馬鹿はそんなに悪いですか
その時、夕空の
施錠された扉を叩いても返事がなかった。フーカの顔が思いつめたようにこわばる。
嫌な予感が止まらない。
こういった予感というものは、
仕方なく魔法で〈開錠〉し、中に入ると床に
フーカが駆け寄り、彼を抱きすくめた。紫がかった唇の端で
意識が
「あんたは近寄るなッ!!」
鋭い声が
「うぅ……」
酷く身体を打ちつけた痛みに
失魔症は
コルク栓を抜き、どろどろの液体を少しずつ彼の口内に流し込む。
「〈森毒〉の症状よ。それもかなり進行してる」
森の魔物が原因とされる魔力中毒の一種だ。症例には猛毒のアルラウネとの接触歴が多く、その別名は〈アルラウネ症〉である。
「そんなはずは……だって私には毒は……」
肉食性のアルラウネは、進化の過程で捕食機構と高い魔力を得たことにより、不要となった猛毒を捨てたはずだった。
「そうね。あんたに猛毒はないわ」
「ならどうしてッ……!」
「でも毒はあるのよ。アルラウネの毒は魔力由来のもの。生物毒と似て非なるのは当然のこと。あんたの
アルラウネ種の母体として知られる草食性アルラウネは、花弁と細い触手を有する以外に私との類似点が見当たらない。根を退化させ、
私に名前がなかった理由は、私の種はもともと魔物として生まれたのではなく、この草食性アルラウネの餌として繁殖するよう、アルラウネ自身が
今、こうして私が思考できているのは、先祖が突然変異によって魔物化してくれたおかげだった。
つまるところ何が言いたいのかというと、私は猛毒のアルラウネから生まれてきたわけで、その毒の一部を受け
「万が一、私の魔力に毒があったとしても……魔法医学の文献によれば、私の種による症例はゼロじゃないですか」
「じゃ、あんたが一例目」と彼女は冷たく言い放った。「あたしたちは〈霊的中枢〉と呼ばれる器官で魔力を生成しているんだけど、ここには免疫みたいな機能があって、無意識のうちに抗体を作ってくれているの。あんたくらいの毒だと赤ん坊でも無毒化できるから、実質的に無毒ともいえるんだけど……」
フーカの言わんとしていることがわかってしまった。確かに私は無毒なのだ。魔力を持つ人間にとっては――という大前提において。
「かれが失魔症だから」
魔力がない彼は、同時に抗体もない。赤子ですら無毒化できる程度の毒にさえ、対抗できず身体を
「失魔症は魔力的な免疫不全でもあるのよ」
魔法には耐性があるんだけどね、と彼女は付け加えた。私の毒は魔法じゃない。ゆえに彼にも効いてしまう。〈森毒〉は水面下で徐々に進行し、臨界に達すると
失魔症と異なり魔法薬による治療法が確立されているとはいえ、長期的な服薬を必要とするほか、原因となる魔物との接触を避けなくてはならない。
「ええっと……」
私は
「クエレとは離れて暮らしてもらうことになるわ」
目の前が真っ暗になった。
「……嫌っ、……です……」
彼と離れて暮らす? この人は何をいっているんだ? と耳を疑った。言葉の意味などわかりたくもなかった。
なぜもっと早く、私に言ってくれなかったのだ。これほどまでに進行しているのなら、どこかで初期症状があったはずだ。
薬の量が増えたのも、フーカが頻繁にやってきたのも、二人で出掛けることが増えたのも、それがそうだと言うつもりか。
「クエレが死んでもいいわけ?」
責め立てるように語調を強めるフーカに合わせ、彼の
「それはぜったい……いやぁ……」
普段なら駄々をこねる子どもと区別がつかないと自嘲するところだが、これが精一杯で、ありったけだった。あとは
「あんたは自分の強さを自覚しなさい」とフーカが
私は耳を
絶望に打ちひしがれ、
私が
彼が弱く、私が強かったせいだ。どちらかが欠けていたとしたら、こんなことにはならなかったのに――。
どちらかが欠けていたとしたら? そこで、私は
「……私の魔力がなくなればいいんですね?」
考えてみれば、単純な理屈だ。私の魔力が彼を苦しめる諸悪の根源なのだとしたら、その
フーカの話でいうところの霊的中枢(魔力の心臓)とやらを破壊し、私も魔力を失えば問題は解決する。
ゆらりと
自分でいうのもあれだが、私の再生力は驚異的であるから、念のため完全に破壊し
