛想がいいからなのか、頻繁に声をかけられている。今岩熊さんに話しかけている同じ学科の滝川君は特に熱心だ。
「ねえねえ岩熊さん、この前の話考えてくれた?」
「この前? なんだっけ」
岩熊さんが首をかしげた。
「えええ」
滝川君が大げさにのけぞる。
「デートしようって話してたじゃん」
「そういえばそんな話してたね」
「遊園地とかさ、海とかさ、行こうよ」
「しばらくバイトが忙しそうだし、遠慮しておく」
「岩熊さんに合わせるからさ、予定教えてね、じゃ」
滝川君は岩熊さんの反応を待たずして、一方的に言いたいことだけを言い、その場を立ち去ってしまった。
岩熊さんが小さくため息をついた。
「岩熊さんって、モテるよね」
「うーん、そうだねえ」
さすがは岩熊さん、否定はしない。これだけ顔が綺麗なのだから告白された回数なんて両手じゃたりないだろう。
「もしかして、彼氏がいるとか」
私が知る限り、女友達からの合コンも、男友達からの遊びの誘いも断り続けているのはもしかして、と思い、意を決して聞いてみた。岩熊さんのプライベートなことを少しでも知りたい。
「いないよ。そういうのあんまり興味なくて」
岩熊さんは人差し指で右頬を掻いた。
岩熊さんについて分かったことがもう一つある。それは人と深く関わろうとはしないこと。だれとでも明るく楽しそうに振る舞っているが、今みたいに人から誘われても首を縦に振っているとこを見たことがない。そんな岩熊さんを知っているから、私からなにかに誘ったりしたことはない。勿論、岩熊さんからどこかに遊びにいこう、なんて誘われたこともない。寂しい、もっと仲良くなりたいと思う反面、これでいいと思っている自分がいる。仲が良くなるにつれ岩熊さんを好きになることは火を見るよりも明らかだ。だから今くらいの距離間がちょうどいいのだ。
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