虚しいだけじゃないですか
あり得ないことが起きた。旅帰りの明朝、植え替えをねだるマンドラゴラの叫びと共に目覚め、何気なく膝を曲げて立ち上がったとき、私は自分の行動に致命的な違和感を
おそるおそる
脳裏に浮かんだ短文の意味をすぐには
脚だ、いびつだが脚の形状をしている。
そんな馬鹿な!
人間をはじめとした霊長種が生まれながらに持つ、二足で大地を蹴るための器官。
背筋は
真っ先にフーカの魔法による後遺症を疑ったが、魔力の痕跡は微塵も感じられなかった。
仮に魔法だとしても、この脚は、フーカに引き取られる以前の私が描いた下手くそな絵に酷似している。それを彼女が知る
いつもは腐植土ベッドからプランターに移る際に利用する
よし、一旦落ち着こう。
過呼吸で死んでしまっては元も子もない。
とりあえずマンドラゴラの土を
扉の手前で足を止め、私は身に余る幸福を噛み締める。たっぷり十五秒ほど放心し、倒れるように体重をかけた。開閉におどろく真鍮の
……歩けた。歩けてしまった。ほんとうに、うれしくて、それ以外の言葉が出てこないや。砂利を踏むと痛いし、朝日が
やったー!
なんてね。
どこまで行けるか試そうとしたり、営業日だから遅くなると迷惑をかけるかもしれないと引き返したり、葛藤しながら往復をするうちに疲れてきて、人通りが少なく
脚のおかげで身長が伸びたけれども、窮屈そうに立ち並ぶ建物は相変わらず私よりも高く、奇妙な形の雲もうんと高くにあった。
店内に戻り、楕円の姿見に脚を
「で、朝起きたら脚が生えてたと?」
「はい……」
「涙も流れる」
「はいぃ……」
涙でさえ、私には流せなかった。涙腺の獲得は願ってもない話だ。
「
フーカが
「ふーん……でもまぁ、あんたは長生きだし、生きてたらそういうこともあるんじゃない」
「あるわけないでしょうッ!」
蔓を実験台に叩きつけたはずみで涙が引っ込む。ずっと泣いていると悲しくなるし、途方に暮れていたので助かった。
「こらこら、アイル。落ち着きなさいって。さっきから検査してるけど、呪いや魔法の
「全然違うのが混じってたような……」
「細かいことは気にしない。なんにせよ夢に近づけたのはいいことじゃない。明日には性欲と生理が来たりしてね」
「いまいち魅力に欠けるものばかり」
「あたしたちには大事なのよ?」
「そうでしょうけど、フーカさんを見ていると、生きるのは大変そうだなぁって思いますもん」
たとえば彼女は約二十八日周期で不機嫌になったり、日ごとに平均して一回前後の排便をし、食事の他に適度な運動や異性との交わりなどで英気を
共通項の排泄ひとつを取ってもこれだけの違いがあるというのに、生理や自律神経の好不調、果てに自慰や性交渉が加わるともなると、大変そうだと思わずにはいられない。
「なによそれ」とフーカは笑った。「あたしからすると擬態のほうがよっぽど理解しがたいわ」
「呼吸みたいなものですからねえ」
ほどなく検査結果をカルテにまとめ終えた彼女に、ついでの流れで
フーカは寝巻きの上から仕事着のローブを羽織るという、いかにも起床直後を連想させる格好をしており、そのため寝癖がすごいことになっていたのだ。
自分の身だしなみを整えるよりも私を優先してくれた彼女に感謝しつつ、蔓に力を
その都度やり方を教えてもらい、想像のコツを掴み始めたあたりで疑問に衝突する。
「どうして涙なんでしょうか。
百歩譲って脚まではいい。願ったのだから、大いなる力を秘めた何かしらが聞き届けてくれたと解釈できる。だが涙までは望んでいない、はず。
「粋な計らいというやつよ。あんたの努力を見守っている、口下手な神様なりのね」
