2日目

2日目その1



 なにか不安を感じてガバリと起きた。


 起きたと言っても上半身は起き上がる途中で力尽き、再びパタリと横になった。


 異変に気づいた。今まで俺の隣にあった温かい存在、あの大きな女性の姿がなかった。


 四方を見渡してもシーツの平原と城壁のようなベッドの柵だけで、あの暖かな山脈が消えている。


 「ふぇぇぇえええん!」


 感情がダイレクトに出すぎる。俺は大声で泣いていた。情けない話だが、突発的感情をまだ抑えられないのだ。


 まったく大人ではないのだ。全身いたるところが赤子なのだ。


 鳴き声が部屋に響く。その部屋の広さも俺は知らない。


 バタバタという音とともに、あの女性がやってきた。


 「あらあら、ごめんね」


 彼女は急いでいる様子だがゆったりとした動き。まだしっかり動ける状態ではない。ほつれ髪の前に垂らし、泣いている俺の顔をその大きな両手で包んだ。


 しっかりと抑えて俺の顔を自分の顔に向ける。


 「おはよう、私の大事な人」


 彼女が注いだたった一滴の安心感が、俺の心のなかで大河となって、心の隅々まで満たしてくれた。


 「あぶぅ」


 小さな挨拶の言葉が出た。それを聞いた彼女は俺の頬をむにむにと動かす。


 「まっててね」


 そう言って彼女は離れていった。俺の中の寂しさは氷解していた。


 彼女にも色々しなくちゃいけないことがある。食事にトイレ。生きていくための仕事がある。産後すぐに働くとは思えないが…


 「この世界の文明度がわからない。下手したら産後すぐに働く必要があるかもしれない」


 産後の休養が与えられるのは、その社会の成熟度と比例するはずだ。彼女がそのようなつらい状況でないことを、俺は祈り、彼女の負担にならないように静かに待っているしかない。俺は道理をわきまえる赤子なのだ。


 俺は首を伸ばしベッドの柵の向こうを見ようと努力した。高い城壁の向こうにある壁、そして窓が見えた。


 窓から入ってくる強い日差し。陽の角度が今が朝だということを知らせてくる。産まれた時、俺の視力は限りなく弱く、周囲の状況がわからなかったが、正確無比な体内時計が28時間程度経過しているのを知らせてきた。


 「しかし、この世界の一日って何時間なんだ?いや、時間の概念はあっても時計がないかもしれない。アバウトに30日を計算しなくちゃいけないのか?」


 その時、ピコンという音と共にステータスが勝手に開いた。


 ステータス表に時計が追加されていた。


 「…あの神様、気を効かせてくれてるのか?」


 時計と経過日数が追加された。


 時間は朝の7時…今日は第2日目…。


 「残り、28日か…」


 人生は短すぎる。


 


 「あら、もう起きちゃってるの?」


 部屋の隅から甲高い声が聞こえた。この声に馴染みがある。俺を取り上げた産婆の声だ。


 俺は首を伸ばしてそちらを見る。はるか先で二人の巨人が楽しげに話している。


 「そんな寝てられないよ」


 「マリー、しばらく寝てなきゃだめよ。ほら食べ物だった、私が用意するから」


 マリー。


 それがあの人の名。この世界から私を守る、たった一人の女性の名前だった。


 産婆が近寄ってきた。産婆とは言っても老婆ではなくまだ中年といった感じの女性だ。


 「あら、まぁまぁ。やっぱりおっきいわねー。取り上げた時もびっくりしたけど、改めて見てもおっきいわー。マリー、頑張ったわねぇ」


 「そんなに大きいの?」


 「そりゃそうよ、これは、普通なら生後一年ってくらいの大きさよ。ほら、手足もすごいしっかりしてる」


 産婆が俺の手足をブンブン振って肉付きを確かめている。


 「名前、あるんでしょ?」


 「ええ、ルーン。あの人がそれがいいって、ずっと言ってたから」


 「そうだねぇ……、そういや似てるね。旦那に」


 「そうね、でも私のほうが似てる!」


 「…さ、料理食べなさい。あんたはとにかく食べて元気になって、赤ちゃんにお乳をいっぱいあげないと」


 二人は俺のもとから離れていった。


 


