1日目その2



 「寝ちゃダメじゃん!」


 バッと目を覚ました俺であったが、相変わらず頭が重すぎて上半身が起こせない。


 隣に寝ている女性の背がゆっくりと揺れている。さすがに眠ってしまったようだ。俺はその隣でジタバタと体を動かし続けた。


 寝る前に比べると体の神経が隅々までいきわたっている感じがするし、視界もボケが薄まりクリアーになっている。


 「生後45分で、けっこう体ができあがっている?」


 俺は手を握り、拳を作る。蚊も殺せなさそうなやわらか拳だ。その拳でシャドーボクシングをする俺。体を起こせないので寝たままシャドーだ。しばらくやって、虚しくなってやめた。


 ベッドから体を起こせないため、周囲の状況がわからない。薄暗い天井しか見えないため、今が何時かも分からない。だが、体内時計が精密な時を刻んでいるため、今が産まれてから4時間後だというのがわかる。


 「体の性能がいいと、体内時計も超高精度だな」


 今のところ、エスナインアール転生の恩恵というのは、この正確無比な体内時計だけである。俺の人生は、この赤ん坊の体で30日間を正確にカウントするだけの人生になりそうだ。


 「どうすりゃいいんだ~~、人生終わってる~~」


 産まれて4時間の俺は、早くも自分の人生に絶望した。


 ピコン


 という音と共に目の前にウィンドウが開いた。


 視界に重ね合わせたように白文字の表が目の前にある。


 「ステータス表?」


 これもエスナインアール転生の特典なのか、そこには俺のものを思われるステータスが書かれている。


 「名前 未定


 *ステータス


  体力   0.00000000000


  力    0.00000000000


  素早さ  0.00000000000


  賢さ   1.000000003


  魅力   30


 」


 「これが…俺のステータス?」


 俺は短い腕で空中に浮かんだその表に手を伸ばしたが、実体はなく手が透けて通った。


 ご丁寧にゼロが並んでいる。


 しかし、賢さは1ある。人並みってことなのか、そして魅力はすでに20ある


 「赤子だからな。誰でも可愛いって思うか」


 思わずニヒルな笑みを浮かべる。鏡は見てないが、赤子には不釣り合いな表情だったはずだ。


 「あれ、このステータスの数字…動いてる?」


 ゼロ以下の小数点、無数のゼロの下にある数字がものすごいスピードで増加している。


 数字が高速で回転し1が9になり0になると、一つ桁が上がった。


 一番下の数字は高回転を繰り返し、ひとつ上の桁をゆっくりと上げる。その動きがさらに上の桁を動かし始める。


 数字はダイナミックに動いているが、その結果が小数点の上に到達するためには…


 「30日で到達したら大したもんだな」


 俺は数字の健気な動きに飽きて寝返りをうった。


 その時、体力と力と素早さの数値がグンと動いた。


 「?」


 俺は、もう一度。今度は逆方向に寝返りをうった。


 また数字が跳ねた。


 「お?お?お?お?」


 俺は何度も左右に寝返りをうつ。そのたびに加速する数字が楽しいからだ。


 「あひゃひゃばぶ~」


 喜びに思わず声が出た。言葉にならない赤ちゃん語だ。


 ステータスの数字はまだ、小数点のはるか下だが、この調子で行けば…


 「たのしそうでちゅね」


 いつの間にか、隣で寝ていた女性がこちらを向き、俺のバカみたいな寝返りダンスを見ていた。


 俺は冷静になろうとしたが、体がハイになっていた。動きが止まらない。


 俺の体は彼女の上半身よりも遥かに小さい。その大きな彼女の顔は出産の疲れが肌の荒れとして現れ、目に隈もできていた。だが薄暗闇の中に爛々と輝くその瞳には、俺という人物に対しての、圧倒的な慈しみがあった。 


 人の瞳にこのような輝きが宿るということを、俺は知らなかった。


 「ルーン」


 彼女の口から発せられた言葉が、俺の生まれたての鼓膜を震わせた。


 「ルーン・エスアル。それがあなたの名前。あなたのお父さんが遺してくれた、あなたの名前よ」


 俺の停止した感情に関係なく、ステータス表が開き、そこに欠けていた情報が追記された


 「名前 ルーン・エスアル」


 俺のこの心の震えはなんであろう。


 新しい学校、新しい職場、新しい仕事。


 いくつも渡り歩いてきた。


 だが、新しい人生を与えられたのは初めてだった。


 その意味するところは無限に続く、新しい道への接続だ。


 たった30日であったとしても、それは俺に新しい「全て」を与えてくれる。


 声がつまり、感謝の言葉も出ない。


 もっとも今の俺ではせいぜい「バブゥ」と言うのがせいぜいだろう。


 どう生きる?この人生を


 そんな深遠な悩みが俺の脳内に満ちた瞬間に。


 「お腹すいてるよね」


 彼女は俺の体を持ち上げて、自分の膝の上においた。


 彼女はなんのためらいもなく、寝間着の隙間を開き、下着もつけていない大きな胸を外に持ち出してきた。


 大きい、白い。


 大きいと思ったのは俺の体が小さいからだろう。それでも大きいと思えた。顔のサイズと比較して、かなりの大きさだ。


 「バブゥ…」


 ため息が言葉となって出た。


 俺の前で片方の乳を出した女性がいる。


 どうする?どうしたらいい?


 人生初の…いや、かなり過去に一度だけ体験しているはずだが、当然覚えていないし、あの時は本能に任せて無我夢中だったので…


 彼女が俺を持ち上げ、自分の胸に近づけていく。


 理性が警鐘を鳴らしている。ガンガンにだ。


 視界の8割が白い肌。そして2割が桃色になる。


 俺にだってプライドがある。


 赤ちゃんプレイは俺の前世の性癖に入っていない。一度もネタとしても…


 鼻孔に女性の香りが侵入してきた。脳のタガが軋みだす。


 唇の先に発火しそうなほどの熱を感じる。桃色の熱が唇のわずか先にまで迫っている。敏感な唇の神経がその熱を感じて震える。あともう少しだ。


 ぎゅむ


 顔全体が柔らかな壁に押し付けられ、顔面いっぱいに変形した柔らかなものが接触した。


 彼女も初めての体験で、その加減がわかっていなかったようだ。


 唇に、硬いものがあたった。


 その瞬間、理性は片付けられ、脳の奥にまとめて捨てられた。


 ちゅばちゅば、と勝手に唇が吸いだしていた。本能が無我夢中で動き出していた。


 全身を暖かく柔らかいものに包まれている。


 そして、口の中にはそれと同じように暖かで柔らかなものが流れ込んでくる。


 皮膚も内蔵も、同じ暖かさの中に溶けていくような恍惚感。


 俺はさっきまであった全ての不安を失い。


 一心不乱に乳を吸っていた。


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