それから出来栄えを手鏡で確認したフーカは、また練習しましょう、と言うに
私は
「私、べつに神様に褒められるほどの努力はしていませんけどね。強いて言うなら働いたり、お絵描きとかでしょうか」
「ふふ、そういうところが凄いのよ。昔のあんたはどうだった? 人に近づこうとする努力も、食欲を抑える努力も、あんたが意識すらせずに続けているそれは、もはや努力という言葉では足らないわ。自分に誇りを持ちなさい。……ていうか、なによ。ぽかんと口開けちゃって」
「……フーカさんがそこまで褒めるとは思わなかったので。私のことを
フーカとの関わりは長く見積もって一年近くある。それだけの時間があれば、季節と同じように私たちの関係も移ろう。
当初はライバル視していたり、嫉妬したり、反発したりする時期もあったが、今ではフーカの人となりが好きだったし、憧れを抱く人間のひとりだと思っている。
彼女も私に対し、何か思うところがあったのかな。こうも直接言語化されると背中がむず
「あら、意外と根に持つのね。世界最強のアイルさん」
「なっ、なっ……! なんでその恥ずかしい会話を知ってるんですか! 〈盗聴〉ですか、そうですか」
「まさか。
「うぅ、まったく、かれは無神経でどうしようもないひと」
深い溜息を吐き出し、
「ところで、気になることが――」
帰路について
そちらを見る。どうやらフーカの使い魔である〈
「脚のこと、クエレに使い魔で
「よかったじゃないですか。ジェイドさんが嫉妬しちゃいそうです。あのひと、フーカさんのこと大好きですから」
「ちがうちがう、あんたを誘ってんのよ」
「ええっ、私ですかッ?」
「しかもあいつけっこう気合入ってるわ。アイルを初めての王宮街に連れて行きたい、ってさ。あんた、あたしやジェイドと何度も行ってるのにね」
「きらきらの街!」
「せっかく
「はーい。俗にいう、点数稼ぎ、ってやつですね!」
「ひと言多いのはクエレ似ね……。ま、いいわ。より高得点を目指すために、今回はメイクをしてあげる。あんたの素材はいいんだから、宝の持ち腐れは嫌でしょう」
「さりげなく自慢してません?」
「気のせいよ」とフーカは惚けたふうに微笑み、指を鳴らしてローブを胸当てエプロンに着替えた。「まずは腹ごしらえ! 朝ご飯なにがいい?」
「お肉!」
はいはい、と半ば呆れたトーンで返される。そして研究室から出て行こうとする彼女のたすき掛けを、私は引き留めるつもりで控えめに絡め取った。
結び目がするすると
私は、紐を掴んだ状態で首を横に振った。話すべき内容の出だしが
緊張をほぐすため、一度、周囲に意識を散らす。私のトリミングサロンでもあるこの部屋はフーカの第二の職場であり、実験器具と山積みのレポート、難解な専門書、雑多で収納に困るものなどによる圧迫感が
扉の脇には順に人間の背丈をゆうに超える観葉植物、青臭い香りを放つ保冷庫、沈殿物がへばりついたフラスコだらけの棚、彼の手癖が垣間見えるガラクタ扱いの
おかげで肩の力が抜ける。勇気を味方につけた私は、すっくと席を立った。
「夢のことなんですが、やっぱり、人間になるのは辞めました」
「脚を手に入れたのに?」
「はい」
「ほかに叶えたい夢ができたの?」
「ええっと……答えるのは難しいかも、です」
脚を手に入れることが新しい夢だったのだが、叶ってしまったので、どう説明したらいいのかわからない。
「じゃあ、なんで夢を変えたのか
私はすこし、考える。
ずっと疑問に思っていたことがある。ヒトに擬態したアルラウネ。ヒトに近づいたアルラウネ。ヒトになったアルラウネ。私はいつ、アルラウネではなくなるのだろう?