 俺は二人の気配が消えたあと、首を伸ばした。部屋の観察をしなくてはいけない。


 「とにかくこの状況を、一歩づつでも変えなければ…」


 部屋を見渡すと、本棚があった。まず本という文化、書物、印刷?


 壁に地図が貼ってある。


 「ラッキー!あれが第一攻略目標だ。あれを見れば現状を手早く理解できるはずだ」


 くるりと一周を見渡したあと、疲れてベッドに横になる。


 「思ったよりも本が多い。文化資本に富む家庭のようだ。しかし…」


 旦那の姿は見えない。そして彼女の会話の内容と、その時の表情。


 「辛いことがあったみたいだな」


 俺の親となるべき人物、そのうちの一人の不在は、確かなようだ。


 ステータスを開く。


 完成された魅力以外、ゼロが並ぶ能力値たち。


 昨日から加速度的に数値が増えているが、それは全て小数点という水面下での出来事で、水面の上には氷山のかけらも見えてこない。


 「…やるしかないか…」


 俺はベッドの上でわずかに稼働する背筋を駆使して腰を上下させる。


 「フッ!フッ!フッ!フッ!」


 世にも珍しい、筋トレをする赤子だ。


 前世では一度も真面目にやったことがない筋トレを、赤子となった今、本格始動。


 右足を上げる、おろして左足を上げる。


 左を上げて、右を上げて。


 「アブ、ウー、アブ、ウー」


 足上げ腹筋をする赤子…


 おそらくこの映像だけでも金になるだろう。バズってしまうだろう。そんなことを考えながら肉体を酷使していく。


 開きっぱなしのステータス表の、体力、力、素早さの項目が加速する。小数点の先にある末尾が、火がついたように加算が増えていく。


 寝ながら手足を広げて大の字になる。それを閉じて開いて繰り返す。


 仰向けになり腰を上下させる。背筋と腹筋を燃焼させる。


 「腕た…てェ…」


 腕立て伏せをしようとするが、手足が短すぎる。上体そらしにしかならない。それでも必死に繰り返した。


 ステータスの水面下から数字が迫ってくる。「9」の文字が「0」の泡をくぐり抜け水面へむけて加速して昇っていく。


 


 「ふっ!ふっ!ふっ!」


 ベッドの上で孤独に鍛える赤子。


 「俺は虎だ!前世で失った虎の眼を取り戻すのだ!」


 運動のしすぎで変なハイテンションになっている俺。


 ついに、ステータスの一つ、「体力」が。


 水中から加速して昇ってきた「9」の数字が、小数点の水面に激突する。


 「0」が「1」へと生まれ変わった。


 「!」


 ファンファーレが聞こえた。無力な赤子が生まれ変わった、成長を知らせる祝福のラッパの音が響く。


 ドン!


 両足が勢いよくベッドに叩きつけられる。


 シートが波打ち岸壁たるベッドの柵に波が当たり、シーツがしぶきの様に跳ねた。


 足が作り出した勢いが、腰に伝わり、バネのように上半身が起き上がる。最大重量を持つ頭部が地面から飛び立った。


 視界が高くなる。今、人類はゆりかごから立ち上がる!


 2つの足がベッドにしっかりと立ち、その上には胴体があり、その上に頭部が載っている。バランスは良好、倒れる様子もなし。


 二足歩行だ!


 人類の夜明けだ!


 「ツァラトゥストラが聞こえるぜ~」


 俺はついに立ち上がったのだ!




 産まれてからわずか、1日と8時間後のことであった。


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