いただきます
そうはならなかった。
私たちの手前で〈反射〉し軌道を大きく
全身に叩きつけられた爆風と、闇に散らばる無数の羽音。バッタたちが驚いて逃げたのだろう。
私は土の被さった上体を起こし、
「路地裏にへばりついた吐瀉物の気分を味わえたよ」
「まぁまぁ……ここが一番頑丈ですから」
彼を格納した大顎は最も
脳震盪くらいは起こすかも。打ち所によっては死ぬかもしれない。より安全性を求めるなら即座に擬態部と分離させ、種子のように飛ばす必要があったか。
一部の双弓獣(頭蓋骨の側頭部に穴が二つある種族)は尻尾などの末端器官を切り離すと言われるので、私の
しかしと、私は意識を反転させる。先刻の攻撃を
「ひょっとして、僕たちを
「だといいですけど……」
警戒を
老人が
「ご苦労や。ハネツキ」
老人は親しげに蹄獣の名を呼ぶと、角を
従順なようすで
「そこの青いの。夜のリーテリーゼは危険だと習わんかったか? 危険なのはリーテリーゼに限らんが……どうせあんたらも〈火食い虫〉の夜景を眺めにきた異邦人だろ。夜間は〈火〉を
老人が杖を振る。〈火〉の魔法に反応してあちこちが青白く点灯する。しっかりと整備された
光源は〈火食い虫〉という昆虫種である。この虫は〈火〉を食らい発光する性質を持ち、その光には魔除けの効力があるらしく、直視すると受け入れがたい嫌悪で
虫唾が走る、というほどでもないのは、街の魔法に慣れすぎてしまったせいかな。
「知ってはいましたが、僕は……」
そこで言い
魔力の供給が断たれると
「不能の者か。それは申し訳ない。であれば尚更、外界では気を引き
不能者とは失魔症患者の蔑称だが、それを意識しての発言ではなさそうだ。
「責めるなら私にしてください。かれは悪くありません」
自責の念に駆られて申し出る。あの程度の数の昆虫や、たかだか草食獣が放つ一矢
「ほう。お前さんは人間の皮を被り、人間の言葉を話す魔物かね」
「私は、アイルです」
「アイル?」
「僕が彼女に付けた名前です。〈
変わり者の彼にだけは言われたくなかった。
「心外ですね。私はふつうのアルラウネ」といって、少女の唇を
「今のは言葉の
「トクベツ」
褒められたとわかり嬉しくなった私は、トクベツ、と
「恩人が挨拶にきたね」
彼は、鼻同士を擦り合わせようと近寄るハネツキを撫でていう。次いで私のほうに。
腹でも空かしたのか、私の匂いを
「やめてもらえませんかね」
どこぞの鳥野郎の既視感にうんざりしながら、鼻づらを噛んでやると情けない声を上げ、飼い主のもとに逃げ帰った。
フラれちまったみたいだな、と
「改めてハネツキの非礼を詫びよう。お前さんが人間を襲っていると早とちりしたもんでな」
ひ
「なんでもいいですけど、
これもこれで私にとっては大事だった。人間の姿でいるといつも髪の毛ばかりだめになるのはなぜでしょうか。
「〈水〉で洗ってやると言いたいが、お前さんに掛かっている魔法はちっとばかし質が良すぎる。他人の魔力で
「そういうことだったんですねえ。じゃあ、くさいままで」
可愛いほうを優先した。当然である。
「……僕もきみの粘液でべとべとだし、お揃いでいいんじゃないか」
謎のフォローをしてくれる彼。一緒にべたついて何がいいんですか? それとも私の粘液がくさいとでも言いたいんですか?