「……人間になったアルラウネを、フーカさんは愛せますか?」
彼と同じ生き物になれば、私は愛されると勘違いしていた。今までは遠すぎて見えなかったのだ。
「異性として、で間違いないわよね」
私は沈黙を
ペットと主人ではなく、対等な立場で
曖昧な言葉で
魔力の動揺は雄弁であった。あの天才が
「あなたは優しいので、嘘でも愛せると言うでしょうね。……いいえ、ひょっとすると本当に愛せるのかもしれません。あくまで人間の皮のほうを。しかし、どこまで姿を
やっと言葉にできた。人間である私が愛されることと、アルラウネである私が愛されることは全く異なる意味を持つ。
人間になった私が愛されたとして。彼は「人間になった私」のみを愛し、アルラウネを拒絶したことには変わりない。昔はそれでもよかった。許せなくなったのはいつだろう。昨日の、願いを意識したときだろうか。
私はゆっくりと視線を下げる。床に落ちていた薬草の切れ端を
私が私である限り、私は私から逃げられない。影は呪いのように付いてまわる。彼の記憶のなかにも私はいる。手遅れなのだ。正しく
自分で言っておいてあれだけど、悲しくなるね。恋愛の目的が種の存続である以上、その見込みがない他の生物に恋をする確率はゼロに等しい。
すると次なる疑問が浮かぶ。
なぜ私は、彼を愛しているのだろう。やはり私だけが異常な個体か? アルラウネ全体がそうなのか? アルラウネにとって人間は種の存続とは無関係。……いや、ある。人間は主食だ。人間がいなければ生きられない。捕食と愛。
思えば、私は人間の
ということは、はじめから人間を愛するようにプログラムされていたとして、どこに矛盾が生じ
目を
居ても立ってもいられない気持ちになる。はやく彼に会いたい。一刻もはやく。
「アイルも大人になったのね」とフーカが言った。
「
「一皮むけたって言いたいの?」
「たぶん」
心が
「あとね、あんたの魔力は
何やら含みを持たせた言いかたに、私は
「あたしが間違いじゃない、と言ったのは、正解でもないからよ。おもに恋愛のくだりね」
「というと」
「この世の万物が合理ではないの。心というものは、あんたが思い込んでるほど厳密で大層なものじゃないわ。たとえば、あたしが適当に動かした小指に興奮して、求愛行動を始める魔物がいたりするのよ。人間も似たようなもので、弱っていれば
そこで区切り、彼女はやや口角を上げた。
「あんたにしてもそう。恋心がプログラムの産物なのだとしたら、クエレだけを好きになるっておかしな話でしょう。選ばれるだけの魅力ある? あいつに」
「ないですね、確かに」
私は数えきれないほどの男性を殺めた。そのなかで彼だけを好きになったのが、アルラウネの本能によるとは言いがたい。
「ね、非合理でしょ。アイルがあいつを好きになったのは、遺伝子のせいじゃない。あんたが決めたの」
「私が決めた」
「そう。本能のせいだから仕方ないと決めつけるよりも、ちゃんと悩んで、そうやって伝えた言葉のほうが、ずっと綺麗に届くのよ」
「……あなたは、いい人間です。かれが言っていた通りの」
「ひどい女よ。結局、答えはあいつ次第なんだもの。それなのに期待を持たせるようなことを言って、平気でいられるひどい女」
平気でいられると自嘲するわりには
「でもゼロじゃないって、私は、誰かに言われたかったのですから」
誰かとは、人間だ。彼と同じ人間である誰かに背中を押されたかった。彼女は口元を押さえ、「ごめんね」とすすり泣いた。なんだか小さく感じられる恩人を抱きしめ、いい匂いのする頭を撫でた。
「いいんです。もともと、実らないのは知っています。
私のことをいちいち気に病む必要はないのだ。いきなり生えた
「……魔女が予言する。うつくしい
感極まったのか、よく分からないことを言いだす。おまじないかな。
「葉っぱ食べます?」
「いらない」
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