表皮を
中枢をひと思いに
「そうはさせねえ」
空間を引き
しかしどれだけ乱暴に振りまわしても、万力のごとく締め上げる巨腕は微動だにしない。
「離してくださいッ!」
なんで私の邪魔をするのだ。魔力の吐息を漏らしながら抵抗する。掴まれた
「頼まれて離すならここに来ねえだろ」
ふらふらと立ち上がりながらもさらに巨腕の握力を強めた。魔法で衝撃を緩和したようだ。
当然だ。これでも手加減している。魔物が本気で殺しにかかれば、人間
私は強引に蔓を
「これは警告です。その手を
言いながら
「やれるもんならやってみろ」
ジェイドは
「あんたらが争っても病気が治るわけではないでしょうに。クエレが余計に苦しむってわからない?」と彼女は私たちを
反論できずに
「離ればなれになるよりはいいです」
嘘偽りない本心だ。死など怖くなかった。それよりも彼と居られなくなるほうが怖かった。
「おまえが死んだらクエレが悲しむだろうが」
ジェイドはそういって魔法を中和し、よろめく体勢を整えた。
どいつもこいつも正論ばかりで攻撃しやがって。何ひとつも
「やってみないと分からないじゃないですかッ……!」
今まで必死に食欲を我慢し続けて、その結果、彼を苦しめていただけだなんてあんまりじゃないか。
そんなの絶対に認めたくない。
怒りと共に膨張する魔力が
頸部が砕けないよう〈強化〉したらしいが、魔力量で劣る人間が力尽きるのは時間の問題だ。それに
「だめだよ、アイル」
彼の声がした。弱々しく
しかしそこに一陣の〈風〉が吹いて、絵画の破片が
無惨にもぐしゃぐしゃになった彼の作品をみて、私は正気に戻った。作品を壊すことは、彼を殺すことと同義である。
なんてことをしてしまったのだと、後悔の念が
「ごめんなさい……」
フーカは深いため息で返した。
「これだから強いヤツは困るのよ。何でもかんでも力で解決しようとする。馬鹿で粗暴で短絡的。救いようがないわ」
確かに私は馬鹿かもしれない。
最善策を取るなら、そりゃあ、おとなしく森に戻るべきだろう。けれど二人で暮らすことの楽しさを知って、今更、ひとりで森で生きるのは嫌だった。
嫌だったから馬鹿なりに考えたのだ。
私の強さが彼の苦しみの原因だとして、その強い私が、弱い彼とこれからも一緒にいるためには今ある牙を抜くしかなかった。
「馬鹿はそんなに悪いですか……でも仕方ないじゃないですか……私にはっ、これしか……」
これしか思いつけなかったのだ。彼を傷つけないやり方で、私が幸せを手にするにはこれしかなかった。彼と同じ失魔症になるしか……。
「ほんとに馬鹿ね」とフーカが笑った。「知性があるなら他人を頼りなさい」
声に
「今日からあんたは、あたしのペットよ」
全てはこのための行動だったのだとようやく理解し、胸の奥がじんわりと温まって、末端に生じた
涙は流せないけれど、もしも私が人間だったら、彼らの姿はひどく
「あのっ……お願いします」
首輪を
「言っとくけどクエレに会わせて欲しけりゃ、あたしに絶対服従でいること。たまに魔法薬の材料にもなってもらおうかしら」
「虐待じゃないですか」
「主人に不満でもあるわけ?」
「いえ、全然」
「よろしく。ま、あんたが嫌がっても、初めからそういう取り決めだったけどね……クエレ?」
目を覚ませというふうに、フーカが彼の頬を二度叩いた。
「……うん。アイル、黙っていてごめん。もっと猶予があると思ってたから、きみにはぎりぎりまで知られたくなくてさ」
「そこはいいんです」
むしろ嬉しかった。二人で出掛けていたのが、恋愛がらみの
そうかそうか、交尾してなかったか。交尾くらいはどうでもいいけどね。彼がフーカを好いてさえいなければ。
「おまえら俺の心配はなしか」
ジェイドの文句が聞こえたような気がしたけれど、私たちはこれを黙殺した。
ひとしきり笑いながら、これから彼との日常を失ってしまうことを思い、心にぽっかりと
でもこの大きな空洞を埋めてくれるものができた。大切なひとは、彼だけではなかったということ。
ワタシ、フーカサン、ダイスキ。なんて言ってみたり。
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