晩酌

ナガヲ

晩酌

「ただい……」

 その瞬間視界を覆った一面の湯気に、「ま」は奪われてしまった。ゆらゆら揺れる白い芳香の奥、満面の笑みが碧生に向く。

「あ! おかえり碧生(あおい)!」

「……ただいま、環(めぐる)」

 なんだか、じん、としてしまったのを悟られたくなくて、碧生は小さな声で呟く。それを知ってか知らずか、環はその顔をさらに綻ばせた。

 まだもうちょっと準備があるからその間に着替えてて、と部屋に環によって部屋に押し込まれた碧生はモソモソ着替え、ついでに部屋の中もあらかた片づける。ワンルームマンションの換気設備はあまりよろしくない。扉を開けたままにしておくと、廊下に備え付けられたキッチンからの匂いがダイレクトに部屋にくる。ひどいときは数日部屋にその匂いがこびりつき、眠れなくなったこともあった。環はそれを嫌ってわざわざ閉めきった廊下で料理をしているのである。

「おまたせ~」

 ちょうど碧生が机の上を片し終えたところで、行儀悪く扉を足で開けながら環が現れた。器用なことに腕までにも皿を載せ、それらを危なげなく机へ並べていく。手慣れたものだ。

「あ、おまえそれ」

「あは。あんたこれ好きだし明日休みって言ってたからたまにはいいかなって……って碧生それ!」

「ふへ、そういう環も休みでしょ。ちょっとくらい贅沢しようと思って」

 いたずらっ子のような笑顔でおもむろに取り出すのは、碧生の膝元にしれっと置かれていたビニール袋。湯気の立ち込めたキッチンでは環は気づかなったが、帰り道で買ってきていたらしい。

 互いのお気に入りが所狭しと広げられた卓を挟み、顔を見合わせて笑う。どうやら考えていることは同じなようだ。深夜零時半、二人の晩酌が始まった。

 環は料理がうまい。庶民的な弁当から、やろうと思えばホテルで食べるようなフルコースだって作れるが、いちばんの得意分野は「おつまみ」だ。酒の肴になるような味の濃い、多少手の込んだように見えるが実はそこまで込んでいない料理を作らせれば、そこらの居酒屋より豊富なレパートリーを持っているのである。

 碧生は自分のお気に入り──にんにくのホイル焼き──をいの一番に口に放り込む。途端強烈な香りが鼻を突き抜け、ホクホクしたそれを噛んで飲み込めば胃まで香りで満たされるようだ。ちなみに以前眠りを妨げた匂いの元凶もこれである。

スキレットごと抱え込み幸せそうな碧生を見て、環は安堵したように笑った。

「超うれしそう。ほんとに好きだよね、それ」

「当たり前でしょうが……何か月ぶりだと思ってんの……」

「まあ次の日仕事とか予定あると食べられないもんねえ。なかなか休み被ることもなかったし」

 多めに作ったが、この様子では全部碧生が平らげてしまうだろう。にんにくと感動を口の中で一緒に噛みしめているらしい碧生の前に、口直しのきゅうりの浅漬けや冷奴が載った皿をサーブしておいてやる。

 環もまた、豚の角煮をつまみつつ自分のお気に入り──瓶入りのリキュール──に手を伸ばした。ビニール袋の中にはロックアイスまで入っていて、碧生の気遣いに感謝しながらグラスに注ぐ。カロン、と小気味よい音を立てて氷を浮かす液体は透き通った黄緑色。このリキュールは様々な種類が展開されているのだが、環はこのグリーンアップル風味のものがいっとう好きだった。度数はあまり高くないが、アルコールと炭酸にぱちぱち喉を焼かれる感覚が楽しい。

「相変わらずいい飲みっぷりで」

「はは、ありがと! 碧生も飲みなよ、注いだげる。あれ、なにこれ新しいやつ?」

「そうそう。人気らしくて見かけたことなかったけど、今日たまたま見つけてさ。違う味も買ったから、それ空けたらおまえも飲んでみ」

 喜ぶ環を横目に、ギョーザ皮のピザを頬張る合間にグラスをあおる。ところでこの碧生というのは、たいへん酒に精通した人間であった。スーパーで売っているものから「そこそこ」なバーに行かないと口にできないものまで、若いながらもよく知っている。環に例のリキュールを勧めたのも碧生だった。

 そんなこんなでウィン-ウィンな関係の二人の晩酌は続く。トロトロ半熟の味玉には王道のビール。たくさんの氷でうんと冷やしたハイボールには箸の止まらない塩キャベツ。冷凍庫に眠っていた明太子も、白米に乗せて梅酒と合わせれば立派なおつまみだ。デザートのイタリアンプリンには、カルーアミルクのほろ苦さがよく合った。

 若者の宅飲みともなれば、さぞかし見苦しいものが連想されるかもしれないが、この二人はそういった雰囲気とは無縁なのだった。碧生も環も、いわゆる「静寂が苦でないタイプ」であり、会話はほぼなく、黙々と食べ、飲み、ただ舌鼓を打って、たまに食器を流しに運び、換気を挟む。これは心地よい静寂であった。

 午前二時になるころ、食器とゴミを簡単に片づけ終えると二人してラグの上に倒れこむ。

「久しぶりにあんな飲んだし食べた……おいしかった~」

「な……面倒だしもうこのまま床で寝るかあ」

「あはは! 前もそうだったよねたしか」

「そうだっけ。起きたら昼になってるだろうけど、まあいいよな。だって明日は」

 休みだし! と、声が重なって、笑う。そうして先ほどまでの宴の名残を感じる空気の中、泥のように眠る。いつだってこれが、二人の幸せな休日の始まりの合図だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

晩酌 ナガヲ @osaki_bakuchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る