まぁ、それよりもだ。
私は
「この
老人は、あぁ、と掠れた声をだす。
「ペガサスは絶滅した。こいつは生き残りだがユニコーンとの混血でな。とうに翼としての機能は捨てちまってる」
「どうりで」
空を
「魔力汚染による気候変動が絶滅の原因だと言われているよね」と彼がいう。
「人間のせいだったんですか」
世界では魔力汚染が進行している、というフレーズがでかでかと強調された雑誌が街の書店に並んでいたな。
人間による魔法の使いすぎが自然の魔力に悪影響を及ぼしているのだそう。信憑性には欠けるけれど、魔力自体が希薄になりつつあるのは事実だ。近年、急速に
それは単に惑星の周期に過ぎないとする説や、人間という単一の種のみが原因にはなり得ないといった否定派も数多く存在していて、陰謀論やら
「一説ではな。わしらだけとも限らんよ。もともと空でも陸でも中途半端な生き物だった。グリフォンには勝てず、人間の罠やアルラウネの餌食にされちまったり……環境など変わらんでも、遅かれ早かれ
夜風が吹く。
消化液もくつくつと空腹を告げる。場違いに大きく
「ごめんよ、肉はこれから探さないと」
「そうですか……」
お互いに
「バッタの駆除に向かいがてら、これで
*
老人の案内で訪れたベースキャンプには、簡素な造りのテントと
「そりゃ、昔の呼び名だ。狩猟の仕事はみんな魔術師に取られちまった。今では害虫駆除に落ちぶれた
寂寥めいた火影が頬の傷痕を隠している。老人はゆっくりと手を伸ばし、
「しかしおかげで助かりました」
「このへんの魔物はバロメッツの花粉に耐性があるはずなんだが、外来種のバッタどもは別でな。花粉を浴びると
「悪食にさせる花粉ですか」
「バロメッツは〈幻覚〉の力を持つ植物ですからね」と私が答える。
根が薬草である反面、葉や花粉には強い幻覚作用があり、それによる束の間の快楽を味わう嗜好品としての用途で親しまれる。一方で量を
幻覚耐性を持つ私には独特の臭みを持つ植物……まぁ、ちょっと苦手な隣人みたいな感覚かな。
しばらくすると、老人が魔道具に〈収納〉していたウルクスを
香ばしい匂いが立ちこめる。
美味しそうだなぁ。
人間だったら、もっと美味しそうなんだろうなぁ……。
無意識に人間の味を想像してしまう自分がいて、得体の知れない恐怖に足が
ここに居るべきじゃない。焼きあがる頃合いをみて、そっとその場を離れようとした。
「肉は食べんのかね」と老人が呼び止める。
「いえ……お小水に行きたくて」
「植物は用を足さんだろ」
返答が思いつかなかった。やり取りをみていた彼は何かを思案するように首を
「急ぐべき用事が見つかったのかい?」
「……フーカさんがバロメッツを欲しがっていたのを思い出して。人間には厄介な植物ですし、火があるうちに
私は嘘をついた。全てが嘘ではなかったが、このときの気持ちは嘘だった。彼が肉を用意し忘れたと知ったとき、気を落とすふりをしながらも内心では喜んだのだ。
彼の前で肉を食べなくていい、これは僥倖だ、と。食わずには生きられないが、一日くらいなら我慢できる。
今更なのはわかっている。出会いから食べ続けてきた。遠慮は不要だ。けれども、わけもなく逃げ出したくなった。
動悸と痛みを感じた。
せめて私が、少女の姿でいるうちは。
「わかった。気をつけていっておいで」と彼は疑いもせずにいった。そこに低い
耳を
私は
私は弱くなった。彼と離れたいだなんて思いもしなかったのに。いつからこんなにも弱くなったのだろう?
故郷たる森ならば、弱くなった自分を
森のなかに独りぼっちでいるのは随分と久しぶりで、気が楽で、とても寂しくて、どうしようもないから夜空に
空はただ何も言わず、深い漆黒の瞳で私を見下ろしている。やけに暗いと思ったら、いじわるな雲が月光を独り占めしたのか。これじゃあ、暇潰しもできないな。
辺りを照らす青白い光が細くなりだしたくらいに、それを
まだ火は
もう少し、このままでいよう。
『お前さんは悩みでもあるのかね』
突然降ってきた声に驚く。知らず知らずうたた寝をしていたのか。声の主は老人だった。
「あなたは、魔物の言葉が話せるのですか?」
「風の民はみな、話せる。古来より風に道を
「へぇ」
生い立ちにはさほど興味がなかったので軽く流し、私は老人のほうに身体を向け、魔物の言葉で返す。
『あなたも変な人間ですね。魔物の私に悩みの有無を聞くなんて』
私に名前を
炎越しに杖を立てた老人は、
『わしの知る限りでは、肉を
はっとなって固まる。
「変なのは、たしかに、私のほうかもしれません……」
ほほう、と老人は
渡された木器を曖昧に笑って受け取り、そのまま捨てた。酒は飲めない。アルラウネに飲まそうとするな。
「ワケを話してみんか。酒の
面白半分で打ち明けるほど安い悩みではない、つもりだった。だが迷った末、洗いざらい話してしまうことにした。
人間を食らい生きた過去。はた迷惑な彼との出逢い。山火事や逃避行を経て、魔物でありながら彼を愛してしまったこと。強さゆえに彼を痛めつけたこと。彼以外にも大切なひとができたこと。かつてそのひとたちの命を奪い、あまつさえ餌と
私はどこから間違っていたのかも、なにを正せばいいのかもわからなくなっていて、それで……。
吐き出して楽になりたかった。
誰かにぶちまけたかったのだ。心の奥底に
旅先で出逢っただけの、たったそれだけの縁で結ばれた他人だからこそ、
一通りの話を聞き終えた老人は、
「私のはなし聞いてましたか?」
「食え」
「あの、だから……」
「いいから食え。生きることに
「だッ、誰がッ、泣いてなんかッ……!」
「ウルクスの肉はどうだ」
「……美味しいですよ。好物ですから」
「不合格だ。もっと食え」
杖で地面を叩く音が二度ばかり届き、魔法で〈浮遊〉した肉が次々と運ばれてくる。
「むぐッ……なんのつもりですか」
入りきらない分を蔓で
「立派な
欠片ほどの悪意も宿さぬ綺麗な
「感じてますよ、熱いです。食べやすい温度です」
おもむろに杖の先端を向けられる。魔法の解けた肉が、私の手元に落下する。じんわりと熱が伝わる。
「では忘れるなよ、そいつが命だ」
「いのち?」
「命は
私は声が出せず、唾を飲み込む。なんだ、この、喉の
「……お前さんよ、生きることはそんなに恥ずかしいかえ?」
「そこまでは……」
厚く硬い手が近づき、私の頭にぽんと乗る。大人が幼子を
「なら、お前さんはこの先、殺した命は骨の
言葉に圧倒されそうになり、私は、私のなかに
「あなたの考えは正しいのかもしれません。でも……、私はっ、人間が食べたいんです。……いまでも」
どれだけ
「辛抱ならんなら、初めにわしを
だから、全部、わしが
「はい」
「よし、えらい子だ」
「えへへ」
「命に不誠実な生きかたをするな。それだけ覚えていればいい。わしらは生まれてしまったからには、生まれてしまったのだ」
「最後のは意味不明ですよ」
不覚にも笑ってしまった。胸がすっと軽くなった。仮に相談相手が彼でも、フーカでも、ジェイドでも私は受け入れてもらえたのだろう。なにせ身の回りにいるのは優しすぎる人たちだから。
だが全くもって不思議なことに、この
フーカたちの優しさは、
対して老人の優しさは、血で
狩猟とは森の
太陽と違って、人間はひとりじゃない。フーカが教えてくれた言葉の意味がやっとわかった。
栄養不足がひとつ解消されたみたいだ。しかし成長と呼べる段階に至るには足りないのだろう。
ゆっくりでいいのかな。
「いただきます」
私はウルクスの肉を
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